専門家になると、世界の見え方が変わる。
それまで何となく見ていたものが、急に細かく見えるようになる。言葉が増える。判断の根拠が増える。何が危なくて、何が見落とされやすくて、どこに手を入れれば状況が動きそうかが、少しずつわかるようになる。
これは、かなり大きな力だ。
けれど、その力は、ときどき人を狭くもする。
専門家であることに慣れてくると、自分の専門から見える世界が、世界そのもののように感じられることがある。作業療法の言葉で人を見すぎる。研究の言葉で実践を見すぎる。大学の制度で人生を見すぎる。合理性で、人間の迷いや弱さを見落とす。
これは他人事ではない。僕自身にも、たぶん何度も起こっている。
妙なのは、世界を細かく見えるようにしたはずの同じ力が、いつのまにか、見えるものを減らしていくことだ。
なぜ、そんなことが起こるのか。
そう問うと、専門性というものが、人を開いたり閉じたりする力を、それ自体でもっているように見える。けれど、本当にそうなのだろうか。専門性そのものが、人を狭くするのではないかもしれない。
問題は、自分が専門性をどのようなものとして使い、どのような条件で、その見方を世界そのものだと思うようになるのかというところにある。
専門家に閉じないとは、専門の外へ逃げることではない。
自分の専門が何を見せ、何を見えにくくし、どこまでなら使えるのかを、問い直せる状態にしておくことなのだと思う。
専門性は、軽く扱ってよいものではない
専門家であることは、もちろん必要だ。専門性がなければ見えないものがある。
実践の場に長くいるからこそ気づける、生活の小さな崩れの兆しがある。研究という営みを続けてきたからこそ、ある問いの立て方が弱いと直感的にわかることがある。教える立場に立ち続けてきたからこそ、人が学ぶ過程のどこでつまずきやすいかが見えてくる。
立場が変わると、同じ出来事でも見えてくるものが変わる。
どれも、簡単なものではない。長い時間をかけて学び、失敗し、書き、教え、現場で悩み、また考える。その積み重ねが専門性になる。
だから、専門性を軽く扱うことには、僕はかなり抵抗がある。
「専門家も一人の人間なのだから、専門性にこだわらなくてよい」という話ではない。むしろ逆だ。専門家は、自分の専門にかなり深く入ったほうがいい。
深く入らないと、その専門が何を捉えようとしてきたのかも、どのような失敗や検討を重ねてきたのかも、見えてこないからだ。
表面だけをなぞると、作業療法はリハビリテーションの一種に見える。研究は論文を書く作業に見える。信念対立は表面的な意見の食い違いに見える。
でも、深く入ると、少し違ってくる。
作業療法を深く考えると、人が何をしながら生活を成り立たせているのかという問いに出会う。研究を深く考えると、何を根拠として、どこまで確かだと言えるのかという問いに出会う。信念対立を深く考えると、人はなぜ異なる世界を生きながら、なお何かを共有できるのかという問いに出会う。
専門性は、深く入るほど、専門の外へ通じていくところがある。
僕が面白いと思うのは、そこだ。
見方が、事実そのものに変わるとき
専門性とは、対象をそのまま写し取る透明な目ではない。何に注目するか。何を区別するか。何を重要な変化とみなすか。どのような目的に向けて判断するか。専門性は、そうした観点や概念や方法の組み合わせとして働いている。
作業療法士として見ると、人が何をして生活しているのかが前に出てくる。研究者として見ると、問い、根拠、検証の方法が気になる。教育者として見ると、その人が何を理解し、どこで理解が止まっているのかが見えてくる。
どの見方も、それぞれの目的において力をもっている。
ただ、その見方がうまく機能すればするほど、それが一つの観点であることを忘れやすい。
判断が何度もうまく当たる。周囲からも評価される。その言葉で説明すると、物事が整理できる。そうした経験が積み重なると、自分はある見方を使っているのではなく、ただ現実を正しく見ているだけだと感じるようになる。
ここで、見方が事実そのものに変わる。
「作業療法では、こう考える」という判断が、「人間とは、そもそもこういうものだ」に変わる。「この研究目的では、この方法が妥当だ」が、「研究とは、この方法で行うものだ」に変わる。「この制度では必要な判断だ」が、「この人の人生にとっても正しい判断だ」に変わる。
条件つきで妥当していたものが、条件を失っていく。
専門性が人を閉じるとすれば、それは知識が増えたからではない。自分の知識や方法が、どの目的と条件で成り立っていたのかが、見えなくなったときなのだと思う。
うまくいかない経験だけが人を狭くするわけではない。逆に、うまくいくことのほうが、実は危ういのかもしれない。
専門を、自分を守る壁にしてしまうこと
専門家に閉じるというのは、専門を自分を守る壁にしてしまうことだ。自分は専門家だからわかっている。専門外の人には、たぶんわからない。この領域では、こう考えるのが正しい。そのやり方は専門的ではない。
そう思ってしまう瞬間が、僕にもある。そういう言葉が、思わず口から出ることもある。こうした判断が、いつも間違っているわけではない。
専門性には境界がある。十分な知識や訓練がなければ、安全に行えないこともある。誤った理解や危険な実践に対しては、違うとはっきり言わなければならない。専門家と非専門家の意見を、いつでも平等に扱えばよいわけでもない。だから、「専門家の判断も一つの意見にすぎない」と言って、すべてを平らにしてしまうのは違うと思う。
けれど、専門性を根拠にした言葉が、自分の問いを止めるために使われはじめることがある。
専門外の人の違和感を、知識がないからだと片づける。異なる専門職の判断を、こちらの領域を理解していないからだと退ける。対象者や学生からの異論を、理解不足や未熟さとして処理する。
そのとき、専門性は、よりよく理解するための方法ではなく、自分が理解し直さなくてもよい理由になる。
しかも、専門家の言葉には、知識だけでなく、しばしば立場の力が重なっている。専門職が対象者に向けて語る。教員が学生を評価する。管理する立場の人が、組織の方針を決める。そうした場では、「専門的にはこうです」という言葉が、単なる見解以上の重さをもつ。
相手が異論を言いにくい状況で、反論がなかったことを納得や同意だと受け取ってしまえば、専門性は閉じたまま強くなる。専門家に閉じないために必要なのは、いつも控えめに話すことではなく、自分の判断がどの条件と目的から出ているのかを示し、異論によって修正される道を残しておくことだと思う。
専門の外に、無色透明な場所はない
では、専門に閉じないためには、専門の外へ出ればよいのだろうか。この言い方にも、少し考える余地がある。
僕らは、自分の立場や経験や言葉をすべて脱ぎ捨てて、世界を何の観点もなく見ることはできない。作業療法士であることを忘れ、研究者であることを忘れ、教員や管理職や家族としての役割をすべて外したところに、純粋な人間としての中立な視点がある、というのは幻想である。
専門の外に、何にも影響されていない無色透明な場所があるわけではないのだ。
別の領域の本を読むときも、専門外の人の話を聞くときも、生活者として考えるときも、僕はこれまでの経験や関心を通して受け取っている。
だから、専門家に閉じないということを、専門性から完全に離れることだと考えると、答えようのない問いになる。専門家でありながら、専門家ではない自分になることはできるのか。
たぶん、そうではない。
本当に考えたいのは、自分の専門性を消せるかどうかではなく、専門的な見方を唯一の見方にせず、目的と状況に応じて、その使い方を選び直せるかどうかである。
ある場面では、作業療法士として細かく見る。別の場面では、研究者として根拠を問い直す。教育者として判断しなければならないこともある。ときには、自分の専門では説明しきれないと認め、別の専門家や当事者の経験に判断を委ねる必要もある。
専門性から外へ出るというより、自分がどの観点から見ているのかを見えるようにする。そのほうが、現実に近い気がする。
役割は必要だ、でも人生を言い尽くさない
専門家として生きていると、本当は別のことも考えたいと思うことがある。専門の外にある問題にも関心がある。仕事の役割だけでは、自分の人生を説明しきれない。
けれど、専門家として期待される自分から外れるのが、どこか怖いということはないだろうか。
こういう感覚は、資格や肩書きをもつ専門職に限らないと思う。親には親としての自分があり、書き手には書き手としての自分がある。役割にはそれぞれ固有の責任があり、その責任を引き受けることは簡単ではない。
ただ、人間は一つの役割だけでできているわけではない。役割は必要だ。けれど、役割は、その人の人生を言い尽くすものではない。
ここで、役割を取り除いた奥に「本当の自分」が隠れていると考える必要はないのだと思う。僕らは、何の役割も関係ももたない自分を経験することはできない。人は、誰かとの関係の中で生き、何かを引き受けながら自分になってきた。
問題は、役割があることではなく、その役割以外の生き方を考えられなくなり、そこから降りたり、距離を変えたりする余地を失うことだ。
専門家としての評価を失いたくない。この領域で認められたのだから、そこから離れてはいけない。期待されている役割を果たせなくなれば、自分には価値がなくなる。
そう思っているうちに、自分の関心が痩せていく。
僕は、それが昔から、とても嫌なのだと思う。
専門性は、僕にとって世界を見る入口だ。でも、その入口だけが、世界へ出る道だと思いたくはない。
専門性は肩書きではなく、方法になる
専門家に閉じないというのは、専門性を捨てることではない。
専門性をもちながら、その専門性がどのような関心、目的、概念、方法から成り立っているのかを問い直すことだ。
なぜ自分は、この専門に惹かれているのか。この専門は、人間や社会のどこを見せてくれて、どこを見えにくくするのか。どのような問題には力を発揮し、どのような問題を扱うには足りないのか。
そう問いはじめると、専門性は肩書きではなく、世界と関わるための方法になる。
方法である以上、目的と条件から離れて、いつでも正しいわけではない。優れた方法も、使う場所を間違えれば、現実を狭く切り取る。
研究の方法は、確かな知識をつくるために力をもつ。けれど、測定できるものだけが、その人にとって重要なものとは限らない。作業療法の観点は、生活と行為の関係を見るために力をもつ。けれど、人間のすべてを作業の言葉で説明できるわけではない。組織運営の合理性は、多くの人が働く条件を整えるために必要だ。けれど、一人ひとりの人生が合理性だけで決まるわけでもない。
何のために、この方法を使うのか。何を見ようとしているのか。何を取りこぼす可能性があるのか。
そこへ戻れるかどうかが、専門性を方法として保つ境目になる。
複数の立場をもつだけでは、開かれない
立場が複数あることは、ときどき面倒だ。
大学教授としての責任がある。作業療法士としての専門性がある。研究者としての問いがある。教育者や管理する立場として判断しなければならないこともある。それぞれが、違う方向に引っぱることがある。
でも、その複数性が、自分を一つの役割に閉じ込めない支えにもなる。教育の論理だけで考えない。実践の論理だけで考えない。業績だけで人生を測らない。
複数の立場をもつと、一つの世界が絶対ではないことが見えやすくなる。これは、信念対立を考えるうえでも大きい。人は、自分が立っている世界を絶対化しやすいからだ。
ただ、複数の立場をもっていること自体が、開かれていることの証明にはならない。
「自分は一つの専門に閉じない人間だ」という自己像に、今度はそれ自体が閉じてしまうことがある。複数の肩書きをもっていることが、視野の広さを保証するわけではない。異なる立場をもっていても、それらすべてが自分を正当化するために使われているなら、閉じ方が複雑になっただけかもしれない。
持っている立場の数よりも、自分の判断が通用しない場面を認められるかどうかのほうが大事なのだと思う。
別の領域の本を読む。自分の専門では説明しにくい経験について考える。専門外の人の違和感を、未熟な理解として片づけずに聞く。
あるいは、ただ生活の具体性へ戻る。朝起きて、家族と話す。働く。お金のことを考え、将来に不安を感じる。思いどおりにならない身体や時間や制度の中で、何とか自分の生活を組み立てる。
ただし、生活者として見れば、専門性の歪みから完全に自由になれるというわけでもない。生活者もまた、一つの立場である。
それでも、専門的な概念の中では見えにくくなっていた困りごとを、具体的な生活へ戻して考えることはできる。それで十分な場合が、たぶんある。
何のための専門性だったのか
専門用語は増えたのに、人間が見えなくなる。方法は洗練されたのに、何のための方法だったのかがわからなくなる。それは、かなり危うい。
僕は以前から、専門性は人間に戻っていくためにあると考えてきた。いまも、その感覚は変わらない。ただ、「人間に戻る」という言葉も、少し曖昧ではある。戻るべき一つの人間像が、どこかに完成した形で存在するわけではないからだ。
むしろ、専門性が生まれた切実な関心へ戻る、と考えたほうが近いのかもしれない。
作業療法なら、目の前の人が、どのような生活を生きようとしているのか。研究なら、何をどこまで確かだと言えるのか。教育なら、その人が何を学び、自分で考えられるようになるには何が必要なのか。
制度や方法は、その問いに応えるためにつくられてきた。ところが、制度を守ること、方法を正しく適用すること、専門性を維持することが、それ自体で目的になると、最初にあった関心が後ろへ退く。
何のための専門性だったのか。この問いへ戻れなくなったとき、専門性は閉じはじめる。
自由という言葉も、ここにつながっている。
自由は、役割をすべて捨てることではない。専門性の影響を受けない純粋な自分になることでもない。専門家としての責任、組織の中での役割、家族や仕事や経済の条件。そうしたものを抱えながら、それでも、自分がどの見方を使い、どの判断を引き受け、どこでは別の可能性を残すのかを考え続けることだと思う。
自分はいま、何を目的として、この専門性を使っているのか。その目的に、この方法はまだ合っているのか。誰の言葉によって、自分の理解を修正できるのか。
そうした問いをもてることが、専門家としての自由の一部なのかもしれない。
深く入るからこそ、問い直せる
専門家として生きることは、悪くない。
むしろ、僕は専門家として生きることに、多くの時間を割いてきた。そのことに価値を感じている。何かを深く学び、実践し、他者に役立て、知識や技術を更新していくことは、人間にとって大切な営みだ。
けれど、専門家であることが人生の全部になってしまうと、少し苦しい。
専門性をもつ。でも、専門性を世界そのものにしない。
役割を引き受ける。でも、役割だけで自分を言い尽くさない。
判断する。でも、その判断が成立する条件と、修正される余地を残しておく。
この距離感を保ち続けることが、たぶんいちばん難しいが、専門家として成熟するというのは、何でもわかるようになることではないのだと思う。
自分の専門がどこまで届き、どこから先は届かないのかが、以前より見えるようになること。自分が何を見ていて、何を見落とす可能性があるのかを、少し正確に言えるようになること。そして、必要であれば、自分の判断を別の立場から問い直せること。
深く入るからこそ、外へ通じる問いが生まれる。外から問い直されるからこそ、専門性もまた深くなる。
その往復に、終わりはないのだと思う。
外から見れば、ただ迷っているだけに見えるかもしれない。だとしても、迷いながら問い直していることと、迷わなくなって固まってしまうことは、まるで違う。
専門家として僕が恐れているのは、専門性を失うことではない。
自分の専門性を、もう問い直す必要がないと思うようになることのほうだ。