本記事では「何のために生きているの?」という悩みに対して答えています。
本記事のポイント
- 「何のために生きているの?」という問いには、人生には目的などないと答える他ありません
- 人生は生きたいように生きるしかないので、上手に欲望を解放できるようになろう
生きたいように生きる
人生に何か目的があると考えがちですけども、よくよく考えていけばそんなものはありません。
オギャーっと生まれて、死ぬまで生きたいように生きるしかないだけです。
人間は何事にも意味を見つけたがるので、そのフックである目的を探し求めがちです。
けども、それは思考のクセのようなものであって、人生に本当の目的があるからそうなっているわけではありません。
かりに、人生に何らかの隠された目的があると仮定しましょう。
すると、人生はその目的を達成するための手段に過ぎないことになります。
これって、どー考えても本末転倒です。
さて、生きたいように生きることを、人は自由と呼びます。
寝たいから寝る、腹が減ったからメシを食う、遊びたいから遊ぶ、仕事したいから仕事する。
ほら。そう言われると、自由を感じちゃうでしょ?
生きたいように生きる状態は、自由の感度をもたらすものなのです。
上手に欲望を解放しよう!
自由とは欲望を解放することです。
何らかの欲望を解放し、それが満たされると自由を感じるんです。
寝たいから寝る、も欲望の解放の一種。
で、自由=欲望を解放していると、他の欲望を解放している人との間で何らかのかたちでトラブル(信念対立)が生じます。
トラブルがその人にとって生きたいように生きることならば、止める理由はない。
けども、中長期的にみるとトラブルは自由を阻害するものです。
だって、「あれやったらモメル」とわかると、それをするという選択肢はだいたいなくなりますから。
なので、トラブルにならないように、上手に欲望を解放する必要性がでてきます。
単純に考えれば、上手に欲望を解放するためには、他人に迷惑をかけない限りにおいて、という限定をつけることになります。
でも、他人に迷惑をかけない限りにおける自由ってめちゃくちゃ狭いです。
存在が迷惑ということもあるので、この制約は実質的に自由をつぶします。
許容可能な迷惑を見極める
なので、プラグマティックにはお互いにとって許容可能な迷惑はかけてもよいという明示的・非明示的な合意を見つけておき、その範囲の中で生きたいように生きるとしたほうがいいでしょう。
許容可能な迷惑は関係性によって決まります。
例えば、うちのチビが臭い屁をこいても「おっ!今日も元気に屁をこいているね♡」としか思いませんが、知らないおじさんが満員電車で臭い屁をこいたら「降りるまで我慢せーや!」としか思えません。
このように、それぞれの関係性の中でダイナミックに、インタラクティブに、そしてプロセスとして規定されるのが、お互いにとって許容可能な迷惑なんです。
それは、対話、忖度、雰囲気などによってその都度成立するものです。
なので、生きたいように生きるには、周囲の人との解明的なやり取りがとても重要で、お互いにとって許容可能な迷惑を見極めていく必要があるんです。
え?
「お互いにとって許容可能な迷惑を見誤ったらどうすんの?」ですって?
そりゃ、自分で責任をとるしかないじゃないですか。
生きたいように生きるとは、その結果責任を自分で引き受けることとセットですよ。
人生って生きたいように生きるしかないのに、なかなか厳しいですね。
まとめ
人生に何らかの本当の目的があるというのは錯覚で、原理的に考えたら生きたいように生きるしかありません。
生きたいように生きるとは、欲望を解放することです。
でもそれをそのままやるとモメるのは必至。
なので、お互いにとって許容可能な迷惑をその都度見極めながら、上手に欲望を解放していきましょう。
信念対立解明アプローチ
本記事の背景にある理論的立場は信念対立解明アプローチという哲学的実践論です。
詳しく知りたい人は以下からどうぞです。
-
-
【2019年】信念対立解明アプローチ入門【開発者が語る】
きょうごく本記事では「信念対立解明アプローチってどのような理論ですか?」という疑問にわかりやすくお答えします。 本記事の内容 初心者向けに信念対立解明アプローチの概要を解説 信念対立解明アプローチのメ ...
続きを見る