ニュースレター登録

思想ノート通信を受け取る

書くことは、自由の技術である

2026.06.28
まず読む5本

ぼくは、かなり長いあいだ文章を書き続けている。

論文、著書、ブログ、研究計画書、教材など、いろいろ書いてきた。

自分で言うのも変ですけども、たぶん普通の人よりはかなり多くの時間を文章を書くことに使ってきたと思う。

こう書き出すと憂鬱になってくるので、ここで打ち止めしますけども。

そんなぼくにとって、書くことは単に考えたことを文字にする作業ではない。

書くことは、自由になるための技術でもある。

いきなりこんなことを言うと、「文章を書けば自由になれるの?」と思う人がいるかもしれない。

それは、もちろん違う。

締切に追われて書けばしんどいし、他者評価を気にしながら書けば苦痛になる。過去に書いたことに縛られることだってある。

ぼくが言いたいのは、そういうことではない。

書くことによって考え、考えたことを疑い、また考え直すことができる。

その余地があることを、ぼくは自由と呼びたいのである。

書くことと、考えることはわりと近い

ぼくは以前、大学院生には「考え抜くこと」が期待されていると書いた。

研究をはじめると、わからないことがいっぱい出てくる。

勉強しても勉強しても、「ぜんぜん知らんかった」となる。

全集を読む。

関連書籍を読む。

論文をかたっぱしから読む。

周辺領域まで勉強する。

それでも知識不足を感じる。

けども、そこで「知らないからわからない」と思考停止したらダメなのである。

大事なのは、得られた知識を材料にして、とことん考えようとすることだ。

これは文章を書くときも同じである。

ある程度調べる。

考える。

書いてみる。

すると、「あれ?」となる。

さっきまでわかったつもりだったのに、文章にすると何かおかしい。

前と後ろがつながらない。

言いたいことはあるはずなのに、うまく書けない。

そういうことがわりとある。

でも、それでよいのである。

そこで、「自分は何を言いたいんだろう?」とまた考える。

書いて、考える。

考えて、また書く。

つまり、書きながら考えるのである。

ぼくがよく「行動しながら考える」と書いているのと、ほぼ同じである。

頭の中だけで完璧に考えてから書こうとすると、なかなか書けない。

本人は熟慮しているつもりでも、実際には愚図愚図しているだけ、ということもある。

だったら、とりあえず書けばよい。

書けば、自分の思い込みも見つけやすくなる

人間はそれぞれ固有の世界観の中で生きている。

ぼくも例外ではない。

ぼくはぼくの世界観を通してでしか物事を考えることができない。

これはもうひっくり返しようがない。

なので、自分ではかなり自由に考えているつもりでも、実際にはいつもの考え方をぐるぐる回っているだけ、ということがある。

「これはこういうものだ」「普通はこうだ」「こうするべきだ」「こうしなければならない」みたいな感じである。

こういう思い込みは、頭の中にあるだけだと案外わからない。

でも、文章にすると見つけやすくなる。

自分で書いて、自分で読むと、「ほんまに?」と思えるからである。

「なんでそう言えるの?」「逆はないの?」「ときと場合によるんじゃないの?」と考えられる。

ぼくは原理的思考を、できるだけ疑いの余地のない理路をたどっていくような考え方だと説明している。

文章を書くことは、この作業と相性がよい。

自分の考えをいったん文字にしてしまえば、眉に唾つけて読み返せるからである。

自分の頭の中にあるときはもっともらしかった考えが、文字にした途端に怪しさマックスになることもある。

それはそれで儲けものである。

他者評価を気にしすぎると、書けなくなる

ただし、文章を書くときに他者評価を気にしすぎるとしんどい。

これはほんとうにそうである。

「こんなことを書いたら馬鹿にされるかも」「批判されたらどうしよう」「専門家として変に思われるのではないか」などと考えはじめると、文章がぜんぜん進まなくなる。

メンタルブロックである。

本人は熟慮しているつもりでも、まだ起こっていない批判や否定を恐れているだけなら、熟慮というよりも愚図愚図しているだけである。

しかも、日々の生活で行われる他者評価なんて、めちゃくちゃいい加減なものである。

他者評価は、他者が観察可能な範囲でしか行われない。

しかも、その人の関心や欲望によって変わる。

昨日は褒められた文章が、今日は批判されることだってある。

Aさんには面白いと言われ、Bさんにはつまらないと言われる。

そんなものなのである。

もちろん、他者の意見は大事である。

批判を読んで、「確かにそうだな」と思えば直せばよい。

でも、他者評価だけで自分の価値を決める必要はない。

自分の価値は自分で決めることもできるし、むしろそれができてこその他者評価である。

だから、書きたいことがあるなら、まず書けばよい。

昔書いたことと、今も同じでなくてよい

もうひとつ大事なことがある。

昔書いたことに、自分を縛らないことである。

文章をたくさん書いていると、「以前はこう書いていましたよね?」と言われることがある。

もちろん、明らかな矛盾なら説明した方がよい。

けども、それも程度問題である。

人間は変わる。

考え方も変わる。

世界観が人それぞれ異なるということは、絶対に正しい世界観はない。

あるのは、その時々で確からしい世界観だけであり、それも時と場合によっては確かなものではなくなる。

だったら、自分が昔書いた文章だって同じである。

そのときはそう考えていた。

いまは違う。

それでよい。

過去の自分の判断が間違っていたことに気づくのは、以前とは違う水準で物事を考えられるようになったからかもしれない。

だったら、「あぁ、昔はそう考えていたのね」でよい。

未来は未定だからこそ、未来なのである。

昔書いた文章によって、これから考えることまで決めてしまう必要はない。

むしろ、以前と違うことを考えたなら、また書けばよい。

書いて、考えて、また変えればよい

ぼくは多忙でも書き続けるコツについて、モチベーションに頼らず、多くの時間を書くことに使うと書いてきた。

毎回、「よし、今日はやる気を出して書こう!」と思っていたら、はぁしんど、である。

そんなものは続かない。

なので、朝起きたら何か書く。

ちょっと時間があったら書く。

考えたことがあったら書く。

そんな感じで、書くことを習慣にしてしまえばよい。

でも、なぜそこまでして書くのか。

いまのぼくなら、たぶんこう答える。

考え続けるためである。

書けば、自分が何を考えているのか少しわかる。

書けば、自分の思い込みに気づくことがある。

書けば、他人に読まれて、自分では気づかなかった問題を指摘されることもある。

そして、違うと思ったら直せばよい。

また考えが変わったら、また書けばよい。

こうして考えを更新し続けることができる。

ぼくにとって、自由とは何にも縛られないことではない。

そんな状態はたぶん無理である。

人はそれぞれ世界観の中で生きているし、社会の中でいろんな制約を受けながら生きている。

でも、いまの自分の考えを絶対視せず、「ほんまに?」と問い直すことはできる。

違うと思ったら変えることもできる。

そのために、書く。

書いて、考える。

考えて、また書く。

そして、ときどき前に書いたことをひっくり返す。

まぁ、それぐらい自由でいいのではないかと思う。

書くことは、自由の技術である。

少なくとも、ぼくにとってはそうなのである。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学教授。思想ノートでは身近な違和感の奥にある前提を問い直し、分かり合えない世界で人間・社会・自由について考えている。

関連記事

ニュースレター登録
目次