正論も休み休みに言え:正論が過ぎると生きづらい

投稿日:2017年7月19日 更新日:

本記事では、こころ楽しく生きるために役立つ考え方について書いています。

本記事の内容

  • 正論が過ぎると生きづらい
  • 正論が過ぎると生きづらい時はどうする?

ぼくは作業療法士であり大学教員です。仕事柄、人間関係のトラブルについての研究や講演活動を行っています。

そんなぼくが心楽しく生きる考え方について「正しさ」の観点からサクッと解説します。

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正論が過ぎると生きづらい

こころ楽しく生きるには「正論も休み休みに言え」という感度が必要になってきます。

いろんな先行研究が示しているように、信念対立の多くは正しさをめぐる争いです。

正しさを攻撃の理由にすると信念対立が生まれる

ぼくたち人間は「正しい」という感度をもつと、そーでない人たちに対して厳しくふるまいます。

本来、正しさは自由と平等をめがけるものの、どこかでねじ曲がって正しさは攻撃の理由として機能しちゃうのです。

そーゆー人間関係を作ってこころ楽しく生きられる人は、極めてマレです。

正しさをめぐる争いがあると緊張した人間関係になるわけですから、正しい人もそーでない人もこころ楽しくなりがたくなるからです。

本来「正しい」自体は間違いではない

でも、正しいはそれ自体が間違っているわけではありません。

間違っていないのです。

ただ、それが過ぎると生きづらくなってしまう。

ではどーしたらよいか。

正論が過ぎると行きづらい場合はどうする?

結論:「正論も休み休みに言え

正しいは、どこかで攻撃性をはらみがちになるので、いつも正論ばっかりいっていると周囲に緊張した状態を作ります。

緊張は他者にだけでなく、自分にも影響を与えることになって、正しいの果てにとても生きにくい状態をもたらします。

昔の人は「馬鹿も休み休みに言え」と言いましたけど、馬鹿にうまく生きられないという意味が含まれるならば、それはきっと「正論も休み休みに言え」という意味あいも含まれていたのではないかと思います。

正しさはいつも成立するわけではない

プラトンの「善のイデア」

また正しさはいつでもどこでも成り立つものでありません。

大哲学者のプラトンは「善のイデア」という原理を示しましたが、これは「正しい」の基準を掘りさげていくと必ず「〜にとって」という基礎にたどり着くという視点をもたらしたところに意味があります。

善のイデアは、正しさはそれ自体が正しいから正しいのではなく、実のところもっと深いところで「私にとって」「あなたにとって」「社会にとって」正しいというように相関的な構造のもとでなりたっている、ことを示しているのです。

そー考えると、私が正しいと感じるから他人を攻撃するというのも、ずいぶん下品なしだという理解に至れるはずです。

まとめ

あなたが正しいと感じるのと同じように、他の人は別の頃に正しいと感じているのですから、そーゆー間柄のもとでは正しさは人それぞれと考える他ないからです。

そして、(私にとって)正しいを論拠に周囲と緊張関係を作って、しんどい思いし過ぎるったってしょうがないじゃないか、という理解をもたらすでしょう。

こころ楽しく生きたい人は「正論も休み休みに言え」という感覚をどこかで保つようにしておきましょう。

信念対立解明アプローチ

本記事の背景にある理論的立場は信念対立解明アプローチという哲学的実践論です。

詳しく知りたい人は以下からどうぞです。

-信念対立解明アプローチ
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