書いていると、自分が何を考えていなかったのかが見えてくることがある。
頭の中では、わかっているつもりでいる。話しているときも、なんとなく筋が通っているように感じる。けれど、文章にしてみると、急にあやしくなる。
この言葉と次の言葉は、本当につながっているのか。自分は、何を問題だと思っているのか。なぜ、それをそんなに気にしているのか。
書くという作業は、こういう問いを、遠慮なく突きつけてくる。
だから、書くことは、頭の中にある考えを外へ出すだけの作業ではない。むしろ、外に出してみて初めて、自分の考えがどれほど曖昧だったかを知る営みだ。これは、気持ちのよいことばかりではない。かなり面倒だ。書くたびに、自分の中の粗さや弱さや飛躍が見えてしまうから。
でも、そこが面白いところでもある。僕が書くことそのものが好きなのも、そこに理由がある気がしている。
ただ、「書くことは自由の技術である」と言うと、書けば人は自由になれるようにも聞こえる。
本当にそうなのだろうか。
文章は、人を自由にするだけではない。過去に書いた言葉に縛られることもある。読者から期待される自分を演じ続けることもある。書くことが仕事や評価のための義務になり、考える余地を奪う場合もある。
だとすれば、考えるべきなのは、書くことが自由をもたらすかどうかではない。
書くことは、どのような条件のもとで、自分を縛っている問いや言葉に気づき、それらとの関係を選び直す技術になりうるのか。
僕がここで考えたいのは、そのことだ。
締切のためだけに書いているわけではない
僕は長く、研究計画書、論文、著書、連載、教材、ブログ、メモ、メール、事務書類など、いろいろな文章を書いてきた。
もちろん、締切に追われて書くこともある。何年もかかって書き続けているものもある。書かなければならないから書く。業績にするために書く。授業や研究指導のために書く。趣味で書く。仕方なしに書く。そういう現実も、当然ある。
けれど、それだけでは、書くことの意味は尽くせない。
研究でも文章でも、本当に大事なのは、自分が何を問うているのかに気づくところにある。方法を選ぶ前に、問いがある。データを集める前に、世界のどこに引っかかっているのかがある。論文を書く前に、その領域のどこに、まだ言葉になっていない問題が残っているのかを見ようとする態度がある。
問いは、最初から立派なかたちで出てくるわけではない。
多くの場合、問いは違和感として現れる。何かがおかしい。うまく説明できない。現場で見ていることと、教科書に書かれていることが、少しずれている。患者さんや学生や同僚と関わる中で、既存の言葉では取りこぼされるものがある。
そういう小さな引っかかりが、研究や執筆の始まりになる。
ただ、その違和感は、放っておくとすぐに消える。忙しいから。役割があるから。制度があるから。理由はいくらでもある。
書くことは、その流れに、少し抵抗する行為だ。
目の前の出来事を、ただ過ぎ去らせない。自分の中に生じた違和感を、なかったことにしない。うまく言えないことを、うまく言えないままでも、とりあえず言葉の前に置いてみる。
けれど、違和感を問いに変えれば、それで十分というわけでもない。
問いもまた、自分を閉じ込めることがあるからだ。
問いを立てた時点で、すでに何かを決めている
問いは、問題をそのまま写し取るものではない。問いを立てた時点で、僕らは、何を問題として前に出し、何を背景へ退けるかを、ある程度決めている。「なぜ書けないのか」と問えば、語彙が足りない、構成力が弱い、集中力が続かないといった、自分の能力へ目が向きやすい。
けれど、書けない理由は、本当に能力の中にだけあるのだろうか。
そもそも、何を書こうとしているのかが定まっていないのかもしれない。自分では納得していない結論を書くよう求められているのかもしれない。誰かの評価を気にしすぎて、一つの言葉を選べなくなっていることもある。書けば不利益を受ける状況で、沈黙することのほうが妥当な場合さえある。
「なぜ書けないのか」という問いは、知らないうちに、書けない原因を本人の側へ置いてしまう。「どうすれば、もっと自由に書けるか」という問いにも、書きたいことがすでに自分の中にあり、制約を取り除けば、それを純粋な形で表現できるという前提が含まれている。
でも、書く前から、完成した考えが内側にあるとは限らない。何を書きたいのかも、何に違和感をもっていたのかも、言葉を並べ、消し、読み返す中で、少しずつ形になっていく。書くことは、あらかじめ存在する本当の考えを取り出す作業というより、考えが成立していく過程でもある。
だとすると、書くことで見えてくるのは、自分の内側に隠されていた答えだけではない。自分が、どのような問いによって現実を見ていたのか。その問いが、何を最初から問題だと決め、誰に変化を求め、どの可能性を見えなくしていたのか。
書くことは、答えをつくるだけではなく、自分が答えようとしていた問いそのものを、疑える形にする。ここに、書くことの大きな働きがある。
自分の外に置けば、自由になれるのか
人は、自分が何に縛られているのかが見えないと、そこから距離をとりにくい。
専門性に縛られていることがある。家族や社会の期待に縛られていることもある。もっと厄介なのは、自分自身の正しさに縛られているときだ。
自分では自由に考えているつもりでも、実際には、かなり狭い言葉の中でしか考えていないことがある。いつも同じ言い回しで説明する。いつも同じ順番で理由を並べる。いつも同じ結論に着地する。
使い慣れた言葉は、考える手間を省いてくれる。その代わり、その言葉では捉えられないものを、最初から見えなくすることがある。
これは、誰にでも起こる。もちろん、僕にも起こる。だから、書く。
考えているあいだ、その考えは、自分の内側から透けて見えている景色のようなものだ。書くというのは、その景色を、一度、紙の上に描き直す作業に近い。描き直された景色には境目がある。だから、どこが曖昧で、どこが飛躍していて、どこが借りものの言葉なのかが、少し見えやすくなる。
書くことで、自分の言葉を、いったん自分の外に置くことができる。外に置かれた言葉は、読み返すことができる。疑うことができる。書き直すことができる。
ここに、自由への小さな回路がある。
ただし、言葉を外に置けば、客観的な場所から自分を見られるようになるわけではない。読み返している僕も、同じ経験や関心や言葉を背負っている。自分の外に、何にも影響されていない中立な場所をつくることはできない。
それでも、書く前と書いたあとでは、少し違う。頭の中にあるときには、一続きに感じられていたものが、文章になれば、ここからここまでと区切られる。昨日書いた自分と、今日読み返している自分のあいだにも、わずかな距離が生まれる。
完全に自分の外へ出ることはできなくても、自分の考えを修正できる形にはできる。書くことによって生まれる自由は、何の影響も受けない場所へ逃れることではない。自分を動かしていた言葉や問いとの関係を、少し変えられることなのだと思う。
書くことは、簡単に自分を解放しない
文章を書いたからといって、すぐに自由になるわけでは、決してない。
文章は、人を不自由にすることもある。いったん書いたことに縛られる。過去の自分の主張に縛られる。読者の期待に縛られる。
「あの人は、こういうことを書く人だ」と思われる。その期待に応え続けようとするうちに、以前とは違うことを考えにくくなる。自分の文章を守るために、経験のほうを文章に合わせて理解することさえある。
書いた言葉は、自分から離れる。けれど、離れたあとで、今度は外側から自分を縛ることがある。
だから、書くことは単純な解放ではない。
すでに決まっている結論を、ただ整った形に流し込むこともできる。自分の確信を疑うためではなく、より強固にするために書くこともできる。相手を理解するためではなく、相手が間違っていると証明するために言葉を並べることもある。
文章が論理的であることと、その問いが成立していることは、同じではない。よく書けていることと、その文章が自分を自由にしていることも、同じではない。
では、書くことが自由の技術として働くのは、どのようなときなのだろうか。少なくとも、自分の結論を表明したという事実より、その結論をあとから疑い、修正し、場合によっては撤回できることのほうが重要なのだと思う。
書くことによって自分を確定するのではなく、自分の考えを、編み直せるものにしておく。その余地がなくなったとき、文章は自由の技術ではなく、自分を不自由にする記録になる。
自分の確信が、他者のいる場所へ出ていく
言いたいことだけがあっても、文章にはならない。形式だけがあっても、読むに耐えるものにはなりにくい。
問いがあり、言葉があり、構造があり、読者がいる。
自分の内側にあったものが、文章というかたちで外へ出ると、そこには他者が入ってくる。自分だけの確信では済まなくなる。伝わらない可能性、誤解される可能性、批判される可能性にさらされる。
それは、怖いことだ。
けれど、他者に開かれない言葉は、自分の中で固まりやすい。自分だけが納得している言葉は、強く見えて、案外もろい。
他者から「そこはつながっていない」と言われる。「その問い方では、この経験が見えなくなる」と指摘される。こちらが明確に書いたつもりでも、まったく違う意味で受け取られる。そうした応答によって、自分が何を前提にしていたのかが見えてくることがある。
ただ、他者にさらされることが、いつでも自由につながるわけではない。
誰にでも読まれる場所へ出すことと、信頼できる一人に読んでもらうことは違う。批判に耐えなければ成長できないという言葉が、弱い立場の人に沈黙を強いる場合もある。書けば処罰される環境では、公開しないことや、名前を出さないことが、その人の自由を守ることもある。
書く自由には、書かない自由も含まれている。誰に見せるか。いつ出すか。どこまで書くか。まだ言葉にしないものを残すか。それを選べることも、書くことが自由の技術として働くための条件だと思う。
自由は、自分一人の内側だけでは成立しにくい。けれど、何でも他者へ開けば成立するわけでもない。
他者の応答によって自分の考えを修正できることと、他者の評価によって自分の言葉を失うこと。そのあいだには、かなり微妙な違いがある。
それでも、うまく書けない日のほうが多い
執筆に惹かれる理由は、たぶんここにある。
書くことによって、自分の問いを鍛える。問いを成立させている前提へ戻る。世界の見え方を少し変える。他者からの応答にさらされながら、また考え直す。
そういう地味な反復の中に、人が自由になるための技術があるのではないかと思う。
技術という言葉を使うと、手順やスキルの話に聞こえるかもしれない。でも、ここでいう技術は、もう少し広い意味だ。
自分を縛っているものを見えるようにする技術。曖昧な違和感を問いへ変える技術。その問いが本当に成り立つのかを確かめる技術。自分の正しさをいったん言葉の形にし、他者も検討できる場所へ置く技術。そして、書いたあとで、自分の問いや結論を選び直す技術。
簡単な技術ではない。たぶん、一生かかる。
僕自身、書くたびに、うまくいかないなぁと思う。この思想ノートも、そう感じながら書いている。
言葉が足りない。考えが浅い。もっと別の言い方があったのではないか。あとから読むと、まったく違うと感じることもある。そう思うことは、今でも多い。
以前、ある原稿を書いていたとき、何度書き直しても、一段落だけ前に進まないことがあった。文献は読んでいる。思考も深めている。なのに、どうしても書けない。
あとから考えると、そこは文章の問題ではなく、自分がその理路をどう受け止めているのか、まだ決められていなかったのだと思う。あるいは、そのときの僕は、決められていないことを、すでに決めた形で書こうとしていたのかもしれない。だから、文章が進まなかった。
でも、だから書くのだと思う。すでにわかっていることを確認するためだけなら、書く必要はあまりない。わかっていないことがあるから書く。自分がどの問いに閉じ込められているのか、まだ見えていないから書く。
書くことは、自由の技術である。そう言い切ってしまうと、やはり少し強すぎる。
書くことそれ自体が、人を自由にするわけではない。書く時間があること。言葉を選べること。書いたものを読み返せること。訂正や撤回を許されること。誰に見せるかを選べること。他者からの応答によって、自分の考えを直せること。
そうした条件があって初めて、書くことは、自分を縛っている問いや言葉との関係を組み替える技術になりうる。少なくとも僕にとって、書くことは、自分の奥にある本当の答えを取り出す方法ではない。
自分が何を当然だと思い、どの問いに答えようとし、何を見えなくしていたのかを確かめる方法だ。そして、必要なら、その問いからいったん離れ、別の問いを立て直すための方法でもある。
自由は、どこか遠くに完成形としてあるわけではない。言葉にして、読み返して、疑って、消して、また書く。その途中で、自分が従うしかないと思っていた言葉が、少しだけ選び直せるものになる。そこに、ときどき自由の手触りのようなものがある。
今日も、この文章を書きながら、まだ言えていないことのほうが多いと感じている。それでいい。次に書くときには、問いの形から変わっているかもしれない。