
こんな方におすすめ
- やりたいことがない
- 自由に不自由を感じる
やりたいことがない方へ。
自由なのに不自由を感じていませんか。
けどそれは、自由のとらえ方が偏っているからかもしれません。
自由への認識が変わると、自由の不自由が和らぐものですよ。
やりたいことがない!自由は不自由!?って人でも「嫌なことは嫌だ」と言える自由は不可欠
上記の問いに答えるには、いくつかの理路を追う必要があります。
先に結論を示しておくので、それに了解したい人は理路を追ってもらえたらと思います。
やりたいことがない人も、その逆の人も自由は重要です。
その中に「嫌なことは嫌だ」と言える自由の感度が含まれるからです。
それがなくなると、やりたいことがない人も、その逆の人も幸福感がだだ下がりで、生きる希望を失いかねないです。
自由のとらえ方を押し広げて、やりたいことがない人も「嫌なことは嫌だ」といえる自由の感度を担保するために頑張りましょー。
では、以下しばし理路にお付き合いください。
なお、後半は具体的な対策について解説しています。
自由には「嫌なことは嫌と言える」感度が含まれる
自由には「嫌なことは嫌と言える」感度が含まれます。
自由とは、上手に欲望を解放できると感じられることだからです。
なので、以下も自由に含まれます。
具体例
- やりたいことがある→実際にやれると感じる
- やりたいことがない→何もやらなくていいと感じる
- 嫌なことがある→嫌だと断れると感じる など
このように、自由はやりたいことがあって、それを実現できる感度がともなうだけではないです。
見落としがちだけども、やりたいことがないからやらないというのも自由です。
また、嫌なことがあるから、さくっと断ることができるというのも自由です。
嫌なことは嫌と言えるというのは非常に重要
「やりたいことがある」または「やりたいことがない」のいずれの人にとっても重要なのは、「嫌なことは嫌です」とさくっと断ってもいいという感度です。
この感度がないと、いずれに人にとっても人生はハードモードになるからです。
よくわからない人は以下のケースを考えてみてください。
具体例
- やりたいことがある→嫌なことやらされそう→嫌なことは嫌だと言えない
- やりたいことがない→嫌なことやらされそう→嫌なことは嫌だと言えない
ちょっと想像したらわかるけど、どちらも幸福感だだ下がりですよね。
逆に、以下のケースを想像してみてください。
具体例
- やりたいことがある→嫌なことやらされそう→嫌なことは嫌だと言える
- やりたいことがない→嫌なことやらされそう→嫌なことは嫌だと言える
これなら、やりたいことはあってもなくても、幸福感はだだ下がりにならないですよね。
そう考えるとですね、自由の感度って嫌なことは嫌だとはっきり言える自由に支えられている、といえそうだとなるわけです。
人生の目標は心楽しく生きることなので、嫌なことは嫌だと言える自由の担保はとても重要である
人生の目標ってなんだと思いますか?
人によっていろんな回答があるかと思いますが、究極のところ人生に目標はありません。
ぼくらは、ただ生きるために生きています。
なので、この問いに答えるには、観点を定める必要ありです。
そうしないと、何も答えられないんです。
で、観点を定めてみると、例えば、生物学的に考えたら「遺伝子を残すこと」といえそうです。
作業療法学的に考えたら「意味のある作業に取り組むこと」となるでしょう。
さまざまな観点の基底にある実存(人間存在)のあり方から考えたら、それは「心楽しく生きること」になるというのが、ぼくの考えです。
幸福感がだだ下がりになれば、生きること自体を諦める他ないからです。
そう考えたら、ぼくらは個々人が幸せになるために生きている、という話になってきますよね。
自由に対する向き合い方は個々人によって違います。
けど、自分にとって嫌悪感を覚えることを避けられない、、、という事態は観点が違っても幸福感だだ下がりという点において共通しているはずです。
そう考えたら、やっぱ嫌なことは嫌だと言える自由の担保はとても重要です。
やりたいことがない人も、その逆の人も嫌なことは嫌だと言えるようになるにはどうしたらいいか
では、やりたいことがない人も、その逆の人も嫌なことは嫌だと言えるようになるにはどうしたらいいでしょうか。
嫌なことは嫌だと言えることは、人生の目標である「心楽しく生きること」を達成するために不可欠ですから、この問いはとても重要です。
上記の問いに答えるために、本記事では以下のポイントにしぼって解説します。
ココがポイント
- その①:意見は人それぞれ違うと思い定める
- その②:意見が違ったときに他人を攻撃しない
- その③:自分に優しく、他人に優しく
以下それぞれ解説します。
その①:意見は人それぞれ違うと思い定める
やりたいことがない人も、その逆の人も「嫌なことは嫌だと言える」ようになるには、意見は個々人で異なるということを大前提にする必要ありです。
これが前提にないと、自分も他人も「嫌なことは嫌だ」とさくっと言えなくなるからです。
例えば、意見は同じが前提にあると、意見が異なったときに「なぜわからないんだ!?」となって、批判・否定を呼び起こします。
しかし、意見は違って当たり前が前提にあれば、意見が人それぞれ違っても無問題です。
だって、それがデフォルトの世界なんですから。
なので、やりたいことがない人も、その逆の人も「嫌なことは嫌だと言える」ようになるには、個々人で意見は異なって当たり前だという認識を大前提にもつ必要ありです。
その②:意見が違ったときに他人を攻撃しない
また、やりたいことがない人も、その逆の人も「嫌なことは嫌だと言える」ようになるには、意見が違うことは攻撃の理由にならないと理解していくべしです。
というのも、口では「人それぞれだよね〜」と言いつつも、自分と異なる意見を持つ人に対して妙に攻撃的になる方がいらっしゃるからです。
例えば、Aさんは「カレー食べたい」、Bさんは「寿司が食べたい」と言ったときに、それは「攻撃の理由にならない」と理解しておいてほしいんです。
これは事実ベースなので「そんなん当たり前や!」と思うかもですが、価値ベースの話になるとその当たり前が通じない人が散見されます。
Aさんは「他人にギブすることが大事」といい、Bさんは「自分のために頑張ることが大事」というと、なぜか「あいつはわかっていない」と言い出したりするので、それは事実ベースと同じくおかしな話ですよ、と理解しておくべしです。
こんな感じで、やりたいことがない人も、その逆の人も「嫌なことは嫌だと言える」ようになるには、意見の違いは攻撃の理由にならないと理解しておきましょうね。
その③:自分に優しく、他人に優しく
やりたいことがない人も、その逆の人も「嫌なことは嫌だと言える」ようになるには、自分にも他人にも優しくなりましょう。
優しくない人は「嫌なことは嫌だ」というと、「わがままを言っている」と感じる人がいて、それがネックになって嫌なことは嫌だと言えなくなるからです。
例えば、自分に優しくない人は嫌なことがあったら「我慢しろ!」となっちゃいがちです。
もちろん、他人に優しくない人も嫌なことがあったら「我慢しろ!」となっちゃいがちです。
ところが、自他に優しい人ならば、自他の感じかたに配慮できますから、嫌なことに嫌だとなったらあるがまま認めることができるので、「嫌なことは嫌だ」といいやすい風土を育みやすくなります。
こんな感じで、自分に優しく、他人に優しくをモットーにするようにしましょー。
まとめ:やりたいことがない!自由は不自由!って人でも「嫌なことは嫌だ」と言える自由は不可欠
本記事では「やりたいことがない。つらい。自由にやっていいといわれても、やりたいことがない。自由って不自由だと思いませんか」という疑問にお応えしました。
やりたいことがない人も、その逆の人も自由は重要です。
その中に「嫌なことは嫌だ」と言える自由の感度が含まれるからです。
それがくなくなると、やりたいことがない人も、その逆の人も生きる希望を失いかねないです。
自由のとらえ方を押し広げて、やりたいことがない人も「嫌なことは嫌だ」といえる自由の感度を担保するために頑張りましょー。