作業療法

作業を見ると、人間の輪郭が見えてくる

京極真
当サイトは広告を掲載しています。記事内に広告・アフィリエイトリンクを含む場合があります。

人のことは、話を聞けばわかる。そう思われることがあります。

たしかに、言葉は人間を理解するために必要です。何を考えているのか。何に困っているのか。何を望んでいるのか。そうしたことは、言葉を通して伝えられることが多いっていうぐらいにね。

けれども、言葉だけでは届かないものもあるよね、、、と思いいたったのです。

むしろ、その人が何をしているのかを見ていると、言葉で説明される前に、こちらに何かが伝わってくることがあるわけです。朝、どのように起きるのかであり、食事をどのようにとるのかであり、机の上をどう整えるのかであり、誰かと話すとき、どのくらい近づき、どのくらい距離をとるのかであり、仕事に向かうときの身体の重さであり、休んでいるはずなのに、どこか休めていない感じであり……。

そういうものの中に、人間は現れるわけです。

もちろん、人間はそんなに単純ではないので、それだけでその人がわかるわけではありません。それはそれでどうなんだ、、、という気がしないでもないですが、外から見えている姿は、その人のほんの一部なわけです。けれども、ほんの一部だから意味がない、ということでもない。

むしろ、その一部に、その人の世界との関わり方が表れるという仮説に到達しました。

人は、何かをして生きている

作業療法という言葉は、一般には少しわかりにくいかもしれないよね、、、と思いいたったのです。

リハビリテーションの一種です、と説明することはできます。日常生活を支援する仕事です、と言うこともできる。仕事、家事、趣味、身の回りのこと、休むこと、人と関わること。そうした作業に焦点を当てる専門職だと言えば、ある程度は伝わるとは思うわけです。

けれども、私にとって作業療法は、生活動作を支援する技術に限定されるものではありません。

人間は、何かをして生きているわけです。

起きることであり、食べることであり、着替えることであり、歩くことであり、働くことであり、学ぶことであり、片づけることであり、待つことであり、誰かを気にすることであり、考えることであり、書くことであり、休むことであり、育てることであり、祈ることであり、諦めることであり、もう一度やってみることであり……。

こう書くと、作業という言葉はかなり広いわけです。広すぎて、かえって輪郭がぼやけるかもしれない。でも、人間の生活は、その広さの中で成り立っています。人は存在しているだけではなく、何らかの仕方で世界に関わっています。その関わりの具体的な姿が「作業 = occupation」なわけです。

だから、作業を見るというのは、動作を見ることに限定されるものではない。

ただね。手がどこまで上がるか。どれくらい速く歩けるか。何分で着替えられるか。もちろん、そうしたことを見る必要がある場面は多々あります。身体の動きや手順や効率を丁寧に見ることは、実践の中で欠かせないわけです。

でも、それだけを見ていると、作業の奥にあるものを見失ってしまうよね、、、と思いいたったのです。

その人は、なぜそれをしたいのか。
それができないことで、何を失っているのか。
それをもう一度できるようになることは、その人にとってどんな意味をもつのか。
あるいは、なぜその人は、それをもう望まなくなったのか。

作業を見るとき、こうした問いがどうしても立ち上がってくるわけです。

できないことの奥にあるもの

人が何かをできなくなるとき、失われるのは機能だけではないわけです。

たとえば、料理が出きなくなる。外から見れば、それは調理動作の問題かもしれません。包丁が使いにくい。火の管理が難しい。段取りが組めない。立っているのがしんどい。そういう分析は必要なわけです。

でも、料理ができなくなった人が失っているものは、、それだけでしょうか。

家族に食べさせてきた感覚であり、自分の暮らしを自分で整えている感覚であり、冷蔵庫の中身を見ながら、今日は何にしようかと考える時間であり、台所に立つことで保たれていた生活のリズムであり、自分はまだ大丈夫だと思える手触りであり……。

何かができなくなると、そういうものまで重層的に揺らぐことがあるわけです。

もちろん、すべての人にとって料理がそうだという話ではありません。料理が嫌いな人もいます。台所に立つことが苦痛だった人もいる。そこを勝手に美化してはいけない。作業を見る側が、自分の価値観を相手にかぶせると、見ているようで見ていないことになるよね、、、と思いいたったのです。

作業を見るというのは、その人の行為をこちらの物差しで意味づけることではありません。かといって、何でも本人の言葉どおりに受け取ればよい、という話でもない。人は自分のことを、いつも正確に語れるわけではないからです。

言葉と行為の間に、ずれがあるわけです。「もう別にいいです」と言いながら、ずっとその作業を目で追っている人がいる。「できます」と言いながら、実際にはかなり無理をしている人がいる。「しんどい」と言いながら、実はやり甲斐を感じている人もいる。「早くやめたい」と言いながら、次に取り組むことを探している人もいる。「やりたい」と言いながら、その前に立つと身体が止まってしまう人がいる、っていうぐらいにね。

そこには、言葉だけではつかまえにくい人間の揺れがあるわけです。

見る側の関心が、見えるものを変える

作業を見ると、人間の輪郭が見えてくる。

私はそう思っているわけです。

ただし、これは少し危うい言い方でもあるよね、、、と思いいたったのです。作業を見れば人間がわかる、と言い切ってしまうと、ちょっと乱暴です。人間は、見えている作業以上の存在なわけです。見えない痛みもある。語られない歴史もある。こちらが見落としている環境もある。本人ですらまだ言葉にできていない願いもある、っていうぐらいにね。

それに、作業を見る側の関心によって、見えてくるものは変わるわけです。

能力を見ようとすれば、能力が見えます。
効率を見ようとすれば、効率が見える。
危険を見ようとすれば、危険が見える。
意味を見ようとすれば、意味が見える。

どれか一つが正しくて、他が間違っているということではありません。場面によって、見なければならないものは変わります。転倒リスクを見なければならないときに、意味だけを語っていても危ない。逆に、生活の意味を見なければならないときに、能力だけを捉えても、その人の人生には届かないわけです。

作業を見るという営みは、見る側も問われる営みなわけです。

なんで、見る側も問われる?
ちょっと面倒くね?

と思うかもですが、自分はいま、何を見ようとしているのか。何を見落としているのか。何を見たくないのか。どの関心によって、その人の姿を切り取っているのか、という問いを持たないまま作業を見ると、観察はすぐに表面的になってしまうわけです。できる/できない、速い/遅い、正しい/間違っている。そうした線引きの中で、人の暮らしがもっている厚みが削られていくことがあるよね、、、と思いいたったのです。

これは作業療法に限った話ではないと思います。

家庭でも、職場でも、大学でも、組織でも、人は他者のしていることを見て何かを判断しているわけです。あの人はやる気がない。段取りが悪い。こだわりが強い。空気が読めない。仕事が雑だ。逆に、きちんとしている。責任感がある。頼りになる。

そういう判断は、たいてい相手の作業を見て生まれるわけです。

でも、その作業の奥にあるものまでは、なかなか見ないよね、、、と思いいたったのです。

なぜ、その人は急ぐのか。なぜ、確認を何度もするのか。なぜ、頼まれたことをすぐにしないのか。なぜ、会議で発言しないのか。なぜ、いつも同じやり方にこだわるのか。

そこには、その人が守ろうとしているものがあるかもしれません。不安があるのかもしれない。失敗の記憶があるのかもしれない。自分の立場を保とうとしているのかもしれない。あるいは、単に疲れているだけかもしれない、っていうぐらいにね。

人間は、思ったよりも作業の中に出るわけです。

作業は、世界との接点である

作業が面白いのは、それが本人の内側だけに閉じていないところなわけです。

作業には、身体がありますし、精神もある。道具もあり、時間もあり、場所もあり、他者もあり、制度もあり、文化もある。お金も、家族も、役割も、年齢も、病気も、過去も、未来も関係してくるわけです。

一杯のお茶を入れるだけでも、そこには多くのものが絡んでいるっていうぐらいにね。湯を沸かす身体の動き。茶葉やカップの選び方。誰のために入れるのか。どのタイミングで出すのか。それを面倒だと思うのか、落ち着く時間だと思うのか。客に出すお茶なのか、自分を整えるためのお茶なのか。

同じ「お茶を入れる」でも、そこで起こっていることは同じではないわけです。

この、同じように見えて同じではない、というところに人間理解の難しさがあります。ただね。同時に、そこに面白さもあるわけです。

作業を見るとは、目の前の行為を通して、その人がどのような世界を生きているのかを少しだけ感じ取ることです。少しだけ、です。全部ではない。全部わかったつもりになると、、たぶん間違えるよね、、、と思いいたったのです。

けれども、その少しが大きいこともあるわけです。

言葉でうまく説明できない人が、作業の中では多くのことを語っていることがあります。本人も気づいていない疲れが、休み方に出ていることがある。諦めが、手を伸ばさない姿に出ることもある。希望が、もう一度試してみる動きの中に残っていることもある、っていうぐらいにね。

私は、作業療法の専門性の一部は、ここにあると思っているわけです。

作業を見ることで、人を評価するのではなく、人間の輪郭に近づこうとする。できることを数えるだけではなく、できないことの中に何が失われ、何がまだ残っているのかを見ようとする。活動を提供するだけではなく、その人が世界とつながる回路をどう保ち、どう作り直せるのかを考える。

これは、専門職だけの話に閉じるには、、少し惜しい視点なわけです。

人間は、何かをしている姿の中に現れる。

劇的な変化ではないですが、その姿はいつも単純ではないよね、、、と思いいたったのです。能力も、意味も、疲労も、歴史も、願いも、あきらめも、少しずつ混ざっている。だから、作業を見るということは、相手を簡単に理解する近道ではありません。むしろ、簡単には理解できない人間に、少し丁寧に近づくための遠回りなのだと思うわけです。

その遠回りの中で、ふと見えてくるものがある。

この人は、こうやって世界につながってきたのか。
ここで、そのつながりが細くなっているのか。
それでもまだ、何かをしようとしているのか。

作業を見ると、人間の輪郭が見えてくる。

でも、その輪郭は線で囲い込めるようなものではありません。近づくと揺れる。見えたと思うと、別の面が現れる。だからこそ、作業を見ることは、人間をわかったつもりになる技術ではなく、わからなさを抱えたまま、それでも見ようとする態度なのかかもしれません。

私は、その態度に、作業療法の深さがあると思っているわけです。

著者紹介
京極 真
京極 真
Ph.D.、OT
1976年大阪府生まれ。作業療法士、博士(作業療法学)。Thriver Project代表。首都大学東京大学院人間健康科学研究科博士後期課程修了。吉備国際大学ならびに同大学大学院教授。人間科学部長、保健科学研究科長。作業療法、信念対立、現象学、構造構成主義、研究方法論、アカデミックライティングを主な関心領域とする。『この一冊でわかる!セラピストのための研究論文の書き方ガイド』『医療関係者のための信念対立解明アプローチ』『OCP・OFP・OBPで学ぶ作業療法実践の教科書』『作業で創るエビデンス』など著書・論文多数。
記事URLをコピーしました