生き方と自由

普通の人生が難しくなったのは、前提が変わったから

京極真
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普通に生きる、という言い方がありますよね。

普通に学校を出て、普通に就職して、普通に働く。普通に結婚して、普通に子どもを育てて、普通に家を持ち、普通に老後を迎える。

こうして並べてみると、何でもないことのように見えます。けれども、いまではこの「普通」が、かなり難しいものになっているわけです。

もちろん、昔の普通が誰にとっても簡単だったわけではありません。そこには性別役割もありましたし、家制度の名残もあった。地域や親族の目もあったし、普通の人生から外れた人を、容赦なく孤立させる力もあったでしょう。

だから、昔はよかった、という話にはならない。

ただね。それでも少し考えてしまうのです。

かつて普通と呼ばれていた人生には、それを可能にするだけの社会的な条件があったのではないか、という仮説に到達しました。

普通は、個人の能力だけでは成り立たない

普通という言葉は、なかなか厄介なわけです。

それは平均という意味に見えます。多くの人がそうしている。だから普通である。そういう感じです。

けれども、人生についての普通は、たぶん単なる平均ではないよね、、、と思いいたったのです。むしろ、それはひとつの見通しです。この道を進めば、おおむね何とかなる。大きく外れなければ、生活は組み立てられる。そういう社会的な物語なわけです。

学校を出れば仕事があるし、仕事を続ければ給料が上がる。結婚すれば家族ができるし、家族ができれば支え合える。家を買えば資産になるし、年を取れば年金で暮らせる。

もちろん、現実はいつもそんなに単純ではありません。昔から病気もあったし、失業もあったし、離婚もあったし、貧困もあったし、暴力もあった。普通の人生の陰で、ずっと苦しんできた人もたくさんいたはずです。

それでも、社会全体としては、一定の人生モデルがまだ有効に見えていた時期があったわけです。

ただね。その前提が、いま揺らいでいる。

終身雇用や年功序列が弱くなり、賃金の上昇が人生の見通しを支えるとは限らなくなった。結婚や出産は、人生の標準コースというより、かなり大きな決断になった。家を持つことも、資産形成というより、長期のリスクを背負うことに見える場合がある。親族や地域の支えは細くなり、老後も自分で備えるべきものとして語られるわけです。

そうなると、普通の人生は、普通の努力だけでは届きにくくなります。

これって、わりと大きな変化なわけです。

前提が変わったのに、物語だけが残っている

厄介なのは、社会の前提が変わっているのに、過去の普通という物語だけがまだ残っていることです。

普通なら、これぐらいできる。
普通なら、そろそろ結婚している。
普通なら、子どもがいてもおかしくない。
普通なら、もっと稼いでいる。
普通なら、老後に困らないようにしている。

誰かに言われたわけでもないのに、ふと自分でそう思ってしまう。自分は普通にできていないのではないか、何かを間違えたのではないか、努力が足りなかったのではないか、っていうぐらいにね。

ここで起こっているのは、自己評価の問題ではないと思います。普通という信念が、まだ自分の中で生きているわけです。

信念対立という問題を考えていると、人は自分の信念を信念として経験せず、本人にはそれは世界そのものとして経験されることに気づきます。だから、自分の普通と他者の普通がずれると、話は急にこじれます。

親の世代は、「自分たちはそうしてきた」と言うかもしれません。若い世代は、「その前提がもうない」と感じるかもしれない。組織は「普通はこう働くものだ」と言い、働く側は「その普通では生活が壊れる」と感じることがある。

どちらかが嘘をついているわけではない。それぞれの立場から見える世界が違うだけです。経験が成立するための社会の条件も違う。守ろうとしているものも違う。にもかかわらず、同じ「普通」という言葉を使っている。

だから、ずれるわけです。

普通は人を縛るが、支えもする

では、普通から自由になればよいのか。そう言えたら話は簡単ですが、私はそう簡単には言えないと思っています。

普通には、人を縛る力があります。普通から外れた人を責める力がある。普通にできない人に、恥辱感や劣等感を植えつけることがある。

しかし同時に、普通には人を安心させる力もあるわけです。

普通の人生モデルがあるから、将来を思い描ける人がいる。迷ったときに、とりあえず進む方向が見える。自分ひとりで人生を一から設計しなくてもよい。これは、わりと小さなことではありません。たぶんね。

標準モデルが失われると、人は自由になる面があります。けれども、その自由はときに過酷です。何を選ぶのか。どこで働くのか。誰と生きるのか。子どもを持つのか。家を持つのか。老後をどうするのか。すべてを自分なりの規範を考えて、自分で選び、自分で引き受けるように求められる。

私はそれこそが生きるということだと思います。

でも、人によっては、それは自由というより、終わりのない自己責任のように感じられることがあります。だから、万人にとって、普通を壊せばよい、という話ではない。問題は、普通が壊れたあとに、人を支えるものが十分に育っていないところにあるのかもしれません。

人生は、作業の組み合わせとしてできている

作業療法に関わっていると、人間の人生は、大きな理念だけでできているわけではないと感じるわけです。

人は、何かをして生きています。

朝起きることであり、顔を洗うことであり、働くことであり、食べることであり、誰かと話すことであり、休むことであり、買い物に行くことであり、家事をすることであり、子どもの予定を気にすることであり、親の体調を心配することであり、お金の計算をすることであり、スマホを見ることであり、眠ることであり……。

そうした小さな作業の組み合わせが、生活をつくっているわけです。

普通の人生が難しくなるというのは、大きなライフイベントが難しくなるということではありません。日々の作業の組み合わせが、うまく噛み合わなくなるということでもあるよね、、、と思いいたったのです。

働く時間が長くなれば、休む作業が減る。収入が不安定になれば、将来を考える作業がしんどくなる。家族の支えが弱くなれば、子育てや介護の負担が個人に直接のしかかる。地域のつながりが薄くなれば、困ったときに誰かに頼るという作業そのものが難しくなる。

人生は、気合いだけでは乗りきれません。

生活を成り立たせるには、作業が適切にできる必要があります。しかも、その作業は個人の能力だけでできるのではない。時間、収入、制度、人間関係、身体、住まい、地域、文化。そうしたものに支えられて、ようやくできるようになるわけです。

だから、普通の人生がうまくいかないとき、それをすぐに個人の弱さとして回収してしまうのは、ぶっちゃけ、わりと乱暴なわけです。

普通という言葉を、少し疑う

たぶん、これから必要になるのは、普通という言葉を使うとき、その背後にどんな前提が紛れ込んでいるのかを考えていくことです。

誰にとっての普通なのか。
どの時代の普通なのか。
どの収入、どの家族、どの身体、どの地域、どの制度を前提にした普通なのか。
その普通は、いま本当に成立しているのか。

そう考える、普通は少し怪しくなるわけです。

怪しくなるというのは、否定するという意味ではありません。むしろ、見えなかった前提が見えてくるということです。

普通だと思っていたものが、実は特定の社会条件に支えられていたのだとわかる。自分ができていないと思っていたことが、実は個人の努力だけでどうにかなる問題ではなかったのだと見えてくる。

そのとき、少しだけ息がしやすくなることがあります。

もちろん、それで生活が急に楽になるわけではありません。仕事の不安が消えるわけでもないし、老後の問題が解決するわけでもない。結婚や子育てや家計の難しさも、そのまま残ります。

でも、自分の考え方が少し変わる。

普通にできない自分が悪い、ではなく、普通を支えていた前提が変わったのではないか、と考えられるようになる。これは小さな変化ですが、ぶっちゃけ、けっけ大事な変化なわけです。

普通の人生が無理ゲーになったのだとしたら、それは人間が弱くなったからだけではない。人生を支えていた社会の条件が変わり、にもかかわらず古い普通だけが残っているからかもしれない。

普通という言葉は、これからも使われるでしょう。私も、たぶん使うと思います。たとえそれが幻想だとしても。

けれども、その言葉が出てきたときに、少し立ち止まってみる。そこにどんな前提があるのか。誰を安心させ、誰を傷つけているのか。何を可能にし、何を見えなくしているのか。

普通の人生が難しくなった時代に考えるべきことは、前提を問い直すことではないかと思っています。ただ、これは思考しながらその土台を考えるってことなので、自転車に乗りながらその自転車を修理するようなもんですから、実際のところかなり難しいんですけどね。

著者紹介
京極 真
京極 真
Ph.D.、OT
1976年大阪府生まれ。作業療法士、博士(作業療法学)。Thriver Project代表。首都大学東京大学院人間健康科学研究科博士後期課程修了。吉備国際大学ならびに同大学大学院教授。人間科学部長、保健科学研究科長。作業療法、信念対立、現象学、構造構成主義、研究方法論、アカデミックライティングを主な関心領域とする。『この一冊でわかる!セラピストのための研究論文の書き方ガイド』『医療関係者のための信念対立解明アプローチ』『OCP・OFP・OBPで学ぶ作業療法実践の教科書』『作業で創るエビデンス』など著書・論文多数。
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