ぼくは、人間、社会、自由について考えている。
いきなりこんなことを書くと、「ずいぶん大きなことを考えていますね」と思う人がいるかもしれない。
それは、もちろんそうである。
人間とは何か。
社会とは何か。
自由とは何か。
こんな問いに、簡単な答えがあるはずもない。
ぼくがこの思想ノートでやりたいのは、そういう大きな問いに正解を出すことではない。
生きていると、「なんでこんなことになるんだろう?」「ほんまにそうなの?」「それって、ときと場合によるんじゃないの?」みたいに引っかかることがある。
それを放置せず、できるだけ強く深く考える。
この思想ノートは、そのためのノートである。
生きている世界が違う
ぼくが人間や社会について考えるとき、かなり基礎に置いていることがある。
あらゆる人間は固有の世界観の中で生きているということである。
ぼくはぼくの世界観を通してでしか他者と関われないし、皆さんもまた各人の世界観を通してでしか他者と関われない。
これはもうひっくり返しようがない。
世界観は、大小さまざまな信念からできている。
何が正しいと思うか。
何を大切にするか。
何を嫌だと感じるか。
どんな人生を送りたいか。
そういうものは、それぞれが生きてきた経験によって違う。
つまり、生きている世界観が違う→思考、感情、行動が違うということである。
時間と空間をともにしていても、世界観が違えば、思考・感情・行動は千差万別になる。
だから人間関係は難しい。
家族でも、友人でも、職場でも、専門家同士でも、
「なんでわからないの?」となる。
けども、向こうも同じように、
「なんでこっちのことがわからないの?」と思っているかもしれない。
人間関係が難しいのはお互い様なのである。
信念対立は、人間と社会の根本問題である
世界観が違うなら、当然ながら意見も違う。
大切にしていることも違う。
なので、人が集まれば信念対立が起こる。
ぼくは長いあいだ、この問題を考えてきた。
結論からいえば、信念対立は世界観の確執という問題である。
しかも、信念対立は特別な人だけに起こる問題ではない。
生きている人間さえいれば生じる。
だから、信念対立は人間と社会の根本問題である。
ここが、この思想ノートのかなり大きな出発点になっている。
人は、なぜ分かり合えないのか。
正しいと思っている者同士が、なぜ揉めるのか。
自分の正しさを、なぜ他人に押しつけてしまうのか。
立場が強くなると、なぜ他人の声が聞こえにくくなるのか。
世界観が違う人たちが、それでも一緒に生きるにはどうしたらよいのか。
こんなことを考えていくと、人間関係の話から、組織、権力、社会、自由の問題まで全部つながってくる。
人間ってほんとうにややこしいですね。
でも、だから面白いのである。
原理的に考える=原理的思考
では、ぼくはそういう問題をどう考えているのか。
ぼくが大事にしているのは、原理的に考えることである。
原理的に考える、すなわち原理的思考とは、できるだけ疑いの余地のない理路をたどっていくような考え方である。
もっと簡単に言えば、すごくクールに冷静に強く深く考える、ということである。
例えば、「Aが正しい」と思ったとする。
そのとき、「そうだよね」で終わらない。
「ほんまに?」と考える。
どういう目的なら正しいのか。
どういう状況なら正しいのか。
逆に、どういう条件なら正しくなくなるのか。
反例はないのか。
自分が逆の立場でも同じことを言えるのか。
そんな感じで考える。
前提となる条件が変われば、妥当な判断が変わることはふつーにある。
だったら、「AかBか」で秒速で決めるのではなく、何のために、どういう条件で考えているのかに戻ればよい。
哲学は、こういう強く深く考えるための思考法の宝庫である。
ただし、哲学を知っていることと、考えていることは同じではない。
知識は大事である。
めちゃくちゃ勉強した方がよい。
けども、「まだ十分に知らないから」と思考停止してもしょうがない。
知識不足を理由に思考を停止させず、考え抜くことが大事だ。
知る。
考える。
わからなくなる。
また調べる。
また考える。
そんな感じでよいのである。
人間、社会、自由はつながっている
この思想ノートでは、大きく人間、社会、自由について考える。
でも、ぼくの中では、この3つはそんなにきれいに分かれていない。
例えば、ぼくは作業療法を専門にしてきた。
作業療法士は医療専門職であるけども、その歴史や原理までたどると哲学から生まれた実践論とも言える。
作業療法から人間を見ると、何をしているのか。
何ができなくなったのか。
どんな役割をもっているのか。
どういう日課で生きているのか。
何を大切にしているのか。
といったところが気になってくる。
すると、人間の問題になる。
でも、人間は一人で生きているわけではない。
家族、職場、制度、専門職、組織などとの関係の中で生きている。
すると社会の問題になる。
さらに、人それぞれ世界観が違う中で、「どうしたら自分の生を生きられるのか」「どうしたら他者も自分の生を生きられるのか」と考える。
すると自由の問題になる。
社会のもっとも基礎にある最重要のルールとして、ぼくは自由の相互承認を大切にしている。
簡単に言えば、自由の相互承認とは、ぼくらが生きたいように生きるために、お互いに自由な存在であると認めあうことである。
それぞれいろんな事情がある。
だったら、他人に不可逆的な迷惑をかけない限りは自由にやればよい。
こんな感じで、人間を考えていると社会につながり、社会を考えていると自由につながる。
自由を考えれば、また人間に戻ってくる。
なので、この思想ノートでは、そのへんを行ったり来たりしながら考えている。
まず読むなら、この5本
この思想ノートはどこから読んでもよい。
ほんとうにそう思っている。
けども、「それだと逆に困る」という人もいると思うので、ひとまず入口になる5本を置いておく。
1.分かり合えない世界で、考えるということ
人間関係が難しい理由は、生きている世界が違うからである。
「わかりあえる」を前提にすると、「わかりあえない」ときに簡単にトラブル化する。
だったら、わかりあえないからはじめる。
そのうえで、必要なところだけすりあわせ、わかりあえなくても納得できるところを探せばよい。
この思想ノートの出発点にいちばん近い文章である。
2.正しさの衝突はなぜ人を壊すのか
信念対立は世界観の確執である。
自分にとって正しいことが、そのまま他者にとって正しいとは限らない。
それでもぼくらは、自分の正しさを無条件にしてしまうことがある。
しかも、そこに立場や権力が乗ると、話はもっとややこしくなる。
正しさについて考えることは、人間と社会について考えることである。
3.作業療法から、人間を見る
ぼくにとって作業療法は、生活を支援するための専門性であると同時に、人間を見るための切り口でもある。
作業モデルは生活支援の叡智の結晶である。
意味のある作業、役割、日課、環境などから人間を見ると、身体や心だけを見ていたときとは違うものが見えてくる。
ただし、セオリーに忠実になることと、セオリーに支配されることはまったく違う。
目の前の人より理論を重視したら本末転倒である。
4.書くことは、自由の技術である
ぼくは長いあいだ、論文、著書、ブログなどを書き続けてきた。
書くことは、考えた結果を記録するだけではない。
書いてみると、「あれ?」となる。
そこでまた考える。
つまり、書きながら考えるのである。
考えが変われば、また書き直せばよい。
過去の自分にまで縛られる必要はない。
5.専門家として生きながら、専門家に閉じない
専門性は高めた方がよい。
けども、専門性にこだわるあまり排他的になってもいけないし、専門性がきっかけで嫌な目にあったからといって、それを放棄してもいけない。
ぼくは、専門性を高めつつ、学際性を身につけることが大事だと考えている。
セオリーは、目の前で困っている人のために柔軟に使い倒せばよい。
専門家だからこそ、自分の専門から見える世界が、世界そのものではないと知っておいた方がよいのである。
気になったところから読めばよい
ここまで書いておいてなんだけども、別にこの5本から読まなくてもよい。
タイトルを見て、「何それ?」と思った記事から読めばよい。
人間について考えていたつもりが、社会の問題に行ってもよい。
自由について読んでいたら、作業療法の話に飛んでもよい。
順番なんてどうでもよいのである。
この思想ノートは、何かひとつの正しい世界観を教えるための場所ではない。
そもそも、世界観が人それぞれ異なるということは、絶対に正しい世界観はない。
あるのは、その時々で確からしい世界観であり、それも時と場合によっては確かなものではなくなる。
だったら、ぼくが書いたものだって同じである。
いまはこう考えている。
でも、考え抜いた結果、「やっぱり違うな」となるかもしれない。
そのときは、また考えればよい。
また書けばよい。
行動しながら考える。
考えながら書く。
そして、ときどき自分が書いたことまで眉に唾つけて読み直す。
ひとまず、そんな感じでやっていく。
分かり合えない世界で、人間・社会・自由について考える。
この思想ノートは、そのための場所である。