人間のことを知りたければ、その人が何を言っているかだけでなく、何をしているかを見るとよい。
ぼくはそう思っている。
ぼくは作業療法士なので、これまでクライエントにとって意味のある作業の達成を支援してきた。
作業療法は、作業を通して健康と幸福を改善する仕事である。
こう書くと、「そもそも作業って何なの?」と思う人がいるかもしれない。
作業はめちゃくちゃ広い。
仕事も作業だし、家事も作業である。食べる、寝る、遊ぶ、人と話す、勉強する、運動する、休む、本を読む、文章を書く、ぼーっとするなども作業である。
要するに、人が日々の生活の中でやっていることは、ほぼほぼ作業として考えることができる。
だから、作業を見ると、その人がどんなふうに生きているのかがわりと見えてくる。
もちろん、作業を見たらその人のことが全部わかる、という話ではない。
そんなわけない。
人間はそんなに単純ではない。
けど、何をしているかを丁寧に見ていくと、その人の生活の輪郭みたいなものは見えてくる。
ぼくが言いたいのは、そういうことである。
作業名だけ見ても、あまりわからない
作業を見るときに大事なのは、作業名だけで判断しないことである。
これは作業療法でわりと重要なところだ。
例えば、運動する。
本を読む。
料理する。
仕事する。
散歩する。
同じ作業名でも、それをやっている人にとっての意味はぜんぜん違う。
以前、人付き合いが苦手な人について書いたときにも、楽しめる作業は作業名で決まるわけではなく、いろいろ試しているうちに自分にフィットするものに出会う、と書いた。
これ、けっこう大事である。
料理が好きな人もいれば、死ぬほど嫌いな人もいる。
運動すると元気になる人もいれば、「はぁしんど」となる人もいる。
一人で本を読む時間が最高だという人もいれば、一人でいると孤独でつらいという人もいる。
なので、「料理をしている」「散歩をしている」「仕事をしている」という情報だけでは、その人のことはほとんどわからない。
大事なのは、その作業がその人の生活の中でどんな位置を占めているかである。
好きでやっているのか。
仕方なくやっているのか。
誰かのためにやっているのか。
昔から当たり前のようにやっているのか。
本当はやめたいのにやめられないのか。
逆に、本当はやりたいのにできなくなっているのか。
そこまで見ていくと、作業名の向こう側にその人の生き方が見えはじめる。
役割と日課を見ると、生活の形が見えてくる
作業療法の世界的理論である人間作業モデルでは、習慣化を役割と日課から考える。
役割とは義務、日課とはパターンである。
ちょー簡単に言えば、自分は何者として何をするのか、そして毎日どんなふうに行動しているのか、ということだ。
これは人を見るときにもけっこう使える。
朝起きたら何をするのか。
仕事に行ったら何をするのか。
家に帰ったら何をするのか。
休日は何をしているのか。
家族の中で何をしているのか。
職場ではどんな役割を引き受けているのか。
困ったときに誰かに相談するのか、それとも一人で抱え込むのか。
こういうものは、その人の生活にかなり深く入り込んでいる。
だから、病気やけがなどで何かができなくなったとき、単に一個の行動ができなくなるだけではない。
日課が崩れる。
役割が変わる。
それまで当たり前だった一日の流れが変わる。
人との関係まで変わることがある。
例えば、毎日家族の食事を作っていた人が料理できなくなったとする。
包丁を使えるか。
立っていられるか。
段取りできるか。
そういうことを見る必要はある。
けど、それだけでは足りない。
料理することが、その人にとって家族を支える役割だったのかもしれない。
一日のリズムを作る日課だったのかもしれない。
「まだ自分でできる」という自信につながっていたのかもしれない。
逆に、ずっと仕方なくやっていただけで、「これを機会にもう料理なんてしたくない」ということだってある。
ときと場合によりけりである。
なので、できる/できないだけ見ていたら、人間を見ているようであまり見ていないことがある。
意味のある作業は、その人の人生に食い込んでいる
ぼくは以前から、自分にとって意味を感じる作業の達成に取り組むことをおすすめしてきた。
自分が大切だと思うことをやり遂げることができると、自分に自信がつく。
自分に対して自信がもてると、自分の人生を生きることに集中しやすくなる。
これは臨床でも同じである。
だから、ぼくは作業療法士として、クライエントにとって意味のある作業の達成を支援してきた。
ただし、ここでも注意が必要である。
「これは意味のある作業ですね」と専門家が勝手に決めたらダメである。
意味があるかどうかは、作業名だけでは決まらない。
作業療法士にとって価値がありそうでも、本人にとってはどうでもいいかもしれない。
家族が「またできるようになってほしい」と思っていても、本人はもうやりたくないかもしれない。
反対に、周囲から見ると「そんなこと?」と思うような作業が、本人にとってはめちゃくちゃ重要なこともある。
ここは、自分の物差しを相手に押しつけたらまずい。
人間はそれぞれ違う世界観の中で生きている。
だから、同じ作業でも意味は変わる。
これは人間関係とまったく同じである。
同じ時間と空間をともにしていても、世界観が違うから思考・感情・行動は千差万別になる。
作業もそうである。
同じことをやっているように見えても、その人が生きている世界まで同じとは限らない。
作業を見る側も、わりと怪しい
もうひとつ大事なことがある。
作業を見ると人間の輪郭が見える、と言っても、見る側がちゃんと見えているとは限らない。
ここは要注意である。
ぼくは以前、セオリーに忠実になることと、セオリーに支配されることはまったく違う、と書いた。
セオリーに支配されると、目の前にいるクライエントよりもセオリーを重視する。
他方、セオリーに忠実になるというのは、目の前で困っているクライエントの問題を解決するためにセオリーを柔軟に使い倒すことである。
作業を見るときも同じだ。
能力だけ見ようとすると、能力ばかり見える。
危険ばかり見ようとすると、危険ばかり見える。
効率ばかり見ようとすると、遅いとか速いとか、できるとかできないとか、そういうことばかり気になる。
もちろん、それが必要なときはある。
転倒しそうなのに、「この作業には深い意味がありますね」なんて言っていたら危ない。
一方で、能力だけを見て、「できますね」「できませんね」で終わったら、その人の生活はかなり抜け落ちる。
だから、作業を見る側も、自分が何を見ようとしているのかをときどき疑った方がよい。
自分は何に注目しているのか。
なぜそこを見ているのか。
目の前の人よりも、自分の専門知識を見ていないか。
自分が見たいものだけ見ていないか。
ひとりの人間が知っていることや、経験から学べることはたかが知れている。
これは専門家も同じである。
むしろ専門家だからこそ、「わかった」と思ったら眉に唾つけた方がよい。
作業を見るというのは、その人の生活を見ることである
ぼくは作業療法士なので、どうしても人を作業から見るクセがある。
何をしているのか、何ができなくなったのか。
何を続けているのか、何をやめたのか。
何をやりたいのか、何ならできそうなのか。
どんな役割をもっているのか、どんな日課で暮らしているのか。
そこを見ていく。
すると、身体のことも、気持ちのことも、家族のことも、仕事のことも、お金のことも、時間のことも、過去の経験も出てくる。
これからどう生きたいかという話まで出てくることがある。
作業は、それ単体でポツンと存在しているわけではないからである。
その人の生活の中に埋め込まれている。
だから、作業を見ると、人間の輪郭が見えてくる。
ただし、全部わかるわけではない。
そんなことは原理上無理である。
見えてくるのは、あくまでその時々の一部である。
けど、その一部を丁寧に見ていくと、「この人はこんなふうに生きているのか」と感じられることがある。
ぼくは、それで十分だと思っている。
作業を見るというのは、人間を簡単に理解するためのショートカットではない。
できる/できないで人を切り分ける方法でもない。
目の前にいる人が、日々何をしながら、どんな役割をもち、どんな生活を送り、何を大切にして生きているのかを見る。
そして、自分が見落としているものがあるかもしれないと思いながら、また見る。
こんな感じである。
作業療法は医療専門職の実践だけども、こうしてみると、やっぱり人間そのものを考える仕事なのだと思う。