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原理的思考とは何かー問いの成立条件から考え直す方法

問いを立てることは、考えることの始まりだと思われている。

実際、問いがなければ、何を考えればよいのかも、何を調べればよいのかも決まらない。研究でも、教育でも、日々の生活でも、僕らは問いを立て、その答えを探しながら進んでいる。

けれど、長く考えても答えが出ない問いがある。

本当の自分は存在するのか。人は本当に変われるのか。話し合えば分かり合えるのか。自立とは、誰にも頼らず生きることなのか。正しい判断には、一つの基準があるのか。

こういう問いを考え始めると、答えはなかなか定まらない。考えるほど立場が分かれ、議論を重ねるほど、最初よりわからなくなることさえある。

もちろん、それだけ難しい問題なのかもしれない。

ただ、別の可能性もある。

答えが難しいのではなく、問いそのものが、うまく成立していないのではないか。

僕の理解によると、「原理的思考(哲学的思考)」は、そこから始まる。

ここでいう原理的思考には、構造主義科学論、構造構成主義、現象学的な本質論の蓄積が背景にある。僕自身も、関心相関的本質観取や構造構成的本質観取、信念対立解明アプローチ、理論研究の方法論を考える中で、この思考法を使い、少しずつ整理してきた。ただし、この記事で思想史を詳しく解説したいわけではない。ここでは、原理的思考が実際にどのような思考の運動なのかを、できるだけ日常の問いに戻して考えてみたい。

答えを探す前に、問いの手前へ戻る

一般に、問いが示されると、僕らはその問いを正しいものとして受け取り、答えを探し始める。

「人は変われるのか」と問われれば、変われる理由と変われない理由を考える。「自立と依存のどちらが望ましいか」と問われれば、どちらを選ぶべきか検討する。「本当の自分は存在するか」と問われれば、存在する、しないという二つの立場を比べようとする。

しかし、原理的思考では、すぐにその議論へ入らない。

そもそも、その問いが成り立つためには、何が成立していなければならないのか。問いが暗黙のうちに分けている二つのものは、本当に別々に存在するのか。両者を同じ基準で比較できるのか。問う人は、その答えを確かめられる位置に立てるのか。

問いの一歩手前へ戻り、その問いが立ち上がっている足場を確かめる。

原理的思考とは、問いを受けてひたすら深く考えることではない。難しい言葉を使うことでも、常識と反対の結論を出すことでもない。考えられる限り遠くまで抽象化することでもなければ、どの意見にも一理あると相対化することでもない。

問いに答える前に、問いが成立する条件を考える。

そこが、通常の思考との大きな違いだ。

問いは、すでに問題のありかを決めている

問いは、すでに存在する問題を、そのまま映し出すものではない。

問いを立てた時点で、僕らは現実をある仕方で切り分けている。何かを問題として前に出し、それ以外のものを背景へ退けている。

たとえば、「なぜ、この人は社会に適応できないのか」という問いがある。

この問いから始めると、その人の性格、能力、意欲、認知、対人関係などが検討の中心になる。本人のどこに問題があり、何を改善すれば適応できるのか、という方向へ思考が進みやすい。

しかし、本当に問題は、その人の内側だけにあるのだろうか。

制度が硬直しているのかもしれない。多数派の生活様式だけが標準とされているのかもしれない。参加するための支援や情報が足りないのかもしれない。経済的な条件や、周囲との力関係によって、選択肢そのものが狭められている可能性もある。

「なぜ、この人は適応できないのか」という問いは、問題の所在を、知らないうちに本人の側へ置いている。

問いは、何を見るかを決めるだけではない。誰に説明を求め、誰に努力や変化を要求し、何を問題として扱わないかまで決めてしまうことがある。

だから、問いを吟味するというのは、言葉づかいを細かく点検することではなく、人間や社会をどのような構図で見ようとしているのかを確かめることだ。

問いを成立させている、見えない条件

問いには、その問いが成り立つために必要な条件が含まれている。

「役割を取り除いた先に、本当の自分はいるのか」という問いを考えてみる。

この問いが成り立つためには、社会的な役割と自己を切り離せる必要がある。役割を持つ以前の、純粋な自己が存在しなければならない。さらに、その自己と現在の自分を、同じ基準で比較できる必要もある。

けれど、僕らは、社会や他者や言葉から切り離された自分を経験できるだろうか。

人は、誰かとの関係の中で言葉を覚え、身体を使い、何かをしながら生活している。親、子、教員、学生、専門家、同僚といった役割だけでなく、名前や記憶、好みや嫌悪まで、他者や社会との関係の中で形づくられてきた。

社会から影響を受ける以前の自己を取り出し、現在の自分と並べて比較することはできない。比較しようとしている本人も、すでに社会の中で生きているからだ。

だとすれば、「本当の自分は存在するか」という問いは、まだ答えが見つかっていない問いなのではなく、答えを確かめるための条件そのものが成立していない可能性がある。

自立と依存をめぐる問いも似ている。

「自立か、依存か」と問うと、両者は反対の状態に見える。自分でできることが自立であり、誰かに頼ることが依存である。そう考えると、自立するためには、できるだけ他者に頼らない方がよいことになる。

でも、人は、道路、電気、医療、制度、知識、技術、家族、同僚など、数え切れないほどのものに支えられて生きている。

一人で生活しているように見える人も、誰にも依存していないわけではない。むしろ、必要な支えを選び、自分の生活を組み立てられるからこそ、自立していると感じられる場合がある。

ここでは、自立と依存を排他的に分ける区分そのものが、問いを難しくしている。

二つの答えのどちらかを選ぶ前に、本当に二つに分けられるのかを確かめる必要がある。

答えがわからない問いと、答えようのない問い

考えても答えが出ないとき、その理由は同じではない。

必要な情報が足りず、まだ答えがわからない問いがある。これは、調査や観察、研究を進めることで答えに近づける可能性がある。

一方で、問いのつくり方そのものによって、答えようのない問いもある。

比較する対象を確認できない。共通の比較基準がない。問う人が、両方を観察できる位置に立てない。答えが正しいかどうかを確かめる方法がない。

そうした問いに対して、証拠を探し続けても、たぶん決着はつかない。

たとえば、他者の内面そのものを、自分の理解と比較することはできない。僕らが確認できるのは、相手の言葉、表情、行為、状況、それに対する自分の理解であって、相手の内面そのものではない。

もちろん、それでも他者を理解しようとすることには意味がある。相手の言葉を聞き、自分の理解を伝え、違っていれば修正することはできる。

ただし、相手の内面と自分の理解が完全に一致しているかどうかを、外から確かめることはできない。

ここを区別しないと、僕らは確認できないものを確認しようとして、いつまでも同じ場所を回り続けることになる。

疑似問題という言葉が、切り捨ててはいけないもの

問いの構造上、原理的に答えようのない問題を、僕は疑似問題と呼ぶことがある。

この言葉は、少し冷たく響く。

その人の苦しさや悩みまで、偽物だと言っているように聞こえるからだ。けれど、ここでいう疑似問題は、苦しみが存在しないという意味ではない。

問いの形式が成り立っていない、という意味だ。

「本当の自分は存在するのか」という問いには、原理的に答えられないかもしれない。しかし、役割や他者の期待に疲れ、自分の人生を自分で生きていると感じられない苦しさは、現実にある。

「他者を本当に理解できるのか」という問いも、完全な一致を確認するという意味では答えられない。それでも、自分の理解が独りよがりではないか、相手を傷つけずに応答できるかという問題は残る。

問いが成立しないからといって、その問いを生み出した切実さまで消してはいけない。

疑似問題を見抜くというのは、「そんなことを考えても無駄だ」と切り捨てることではなく、答えようのない問いの中に閉じ込められていた、本当に考える必要のある問題を救い出すことだ。

問いを壊すのではなく、編み替える

元の問いがそのままでは成立しないとわかったとき、必要になるのが、問いの編み替えである。

問いを編み替えるとは、言葉を柔らかく言い換えることではない。問いを成立させていた不要な前提を外し、経験的、論理的、実践的に検討できる形へ変えることだ。

「本当の自分は存在するのか」という問いは、「人は、どのような条件のもとで、自分の生き方を自分のものとして引き受けられるのか」と編み替えられるかもしれない。

この問いなら、現実の生活に戻って考えることができる。

誰の期待によって身動きが取れなくなっているのか。どの役割を引き受け、どの役割から降りたいのか。選び直すための時間、安全、収入、支援があるのか。現在の生活の中で、何を自分の選択として確かめられるのか。

「他者を本当に理解できるのか」は、どのような応答と確かめを重ねれば、自分の理解を独りよがりなものにせず、必要に応じて修正できるのか」と問い直せる。

「自立とは、一人でできることなのか」は、「人は、どのような支えや依存関係の中で、自分の生活について選択できるのか」へ移すことができる。

編み替えられた問いには、絶対的な答えが出るとは限らない。それでも、何を観察し、何を比較し、どの条件を変えればよいのかが見えてくる。

思考が、現実へ戻れるようになる。

共通了解は、同じ結論になることではない

原理的思考が目指すのは、すべての人を同じ結論へ導くことではない。

人は、異なる身体、経験、関心、立場、役割をもっている。何を守りたいのか、どの危険を避けたいのか、何を優先するのかが違えば、同じ事実を前にしても判断が分かれることはある。

ここでいう共通了解とは、全員が同じ考えを持つことではない。

どの経験から考え始めたのか。どの概念を、どの意味で使っているのか。どの条件ではその判断が成り立ち、どの条件では成り立たないのか。何を目的に置いたために、その結論へ至ったのか。

その道筋を、異なる立場の人もたどれるようにすることだ。

結論に同意できなくても、どこまでは共有でき、どの地点から判断が分かれたのかがわかる。そこまで明らかになれば、対立の形は少し変わる。

反対意見が消えるわけではない。利害の衝突がなくなるとも限らない。

それでも、「相手は何もわかっていない」「こちらだけが正しい」という、互いを閉じた理解から、少し離れることができる。

「原理」とは、人間の外側にある絶対的な正解ではない。特定の関心と条件のもとで、他者も思考の道筋をたどり、その妥当性や限界を検討できる理路のことだと、僕は考えている。

原理的思考もまた、問い直されなければならない

ただ、原理的思考を、あらゆる問いを解体する万能の方法として扱うべきではない。

問いが明確で、経験的に検証できるなら、その問いに答えればよい。すべての問いに隠れた前提を探し、複雑にする必要はない。

現実には、考え続けている時間がない場面もある。

医療、安全、災害、組織運営などでは、不十分な情報のまま判断しなければならないことがある。問いの立て方を吟味することが、判断や責任を先延ばしにする口実になってはならない。

また、社会的な不公正や暴力まで、「見方の違い」「問いの立て方の問題」にしてしまえば、現実に被害を受けている人の苦しさが見えなくなる。

問いを疑うことは必要だ。

けれども、自分の判断だけを安全な場所へ避難させるために、何も決められない問題へ変えてはいけない。

原理的思考そのものも、原理的思考の対象になる。

自分が取り出した前提は、本当にその問いに含まれているのか。自分に都合のよい反対意見をつくっていないか。問いを解体することで、誰かが負っている現実の負担を見えなくしていないか。「原理的である」という言葉を、新しい権威として使っていないか。

自分の思考だけを、問い直しの外側に置かない。しかし、これは言うほど、簡単ではない。

答えが速くなった時代に、何を問うのか

生成AIに問いを入力すると、かなり整った答えが返ってくる。

賛成と反対を整理し、背景を説明し、結論まで示してくれる。以前なら、いくつもの本や論文を読み、時間をかけて整理していたことが、驚くほど短い時間で言葉になる。

これは、大きな変化だと思う。

ただ、答えを生成する力が高まるほど、その手前にある問いの重さは増していく。

問いが個人の側にだけ問題を置いていれば、AIは個人を変えるための方法を、いくらでも提案できる。選択肢が不必要に対立させられていれば、それぞれの利点と欠点を、きれいに並べてくれる。確かめようのない対象について問えば、もっともらしい説明をつくることもできる。

答えが流暢であることと、問いが成立していることは、同じではない。

むしろ、答えが速く、わかりやすくなったからこそ、僕らは、その答えが何に答えているのかを確かめなければならない。

この問いは、何を前提にしているのか。何と何を分けているのか。誰に変化を求めているのか。何を見えなくしているのか。そもそも、確かめられる問いなのか。

AI時代に必要なのは、何を問うべきかを考え、必要であれば、与えられた問いから降りる力なのだと思う。

## 問いから自由になるということ

僕は、作業療法、信念対立、研究、教育について考えてきた。

扱っている問題は違って見える。それでも、その奥には、よく似た難しさがある。

人は、ある問いや理解や役割の中に入ると、それが世界のすべてのように感じられる。患者を診断名から見る。学生を成績から見る。対立を、どちらが正しいかという構図で見る。自分を、役割や評価の中だけで見る。

その見方が間違っているとは限らない。

けれど、それ以外の見方ができなくなったとき、人は問いの中に閉じ込められる。

原理的思考は、すぐに正しい答えを与える技術ではない。むしろ、自分がどの問いに閉じ込められているのかを見つけ、その問いを支えている条件(土台)まで戻るための思考だ。

問いを疑うことで、問題が消えることがある。

問いを編み替えることで、初めて考えられるようになる問題もある。

そして、問いの背後にあった切実さを見失わずに、現実の生活へ戻っていく。

たぶん、考えるというのは、答えを増やすことだけではない。

答えなければならないと思い込んでいた問いから、いったん自由になることでもある。

そのあとで、何を本当に問う必要があるのかを、もう一度考え始める。

原理的思考とは、そのための運動なのだと思う。

この文章の背景にある思想と主要文献

ここで述べた原理的思考は、僕が何もないところから独自に思いついたものではない。

その背景には、科学的知識や理論を絶対的な実在の写しとして扱わず、それらがどのような条件のもとで成立しているのかを考える構造主義科学論がある。また、現象、関心、目的、価値、意味の成立条件を問い、異なる立場の人々が共通了解できる理路をつくろうとしてきた構造構成主義、現象学、本質観取の思想的蓄積がある。

僕自身は、これらの思想を踏まえながら、関心相関的本質観取、構造構成的本質観取、信念対立解明アプローチ、理論研究の方法論などを通して、原理的思考を研究と実践の中で定式化してきた。

この思想ノートでいう原理的思考は、先行する思想をそのまま紹介するものではない。問いにすぐ答えるのではなく、問いを成立させている前提、概念、区分、観点、比較可能性、検証可能性まで遡り、問いが擬似問題になっている場合には、その背後にある切実な関心を失わないまま、現実に検討できる問いへ編み替える。そのような思考の運動として、これまでの研究と実践を踏まえて整理したものである。

基盤となった主な文献

  • 池田清彦『構造主義科学論の冒険』毎日新聞社、1990年。
  • 京極真「『方法』を整備する――『関心相関的本質観取』の定式化」『看護学雑誌』72巻6号、2008年、530–534頁。
  • 京極真「理論的研究の方法論としての構造構成的本質観取」『吉備国際大学研究紀要(保健科学部)』21号、2011年、19–26頁。
  • 京極真『医療関係者のための信念対立解明アプローチ――コミュニケーション・スキル入門』誠信書房、2011年。
  • 京極真「原理的思考」友利幸之介・京極真・竹林崇『作業で創るエビデンス――作業療法士のための研究法の学びかた』医学書院、2019年、270–271頁。
  • 西條剛央『構造構成主義とは何か――次世代人間科学の原理』北大路書房、2005年。
  • 竹田青嗣『欲望論 第1巻 「意味」の原理論』講談社、2017年。
  • 竹田青嗣『欲望論 第2巻 「価値」の原理論』講談社、2017年。
  • 竹田青嗣・苫野一徳『伝授!哲学の極意――本質から考えるとはどういうことか』河出書房新社、2025年。
  • 苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』講談社、2011年。
  • 苫野一徳『はじめての哲学的思考』筑摩書房、2017年。
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