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普通の人生が難しくなったのは、前提が変わったから

2026.07.04
社会を考える

普通に生きる、という言い方がある。

普通に学校を出て、普通に就職して、普通に働く。普通に結婚して、普通に子どもを育てて、普通に家を持ち、普通に老後を迎える。

こうして並べてみると、何でもないことのように見える。けれど、いまではこの「普通」が、かなり難しいものになっている。

もちろん、昔の普通が誰にとっても簡単だったわけではない。そこには性別役割もあったし、家制度の名残もあった。地域や親族の目もあったし、普通の人生から外れた人を、容赦なく孤立させる力もあっただろう。だから、昔はよかった、という話にはならない。

ただ、それでも少し考えてしまう。かつて普通と呼ばれていた人生には、それを可能にするだけの社会的な条件があったのではないか。

普通は、個人の能力だけでは成り立たない

普通という言葉は、なかなか厄介だ。

それは平均という意味に見える。多くの人がそうしている。だから普通である。そういう感じだ。けれど、人生についての普通は、たぶん単なる平均ではない。むしろ、ひとつの見通しだ。この道を進めば、おおむね何とかなる。大きく外れなければ、生活は組み立てられる。そういう社会的な物語だ。

学校を出れば仕事があるし、仕事を続ければ給料が上がる。結婚すれば家族ができるし、家族ができれば支え合える。家を買えば資産になるし、年を取れば年金で暮らせる。

もちろん、現実はいつもそんなに単純ではない。昔から病気もあったし、失業もあったし、離婚もあったし、貧困もあったし、暴力もあった。普通の人生の陰で、ずっと苦しんできた人もたくさんいたはずだ。

それでも、社会全体としては、一定の人生モデルが、まだ有効に見えていた時期があった。

ただ、その前提が、いま揺らいでいる。

終身雇用や年功序列が弱くなり、賃金の上昇が人生の見通しを支えるとは限らなくなった。結婚や出産は、人生の標準コースというより、かなり大きな決断になった。家を持つことも、資産形成というより、長期のリスクを背負うことに見える場合がある。親族や地域の支えは細くなり、老後も自分で備えるべきものとして語られる。

そうなると、普通の人生は、普通の努力だけでは届きにくくなる。これは、わりと大きな変化だと思う。

前提が変わったのに、物語だけが残っている

厄介なのは、社会の前提が変わっているのに、過去の普通という物語だけが、まだ残っていることだ。

普通なら、これぐらいできる。普通なら、そろそろ結婚している。普通なら、子どもがいてもおかしくない。普通なら、もっと稼いでいる。普通なら、老後に困らないようにしている。

誰かに言われたわけでもないのに、ふと自分でそう思ってしまう。自分は普通にできていないのではないか、何かを間違えたのではないか、努力が足りなかったのではないか。

ここで起こっているのは、単なる自己評価の問題ではないと思う。普通という信念が、まだ自分の中で生きている、ということだ。

信念対立という問題を考えていると、人は自分の信念を信念として経験していないことに気づく。本人にとって、それは世界そのものとして経験される。だから、自分の普通と他者の普通がずれると、話は急にこじれる。

親の世代は、「自分たちはそうしてきた」と言うかもしれない。若い世代は、「その前提がもうない」と感じるかもしれない。組織は「普通はこう働くものだ」と言い、働く側は「その普通では生活が壊れる」と感じることがある。

どちらかが嘘をついているわけではない。それぞれの立場から見える世界が違うだけだ。経験が成立するための社会の条件も違う。守ろうとしているものも違う。にもかかわらず、同じ「普通」という言葉を使っている。だから、ずれる。

普通は人を縛るが、支えもする

では、普通から自由になればよいのか。そう言えたら話は簡単だが、僕はそう単純には言えないと思っている。

普通には、人を縛る力がある。普通から外れた人を責める力がある。普通にできない人に、恥辱感や劣等感を植えつけることがある。

しかし同時に、普通には、人を安心させる力もある。普通の人生モデルがあるから、将来を思い描ける人がいる。迷ったときに、とりあえず進む方向が見える。自分ひとりで人生を一から設計しなくてもよい。これは、わりと大きなことだと思う。

標準モデルが失われると、人は自由になる面がある。けれど、その自由は、ときに過酷だ。何を選ぶのか。どこで働くのか。誰と生きるのか。子どもを持つのか。家を持つのか。老後をどうするのか。すべてを自分なりの規範として考え、自分で選び、自分で引き受けるように求められる。

僕は、それこそが生きるということだと思っている。でも、人によっては、それは自由というより、終わりのない自己責任のように感じられることがある。だから、万人にとって、普通を壊せばよい、という話ではない。問題は、普通が壊れたあとに、人を支えるものが十分に育っていないところにあるのかもしれない。

人生は、作業の組み合わせとしてできている

作業療法に関わっていると、人間の人生は、大きな理念だけでできているわけではないと感じる。

人は、何かをして生きている。朝起きることであり、顔を洗うことであり、働くことであり、食べることであり、誰かと話すことであり、休むことであり、買い物に行くことであり、家事をすることであり、子どもの予定を気にすることであり、親の体調を心配することであり、お金の計算をすることであり、スマホを見ることであり、眠ることであり。

そうした小さな作業の組み合わせが、生活をつくっている。

普通の人生が難しくなるというのは、大きなライフイベントが難しくなるということだけではない。日々の作業の組み合わせが、うまく噛み合わなくなるということでもあると思う。

働く時間が長くなれば、休む作業が減る。収入が不安定になれば、将来を考える作業がしんどくなる。家族の支えが弱くなれば、子育てや介護の負担が個人に直接のしかかる。地域のつながりが薄くなれば、困ったときに誰かに頼るという作業そのものが難しくなる。

人生は、気合いだけでは乗りきれない。生活を成り立たせるには、作業が適切にできる必要がある。しかも、その作業は個人の能力だけでできるのではない。時間、収入、制度、人間関係、身体、住まい、地域、文化。そうしたものに支えられて、ようやくできるようになる。

だから、普通の人生がうまくいかないとき、それをすぐに個人の弱さとして回収してしまうのは、わりと乱暴なことだと思う。

普通という言葉を、少し疑う

たぶん、これから必要になるのは、普通という言葉を使うとき、その背後にどんな前提が紛れ込んでいるのかを考えることだ。

誰にとっての普通なのか。どの時代の普通なのか。どの収入、どの家族、どの身体、どの地域、どの制度を前提にした普通なのか。その普通は、いま本当に成立しているのか。

そう考えると、普通は少し怪しくなる。怪しくなるというのは、否定するという意味ではない。むしろ、見えなかった前提が見えてくるということだ。

普通だと思っていたものが、実は特定の社会条件に支えられていたのだとわかる。自分ができていないと思っていたことが、実は個人の努力だけでどうにかなる問題ではなかったのだと見えてくる。そのとき、少しだけ息がしやすくなることがある。

もちろん、それで生活が急に楽になるわけではない。仕事の不安が消えるわけでもないし、老後の問題が解決するわけでもない。結婚や子育てや家計の難しさも、そのまま残る。

でも、自分の考え方が少し変わる。普通にできない自分が悪い、ではなく、普通を支えていた前提が変わったのではないか、と考えられるようになる。これは小さな変化だが、わりと大事な変化だと思う。

普通の人生が難しくなったのだとしたら、それは人間が弱くなったからだけではない。人生を支えていた社会の条件が変わり、にもかかわらず、古い普通だけが残っているからかもしれない。

普通という言葉は、これからも使われるだろう。僕も、たぶん使うと思う。たとえそれが幻想だとしても。

けれど、その言葉が出てきたときに、少し立ち止まってみる。そこにどんな前提があるのか。誰を安心させ、誰を傷つけているのか。何を可能にし、何を見えなくしているのか。

前提を問い直すというのは、いま乗っている自転車を、走らせたまま修理するようなものだ。だから、これは簡単には終わらない作業だと思っている。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学・教授。思想ノートでは、信念対立、作業療法、研究等を手がかりに、分かり合えない世界で人間・社会・自由についてどう考えるかを書いていきます。

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