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普通の人生が難しくなったのは、前提が変わったから

2026.07.04
社会を考える

普通に生きるって、なんなんだろうか。

普通に学校を出る。普通に働く。普通に結婚する。普通に子どもを育てる。普通に家を持つ。普通に老後を迎える。

こう並べると、なんだか簡単そうである。

でも、よくよく考えると、ぜんぜん簡単ではない。

「昔からみんなやってきたんだから、普通に頑張ればできるでしょう」と思う人がいるかもしれない。

その気持ちはわかる。

もちろん、努力しなくてもよいという話ではない。

ぼくが言いたいのは、そういうことではない。

同じことをやっても、前提が変われば結果は変わる。

だったら、普通に生きられない理由を全部その人の努力不足にするのは、ちょっと無理があるのではないか、という話である。

自分が悪いのか、周囲が悪いのか

何かうまくいかないことがあると、「自分が悪かった」と考える人がいる。

反対に、「社会が悪い」「会社が悪い」「時代が悪い」と考える人もいる。

ぼくは以前、自責思考と他責思考は車の両輪のように使えばよいと書いた。

自分に問題がある部分は自責思考で改善する。

同時に、周囲に問題がある部分は他責思考で改善を求める。

自責思考か、他責思考か、ではない。

目的と状況によって使い分ければよい。

普通の人生についても同じである。

自分が怠けていたなら、それは自分の問題かもしれない。

準備不足だったなら、準備すればよい。

判断を間違えたなら、次から変えればよい。

けど、自分がどれだけ頑張ってもどうにもならない前提まで、自分の責任にする必要はない。

問題の原因が周囲にありそうなのに、「すべて自分が悪い」と考えても、問題は解決しない。

それどころか、ただひたすらしんどくなる。

何でも自分の責任にしておけば立派だ、という話ではないのである。

「普通ならできる」は、しんどさの増幅装置になる

普通という言葉はわりと強い。

普通なら働く。

普通なら結婚する。

普通ならこれぐらい稼ぐ。

普通なら家族を養う。

普通なら老後の準備ぐらいしている。

こんな感じである。

誰かから直接言われなくても、自分で自分に言うこともある。

すると、「普通ならできる」から「自分もできなければならない」に変わる。

ここからしんどくなる。

ぼくは以前、「〜するべき」「〜しなければならない」という思い込みは、しんどさの増幅装置のようなものだと書いた。

自分の生き方の可能性を狭めて、いろんな苦悩をもたらすからである。

普通も同じように働くことがある。

普通ならこう生きるべきだ。

普通ならこれぐらいできなければならない。

普通ならこの年齢ではこうなっている。

そんな感じで、自分で自分を追い詰める。

でも、その「普通」が成立していた前提まで同じなのだろうか。

そこは眉に唾つけて考えた方がよい。

前提が違うのに、結果だけ同じものを求めるのはわりと無茶である。

人生は予定調和に進まない

そもそも、人生は予定調和に進まない。

大なり小なり想定外は必ず起こる。

これはほぼ確実である。

学校を卒業したらこうなる。

仕事を続けたらこうなる。

結婚したらこうなる。

子どもができたらこうなる。

家を買ったらこうなる。

老後はこうなる。

そんな感じで見通しを持つこと自体は悪くない。

見通しがないと動きにくいので、計画はあった方が便利である。

けど、計画通りになることと、計画を立てることは別問題である。

未来は未定だからこそ、未来である。

そのときは確かに見えていたものが、あとからぜんぜん違って見えることもある。

当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなくなることもある。

なので、昔うまくいった人生の組み立て方が、これからもそのまま機能すると決めつけない方がよい。

過去に経験したことと同じことが、これからも起こると断定できる根拠なんてないからである。

普通の人生も、役割と日課からできている

ぼくは作業療法士なので、人の生活を見るときに役割と日課を見るクセがある。

人間作業モデルでは、習慣化は役割と日課から構成される。

役割とは義務、日課とはパターンである。

つまり、自分の役割が何で、どんな行動パターンをもっているのかを見る。

これ、普通の人生を考えるときにもけっこう使える。

働く。

家事をする。

子どもを育てる。

親のことを気にする。

お金を稼ぐ。

休む。

人と付きあう。

病院に行く。

買い物する。

眠る。

こんな感じで、日々の生活はいろんな作業からできている。

そして、それらがある程度うまく噛みあっているから生活が成り立つ。

ところが、何かひとつ前提が変わると、わりと簡単に崩れる。

仕事が忙しくなれば、休む時間が減る。

家族の事情が変われば、役割も変わる。

身体の調子が悪くなれば、今まで普通にやっていたことができなくなる。

お金に余裕がなくなれば、選べることも減る。

誰かの助けがなくなれば、自分で引き受けなければならないことが増える。

一個一個は小さな変化でも、積み重なると生活全体が変わる。

だから、「みんな普通にやっているのに、なぜあなたはできないの?」という問いは、わりと雑である。

その人が置かれている状況が違えば、同じことをする難しさも違うからだ。

だからといって、普通を捨てればよいわけでもない

ここまで書くと、「じゃあ普通なんて気にしなければよい」と思うかもしれない。

それも違う。

それも程度問題である。

普通はわりと便利である。

どう生きたらよいかわからないときに、とりあえずの見通しになる。

周りがどうしているのかを知れば、自分で全部ゼロから考えなくてよい。

「あぁ、だいたいこんな感じなのね」とわかれば、安心することだってある。

なので、普通そのものを悪者にする必要はない。

ぼくが言いたいのは、普通を絶対視しない方がよい、ということである。

普通は、その時々の目的と状況の中で使えるひとつの目安ぐらいに考えたらよい。

うまく機能するなら使う。

合わなくなったら疑う。

前提が変わったら修正する。

自分の生活にフィットしなければ、別のやり方を探す。

こんな感じでよい。

普通にできないときに、「自分はダメだ」と秒速で結論づける必要はない。

まず、自分に問題があるのか。

周囲に問題があるのか。

そもそも前提が変わっていないか。

そこを考えた方がよい。

人生は予定調和に進まない。

未来は未定だからこそ、未来である。

だったら、昔からある「普通」に自分の人生を無理やり押し込む必要もない。

前提が変わったなら、生き方も変わってよい。

ひとまず、それぐらいのいい加減さがあった方が、その他大勢の普通の人間は生きやすいのではないかと思う。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学教授。思想ノートでは身近な違和感の奥にある前提を問い直し、分かり合えない世界で人間・社会・自由について考えている。

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