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原理的思考について

問いを立てることは、考えることの始まりだと思われている。

実際、問いがなければ、何を考えればよいのかも、何を調べればよいのかも決まらない。研究でも、教育でも、日々の生活でも、僕らは問いを立て、その答えを探しながら進んでいる。

けれど、長く考えても答えが出ない問いがある。

本当の自分は存在するのか。人は本当に変われるのか。話し合えば分かり合えるのか。自立とは、誰にも頼らず生きることなのか。正しい判断には、一つの基準があるのか。

こういう問いを考え始めると、答えはなかなか定まらない。考えるほど立場が分かれ、議論を重ねるほど、最初よりわからなくなることさえある。

もちろん、それだけ難しい問題なのかもしれない。

ただ、別の可能性もある。

答えが難しいのではなく、問いそのものが、うまく成立していないのではないか。

僕の理解によると、「原理的思考」は、そこから始まる。

ここでいう原理的思考には、構造主義科学論、現象学、構造構成主義などの議論の蓄積が背景にある。僕自身も、関心相関的本質観取や構造構成的本質観取、信念対立解明アプローチ、理論研究の方法論を考える中で、この思考法を使い、少しずつ整理してきた。

ただし、この記事で思想史を詳しく解説したいわけではない。

原理的思考とは、実際にどのような思考の運動なのか。何を可能にし、どこに限界があるのか。そして、なぜ僕らは、立場が違っても共に検討できる原理を必要とするのか。

ここでは、それを日常の問いに戻して考えてみたい。

答えを探す前に、問いの手前へ戻る

一般に、問いが示されると、僕らはその問いを正しいものとして受け取り、答えを探し始める。

「人は変われるのか」と問われれば、変われる理由と変われない理由を考える。「自立と依存のどちらが望ましいか」と問われれば、どちらを選ぶべきか検討する。「本当の自分は存在するか」と問われれば、存在する、しないという二つの立場を比べようとする。

しかし、原理的思考では、すぐにその議論へ入らない。

そもそも、その問いが成り立つためには、何が成立していなければならないのか。問いが暗黙のうちに分けている二つのものは、本当に別々に存在するのか。両者を同じ基準で比較できるのか。問う人は、その答えを確かめられる位置に立てるのか。

問いの一歩手前へ戻り、その問いが立ち上がっている足場を確かめる。

原理的思考とは、問いを受けて、ひたすら深く考えることではない。難しい言葉を使うことでも、常識と反対の結論を出すことでもない。考えられる限り遠くまで抽象化することでもなければ、どの意見にも一理あると相対化することでもない。

問いに答える前に、問いが成立する条件を考える。

そこが、通常の思考との大きな違いだ。

問いは、すでに問題のありかを決めている

問いは、すでに存在する問題を、そのまま映し出すものではない。

問いを立てた時点で、僕らは現実をある仕方で切り分けている。何かを問題として前に出し、それ以外のものを背景へ退けている。

たとえば、「なぜ、この人は社会に適応できないのか」という問いがある。

この問いから始めると、その人の性格、能力、意欲、認知、対人関係などが検討の中心になる。本人のどこに問題があり、何を改善すれば適応できるのか、という方向へ思考が進みやすい。

しかし、本当に問題は、その人の内側だけにあるのだろうか。

制度が硬直しているのかもしれない。多数派の生活様式だけが標準とされているのかもしれない。参加するための支援や情報が足りないのかもしれない。経済的な条件や、周囲との力関係によって、選択肢そのものが狭められている可能性もある。

「なぜ、この人は適応できないのか」という問いは、問題の所在を、知らないうちに本人の側へ置いている。

問いは、何を見るかを決めるだけではない。誰に説明を求め、誰に努力や変化を要求し、何を問題として扱わないかまで決めてしまうことがある。

だから、問いを吟味するというのは、言葉づかいを細かく点検することではない。

その問いによって、人間や社会をどのような構図で見ようとしているのか。誰に負担を負わせ、誰を問い直しの外側に置いているのか。それを確かめることだ。

問いを成立させている、見えない条件

問いには、その問いが成り立つために必要な条件が含まれている。

「役割を取り除いた先に、本当の自分はいるのか」という問いを考えてみる。

この問いが成り立つためには、社会的な役割と自己を切り離せる必要がある。役割を持つ以前の、純粋な自己が存在しなければならない。さらに、その自己と現在の自分を、同じ基準で比較できる必要もある。

けれど、僕らは、社会や他者や言葉から切り離された自分を経験できるだろうか。

人は、誰かとの関係の中で言葉を覚え、身体を使い、何かをしながら生活している。親、子、教員、学生、専門家、同僚といった役割だけでなく、名前や記憶、好みや嫌悪まで、他者や社会との関係の中で形づくられてきた。

社会から影響を受ける以前の自己を取り出し、現在の自分と並べて比較することはできない。比較しようとしている本人も、すでに社会の中で生きているからだ。

だとすれば、「本当の自分は存在するか」という問いは、まだ答えが見つかっていない問いなのではなく、答えを確かめるための条件そのものが成立していない可能性がある。

自立と依存をめぐる問いも似ている。

「自立か、依存か」と問うと、両者は反対の状態に見える。自分でできることが自立であり、誰かに頼ることが依存である。そう考えると、自立するためには、できるだけ他者に頼らない方がよいことになる。

でも、人は、道路、電気、医療、制度、知識、技術、家族、同僚など、数え切れないほどのものに支えられて生きている。

一人で生活しているように見える人も、誰にも依存していないわけではない。むしろ、必要な支えを選び、自分の生活を組み立てられるからこそ、自立していると感じられる場合がある。

ここでは、自立と依存を排他的に分ける区分そのものが、問いを難しくしている。

二つの答えのどちらかを選ぶ前に、本当に二つに分けられるのかを確かめる必要がある。

答えがわからない問いと、答えようのない問い

考えても答えが出ないとき、その理由は同じではない。

必要な情報が足りず、まだ答えがわからない問いがある。これは、調査や観察、研究を進めることで答えに近づける可能性がある。

一方で、問いのつくり方そのものによって、答えようのない問いもある。

比較する対象を確認できない。共通の比較基準がない。問う人が、両方を観察できる位置に立てない。答えが正しいかどうかを確かめる方法がない。

そうした問いに対して、証拠を探し続けても、たぶん決着はつかない。

たとえば、他者の内面そのものを、自分の理解と比較することはできない。僕らが確認できるのは、相手の言葉、表情、行為、状況、それに対する自分の理解であって、相手の内面そのものではない。

もちろん、それでも他者を理解しようとすることには意味がある。相手の言葉を聞き、自分の理解を伝え、違っていれば修正することはできる。

ただし、相手の内面と自分の理解が完全に一致しているかどうかを、外から確かめることはできない。

ここを区別しないと、僕らは確認できないものを確認しようとして、いつまでも同じ場所を回り続けることになる。

疑似問題という言葉が、切り捨ててはいけないもの

問いの構造上、原理的に答えようのない問題を、僕は疑似問題と呼ぶことがある。

この言葉は、少し冷たく響く。

その人の苦しさや悩みまで、偽物だと言っているように聞こえるからだ。けれど、ここでいう疑似問題は、苦しみが存在しないという意味ではない。

問いの形式が成り立っていない、という意味だ。

「本当の自分は存在するのか」という問いには、原理的に答えられないかもしれない。しかし、役割や他者の期待に疲れ、自分の人生を自分で生きていると感じられない苦しさは、現実にある。

「他者を本当に理解できるのか」という問いも、完全な一致を確認するという意味では答えられない。それでも、自分の理解が独りよがりではないか、相手を傷つけずに応答できるかという問題は残る。

問いが成立しないからといって、その問いを生み出した切実さまで消してはいけない。

疑似問題を見抜くというのは、「そんなことを考えても無駄だ」と切り捨てることではない。

答えようのない問いの中に閉じ込められていた、本当に考える必要のある問題を救い出すことだ。

問いを壊すのではなく、編み替える

元の問いがそのままでは成立しないとわかったとき、必要になるのが、問いの編み替えである。

問いを編み替えるとは、言葉を柔らかく言い換えることではない。問いを成立させていた不要な前提を外し、経験的、論理的、実践的に検討できる形へ変えることだ。

「本当の自分は存在するのか」という問いは、「人は、どのような条件のもとで、自分の生き方を自分のものとして引き受けられるのか」と編み替えられるかもしれない。

この問いなら、現実の生活に戻って考えることができる。

誰の期待によって身動きが取れなくなっているのか。どの役割を引き受け、どの役割から降りたいのか。選び直すための時間、安全、収入、支援があるのか。現在の生活の中で、何を自分の選択として確かめられるのか。

「他者を本当に理解できるのか」は、「どのような応答と確かめを重ねれば、自分の理解を独りよがりなものにせず、必要に応じて修正できるのか」と問い直せる。

「自立とは、一人でできることなのか」は、「人は、どのような支えや依存関係の中で、自分の生活について選択できるのか」へ移すことができる。

編み替えられた問いに、絶対的な答えが出るとは限らない。それでも、何を観察し、何を比較し、どの条件を変えればよいのかが見えてくる。

思考が、現実へ戻れるようになる。

「原理」は、絶対的な真理ではない

原理という言葉には、揺るがない法則や、誰も反論できない絶対的な真理のような響きがある。

けれど、僕が原理的思考で目指しているのは、人間の外側にある世界そのものを、そのまま写し取ることではない。

人間は、言葉を使って世界を捉え、説明する。

何が存在するのか。人間とは何か。自由とは何か。何を正しいとみなすのか。どのような社会を望むのか。僕らが考えるとき、そこにはいつも、一定の概念や観点によって組み立てられた理解がある。

その理解は、世界そのものではない。

だからといって、どの説明も同じように妥当だということにはならない。

前提に無理がある説明もある。事実と矛盾する説明もある。目的と方法がつながっていない説明もあれば、その論理を最後まで進めると、自分自身の主張を否定してしまう説明もある。

原理的思考が目指すのは、絶対的な真理を所有することではない。ある問いについて、特定の宗教、文化、専門性、立場をあらかじめ共有していない人も、その前提と論理を確かめ、思考の道筋をたどれる説明をつくることだ。

もちろん、すべての人が実際に同じ結論へ到達するとは限らない。経験も関心も違うし、途中で前提そのものに異論が生じることもある。

それでも、どのような条件から考え始め、なぜその結論に至ったのかを、他者が確かめられるようにすることはできる。

ただし、道筋を確かめられるというだけでは、まだ足りない。

どれほど論理が整っていても、最初に置かれた前提が、特定の文化や専門性、価値観を共有する人にしか認められないものであれば、その説明は、その立場の内側でしか通用しない。

原理的思考は、前提をできるだけ少なくし、立場の異なる人も、自分の経験に照らして確かめられる地点まで戻ろうとする。

そこで目指すのは、全員が同じ感想を持つことではない。

同じ思考を自分でも遂行してみたとき、この前提を認める限り、少なくとも、ここまでは簡単には退けられないと言える理解をつくることだ。

本質をうまく言い当てた言葉には、「たしかにそうだ」と腑に落ちる感覚がある。

けれど、それだけでは原理にはならない。なぜそう言えるのか。どの前提から、どのような道筋を通って、その理解へ到達したのか。他者もその道筋をたどり、自分の経験に照らして確かめられるように示されて、初めて本質的な理解は原理として働く。

原理とは、ある本質的な理解が、その前提を認める限り、一定の妥当性を認めることが求められるところまで練り上げられ、理由と道筋を伴って示されたものなのだと思う。

その意味で、原理は、数ある感想の一つとして控えめに差し出されるものではない。前提と道筋が十分に示されているなら、「僕はそう思わない」「私には違って見える」というだけで退けることはできない。

その原理を覆したいのであれば、どの前提が成り立たないのか。どこに論理の飛躍があるのか。どのような反例によって妥当しなくなるのか。それを示す必要がある。

もちろん、原理を提示する側も、反論の外に立つことはできない。反例が示されれば、適用範囲を見直さなければならない。前提が成り立たないとわかれば、理路を組み直す必要がある。より少ない前提から、より広く成り立つ説明が示されたなら、そちらへ改めるべきだろう。

原理は、絶対的な真理ではない。けれど、だからといって、単なる一つの見方でもない。前提と道筋を明らかにし、その範囲において妥当性を要求する。そして、何が示されれば修正しなければならないのかも、他者の前に開いておく。

原理には、その強さと開かれの両方が必要なのだと思う。

強い原理に届かないとき

ただし、原理的思考を用いれば、いつでも強い原理に到達できるわけではない。

問いの前提を確かめても、現時点では十分な根拠がそろわないことがある。問いを編み替えるところまでは進めても、その先に一つの妥当な理解を示せないこともある。異なる関心のどちらも簡単には退けられず、結論を保留しなければならない場合もある。

そのとき、無理に原理をつくる必要はない、と僕は思う。

何が問いを難しくしているのか。どこまでは確かめられ、どこから先はまだ言えないのか。どの条件が変われば、もう一度考えられるのか。それを明らかにするだけでも、思考は前へ進んでいる。

当然のことながら、この思想ノートでも、原理的思考が通底するからといって、すべての記事で強靱な原理を提示できるわけがない。そんな簡単に強い原理ができたら、誰も苦労しない。

問いが成立しているかを確かめること。答えようのない問いから降りること。問いの背後にある関心を救い出すこと。簡単に結論づけられない理由を、そのまま残すこと。

それらもまた、原理的思考の大切な働きである、と僕は理解している。

原理的思考に必要なのは、いつも強い結論を出すことではない。言えることを強く言い、まだ言えないことを、言えるように装わないことなのだと思う。

相対主義を越えるために

人によって経験も価値観も異なる。目的や立場が違えば、妥当な判断も変わる。このことを認めると、「結局、何が正しいかは人それぞれなのではないか」と思うかもしれない。

けれど、原理的思考は、そこで止まらない。

ある人が何を大切にしているかによって、出来事の意味が変わることはある。しかし、事実まで自由に変えられるわけではない。実際に何が起きたのかは、可能な限り確かめなければならない。

目的によって適切な方法が変わるとしても、どの方法でもよいわけではない。目的を達成できない方法や、避けられたはずの重大な被害を生む方法は、批判される必要がある。

また、「私にはそう見える」ということと、「だから他者を従わせてよい」ということの間には、大きな隔たりがある。

正しさが条件との関係で成立することは、何でも正しいという意味ではない。

むしろ、どの条件でその判断が成り立つのかを明らかにするからこそ、何が妥当で、どこから妥当でなくなるのかを検討できる。

自分の立場も、数ある立場の一つにすぎないと気づくことは、他者を一方的に裁かないために必要である。

ただ、すべてを相対化するだけでは、現実を変えるための基準まで失われる。

暴力を受けている人と、暴力を行っている人の説明を、「どちらにもそれぞれの見方がある」と並べるだけでは、被害を止められない。制度に問題があるとわかっても、どのような制度へ変えるべきかを考える基準がなければ、批判は批判のまま残る。

僕にとって、原理的思考は、独断に戻ることなく、相対主義にもとどまらないための思考である。

自分の説明が絶対ではないことを認めながら、それでも、異なる人々が同じ思考をたどり、その前提を認める限り、一定の妥当性を認めることのできる理路をつくろうとする。

この二つを同時に引き受けるところに、原理的思考の難しさがある。

なぜ、共通了解を目指すのか

ここで、もう一つ問いが残る。

そもそも、なぜ共通了解を目指す必要があるのだろうか。

人は、それぞれ異なる世界を生きている。文化、歴史、身体、経験、欲望、価値観が違えば、同じ出来事についても異なる理解を持つ。

違いがあること自体は、問題ではない。

問題が生じるのは、自分の理解が、一つの立場や関心から成り立ったものであることを忘れ、他者にも無条件に従うことを要求するときだ。

自分たちの価値を共有しない者を排除する。自分たちの正義を認めない者を敵とみなす。自分たちの専門性を理解しない者を、無知な存在として扱う。

互いに検討できる言葉や基準が失われれば、最後には、権威、制度、人数、資金、地位、武力といった力が決着をつけることになる。

もちろん、原理的思考によって、あらゆる争いがなくなるわけではない。利害が真正面からぶつかり、どうしても一つを選ばなければならない場面もある。言葉が通じない相手もいるし、話し合いより先に、距離や規則や第三者の介入が必要なこともある。

それでも、力だけで決める以外の道を残すには、立場の違う人も検討に参加できる言葉が必要になる。

原理的思考が目指しているのは、全員を一つの考え方へ統一することではない。

ここでいう共通了解も、全員が同じ意見を持つことではない。

立場の異なる人が同じ理路をたどり、自分の経験に照らして確かめたとき、その前提を認める限り、少なくとも一定の妥当性は認められる。そうした理解をつくることだ。

実際にその結論を受け入れたいかどうかと、その理路に妥当性があるかどうかは、同じではない。

共通了解が目指すのは、感情や価値観の完全な一致ではなく、立場の違いを越えても簡単には退けられない理解を、共に確かめられるようにすることである。

異なる理解や価値観を持つ人間が、互いを排除したり、力で従わせたりすることなく、共に生きるための条件を探ることだ。

僕は、原理的思考の最終的な目的を、暴力や排除によらずに問題を検討できる可能性を広げることに置きたいと思っている。

大きすぎる目的に見えるかもしれない。

けれど、会議で相手の人格を裁く代わりに、判断を成立させている条件を確かめること。支援する側の理解だけを完成させず、相手が訂正できる余地を残すこと。制度が誰に負担を負わせているのかを問い直すこと。

そうした小さな思考の中にも、暴力や排除を減らす回路はある。

異なる立場からも検討できる原理を探すことは、違いを消すためではない。

違いがある世界で、それでも共に生きるためだ。

原理的思考もまた、問い直されなければならない

原理的思考を、あらゆる問いを解体する万能の方法として扱うべきではない。

問いが明確で、経験的に検証できるなら、その問いに答えればよい。すべての問いに隠れた前提を探し、複雑にする必要はない。

現実には、考え続けている時間がない場面もある。

医療、安全、災害、組織運営などでは、不十分な情報のまま判断しなければならないことがある。問いの立て方を吟味することが、判断や責任を先延ばしにする口実になってはならない。

また、社会的な不公正や暴力まで、「見方の違い」「問いの立て方の問題」にしてしまえば、現実に被害を受けている人の苦しさが見えなくなる。

問いを疑うことは必要だ。

けれども、自分の判断だけを安全な場所へ避難させるために、何も決められない問題へ変えてはいけない。

原理的思考そのものも、原理的思考の対象になる。

自分が取り出した前提は、本当にその問いに含まれているのか。自分に都合のよい反対意見をつくっていないか。問いを解体することで、誰かが負っている現実の負担を見えなくしていないか。「原理的である」という言葉を、新しい権威として使っていないか。

さらに、自分が妥当だと考えた原理も、他者によって検討され、必要に応じて修正されなければならない。

原理は、一人の哲学者や研究者が完成させ、所有するものではない。先行する研究や思想を受け継ぎ、足りない条件を補い、現実の問題に照らして問い直すことで、少しずつ更新されていく。

原理的思考も、そのような継承と更新の過程にある。

だから、自分の思考だけを、問い直しの外側に置かない。

しかし、これは言うほど簡単ではない。

答えが速くなった時代に、何を問うのか

生成AIに問いを入力すると、かなり整った答えが返ってくる。

賛成と反対を整理し、背景を説明し、結論まで示してくれる。以前なら、いくつもの本や論文を読み、時間をかけて整理していたことが、驚くほど短い時間で言葉になる。

これは、大きな変化だと思う。

ただ、答えを生成する力が高まるほど、その手前にある問いの重さは増していく。

問いが個人の側にだけ問題を置いていれば、AIは個人を変えるための方法を、いくらでも提案できる。選択肢が不必要に対立させられていれば、それぞれの利点と欠点を、きれいに並べてくれる。確かめようのない対象について問えば、もっともらしい説明をつくることもできる。

答えが流暢であることと、問いが成立していることは、同じではない。

むしろ、答えが速く、わかりやすくなったからこそ、僕らは、その答えが何に答えているのかを確かめなければならない。

この問いは、何を前提にしているのか。何と何を分けているのか。誰に変化を求めているのか。何を見えなくしているのか。そもそも、確かめられる問いなのか。

AI時代に必要なのは、良い答えを得る技術だけではない。

何を問うべきかを考え、必要であれば、与えられた問いから降りる力なのだと思う。

問いから自由になるということ

僕は、作業療法、信念対立、研究、教育について考えてきた。

扱っている問題は違って見える。それでも、その奥には、よく似た難しさがある。

人は、ある問いや理解や役割の中に入ると、それが世界のすべてのように感じられる。患者を診断名から見る。学生を成績から見る。対立を、どちらが正しいかという構図で見る。自分を、役割や評価の中だけで見る。

その見方が間違っているとは限らない。

けれど、それ以外の見方ができなくなったとき、人は問いの中に閉じ込められる。

原理的思考は、すぐに正しい答えを与える技術ではない。

自分がどの問いに閉じ込められているのかを見つけ、その問いを支えている条件まで戻るための思考だ。

問いを疑うことで、問題が消えることがある。

問いを編み替えることで、初めて考えられるようになる問題もある。

問いの背後にあった切実さを見失わずに、現実の生活へ戻っていく。そして、異なる世界を生きる人とも、どこからなら一緒に考えられるのかを探していく。

たぶん、考えるというのは、答えを増やすことだけではない。

答えなければならないと思い込んでいた問いから、いったん自由になることでもある。

そのあとで、何を本当に問う必要があるのか。どのような言葉であれば、異なる人々が互いを力で従わせずに、共に検討できるのか。

もう一度、そこから考え始める。

原理的思考とは、そのための運動なのだと思う。

この文章の背景にある思想と主な文献

ここで述べた原理的思考は、僕が何もないところから独自に思いついたものではない。

その背景には、現象、関心、目的、価値、意味が、どのような条件のもとで成り立つのかを問い、絶対的な真理を所有するのではなく、異なる立場の人も検討できる理路をつくろうとする竹田青嗣先生や西研先生、苫野一徳先生らの現象学と西條剛央先生の構造構成主義の蓄積がある。また、科学的知識や理論を、世界そのものの写しとしてではなく、一定の条件のもとで構成された理解として捉える池田清彦先生の構造主義科学論がある。

これらの思想に共通しているのは、絶対的な真理を所有しようとするのではなく、どのような前提と条件から、その理解が成り立っているのかを明らかにしようとする姿勢である。

ただし、前提や条件によって理解が変わると認めるだけでは、すべては人それぞれだという相対主義にとどまりかねない。異なる立場にいる人も思考の道筋をたどり、その妥当性と限界を確かめられるような理路を、どこまで組み立てられるか。そこまで考える必要がある。

僕自身は、こうした思想を踏まえながら、関心相関的本質観取、構造構成的本質観取、信念対立解明アプローチ、理論研究の方法論などを通して、「原理的思考」を研究と実践の中で整理し、定式化してきた。

この思想ノートでいう原理的思考は、先行する思想をそのまま紹介するものではない。

問いにすぐ答えるのではなく、問いを成立させている前提、概念、区分、観点、比較可能性、検証可能性まで遡る。問いが疑似問題になっている場合には、その背後にある切実な関心を失わないまま、現実に検討できる問いへ編み替える。

そのうえで、独断にも相対主義にも陥らず、立場の異なる人々が思考の道筋をたどり、その妥当性と限界を検討できる理路を組み立てる。

もちろん、そこで示された理路も、完成された絶対的なものではない。他者からの異論や新しい経験を受けて、その前提や適用範囲を問い直し、必要に応じて修正していかなければならない。

この記事は、こうした思想的蓄積と、これまでの実践や研究を踏まえて、原理的思考として改めて整理したものである。

基盤となった主な文献

  • 池田清彦『構造主義科学論の冒険』毎日新聞社、1990年。
  • 京極真「『方法』を整備する――『関心相関的本質観取』の定式化」『看護学雑誌』72巻6号、2008年、530–534頁。
  • 京極真「理論的研究の方法論としての構造構成的本質観取」『吉備国際大学研究紀要(保健科学部)』21号、2011年、19–26頁。
  • 京極真『医療関係者のための信念対立解明アプローチ――コミュニケーション・スキル入門』誠信書房、2011年。
  • 京極真「原理的思考」友利幸之介・京極真・竹林崇『作業で創るエビデンス――作業療法士のための研究法の学びかた』医学書院、2019年、270–271頁。
  • 西條剛央『構造構成主義とは何か――次世代人間科学の原理』北大路書房、2005年。
  • 竹田青嗣『哲学とは何か』NHK出版、2020年。
  • 竹田青嗣『新・哲学入門』講談社、2022年。
  • 竹田青嗣『欲望論 第1巻 「意味」の原理論』講談社、2017年。
  • 竹田青嗣『欲望論 第2巻 「価値」の原理論』講談社、2017年。
  • 竹田青嗣・苫野一徳『伝授!哲学の極意――本質から考えるとはどういうことか』河出書房新社、2025年。
  • 苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』講談社、2011年。
  • 苫野一徳『はじめての哲学的思考』筑摩書房、2017年。
  • 西研『哲学的思考』筑摩書房、2005年。
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