専門家は、専門性にこだわった方がよい。
いきなりこんなことを言うと、「専門性にこだわるから視野が狭くなるのではないか」と思う人がいるかもしれない。
それは、もちろんそうである。
専門性へのこだわりが強くなって、排他的になる人はいる。自分たちが専門とする仕事以外はしないとか、他の領域の考え方を受けつけないとか、そういうこともわりとふつーに起こる。
ぼくが言いたいのは、そういうことではない。
専門性にこだわるあまり排他的になってもいけないし、専門性がきっかけで嫌な目にあったからといって、それを放棄してもいけない。
専門家として生きるなら、専門性を高めつつ、学際性を身につける。
ひとまず、これぐらいでよいと思う。
専門性は高めた方がよい
そもそも、専門家なのだから専門性は高い方がよい。
これは当たり前である。
専門家なのに専門的な知識や技術が乏しかったら困る。
作業療法士なら作業療法について深く学んだ方がよいし、研究者なら研究について深く学んだ方がよい。教育者なら教育について考え抜いた方がよい。
ぼくの経験でいえば、実践は哲学、人間作業モデル、エビデンスに根ざした実践などのセオリーに忠実に仕事しはじめてから、できることが増えていったという皮膚感覚レベルの実感がある。
哲学は強く深く考えるための思考法の宝庫であり、人間作業モデルは生活支援の叡智の結晶であり、エビデンスに根ざした実践は効果が確認された実践を見つけるための法則集のようなものである。
知らないより知っていた方がよい。
できないよりできた方がよい。
専門家なら、自分の専門についてサクッとしか知らない状態で満足せず、深く入っていけばよい。
なので、「専門家に閉じない」という話を、「専門性なんてどうでもいい」と受け取ったら違う。
「私は自分の職種の専門性にはこだわらない。隙間産業の何でも屋でいい」
みたいな話ではないのである。
それは専門家に閉じないというより、専門性を放棄しているだけかもしれない。
でも、専門性は排他的にもなりうる
他方、専門性を強く意識すると、それをめぐって信念対立が起こることがある。
これはわりとやっかいである。
例えば、「○○療法士って△△療法士の真似事ばかりしている」「専門家として何ができるのかわからない」「だから頼れないし、信頼できない」みたいなことが起こる。
すると、「こういう問題を解決するには、自分たちの専門性をもっと高めるしかない」となり、「だから、自分たちが専門とする仕事以外はしない」という方向に進むことがある。
専門性へのこだわりが強くなって、排他的になるわけである。
人間ってほんとうにややこしいですね。
専門性がないと専門家として困る。
でも、専門性にこだわりすぎると、今度は他の世界が見えなくなる。
これはAかBかという話ではない。
専門性を高めるか、専門性を捨てるか。
どっち?
と問われたら、どちらか一方を選びたくなるけども、そういう二択に乗る必要はない。
専門性を高めつつ、専門性に閉じなければよい。
## セオリーに忠実になることと、セオリーに支配されることは違う
ここはかなり大事である。
セオリーに忠実になることと、セオリーに支配されることはまったく違う。
セオリーに支配された状態は、目の前にいるクライエントよりもセオリーを重視する態度をもたらす。
例えば、「この理論ではこう考える」「このモデルではこうする」「この方法が正しい」ということが先にあって、目の前の人をそこに押し込んでいく。
なんて本末転倒な・・・という話である。
他方、セオリーに忠実になるとは、目の前にいるクライエントの問題を解決するために、セオリーを柔軟に使い倒すということである。
こっちが大事である。
セオリーのために人間がいるわけではない。
人間の問題を考えたり、解決したりするためにセオリーを使うのである。
これは専門性全般にも言える。
専門性に支配されると、「専門的にはこうだから」で思考停止しやすい。
専門性に忠実なら、「この状況で、この目的なら、この専門知識をどう使えばよいか」と考えることになる。
似ているようで、ぜんぜん違う。
正しさは目的と状況で変わる
ぼくは信念対立解明アプローチで、目的と状況をアンカーにして考えることを重視している。
これは専門性を使うときにも便利である。
例えば、クライエント中心の実践を考える。
クライエントが自己決定できる状態で、その人の生活の再構築を支援したいという関心があるなら、クライエント中心の実践はおそらく正しい。
でも、クライエントが意識不明で、とにもかくにも救命しなければならない状況ならどうか。
同じ考え方をそのまま使えばよいとは言いがたい。
つまり、「この専門的な考え方は正しいか?」だけでは足りない。
何のために使うのか。
どんな状況なのか。
そこまで見なければならない。
目的と状況が変われば、必要になる専門性も変わる。
自分の専門だけで足りることもある。
他の専門家のチカラが必要になることもある。
場合によっては、専門家よりも目の前の本人の方が、その人の生活について圧倒的によく知っていることだってある。
だったら、必要に応じて聞けばよい。
自分の専門で考える。
他の専門からも学ぶ。
目の前の人からも学ぶ。
目的と状況にあわせて使い分ければよい。
専門性×学際性で考えればよい
ぼくは以前、良質なチーム医療には「専門性×学際性」の両立が欠かせないと書いた。
これはチーム医療だけの話ではないと思う。
専門家として生きること全般に言える。
専門性だけだと閉じることがある。
学際性だけだと、自分はいったい何の専門家なのかわからなくなることがある。
だから、両方である。
自分の専門には深く入る。
でも、隣の専門にも関心をもつ。
自分とぜんぜん違う領域の本も読む。
哲学でも、心理学でも、社会学でも、医学でも、経済でも、何でもよい。
そこで使えるものがあるなら使えばよい。
だって、専門領域というのは、人間が世界を理解したり問題を解決したりするために分けたものであって、人間そのものが専門領域ごとに分割されて生きているわけではないからである。
作業療法士だから作業療法のことしか考えない。
研究者だから研究のことしか考えない。
教育者だから教育のことしか考えない。
そんな生き方をする必要はない。
もちろん、それぞれの役割を引き受けているときは、必要な専門性を発揮すればよい。
それでよいのである。
## 自分の専門から見える世界が、世界そのものではない
あらゆる人間は固有の世界観の中で生きている。
これは専門家も同じである。
専門家になったからといって、世界観から自由になれるわけではない。
むしろ専門的な知識や経験が増えるほど、「こういうものだ」と確信できることも増える。
それ自体は悪くない。
でも、世界観が人それぞれ異なるということは、絶対に正しい世界観はない。
あるのは、その時々で確からしい世界観であり、それも時と場合によっては確かなものではなくなる。
だったら、自分の専門から見える世界についても同じである。
「ぼくにはこう見える」と、「世界はこうである」をごっちゃにしない方がよい。
自分にとって正しく感じるからといって、それを他者に押しつける理由はない。
専門家だからといって例外ではない。
むしろ、専門家の言葉にはそれなりの影響力があるので、そのへんは意識しておいた方がよい。
専門家だからこそ、専門の外に開いておく
専門家に閉じないために、専門家であることをやめる必要はない。
そんなことをしたら本末転倒である。
専門家として深く学ぶ。
セオリーにも忠実になる。
自分の専門性をしっかり発揮する。
そのうえで、「これは、この目的と状況でも使えるのか?」「自分の専門だけで考えて大丈夫か?」「他の見方をすると、何が見えるのか?」と考えればよい。
専門性にこだわるあまり排他的になってもいけない。
だからといって、専門性を放棄して何でも屋になってもいけない。
専門性を高めつつ、学際性を身につける。
セオリーに忠実になりつつ、セオリーには支配されない。
目的と状況をアンカーにして、必要な知識や理論を柔軟に使い倒す。
こんな感じでよい。
専門家として生きることと、専門家に閉じないことは対立しない。
むしろ、自分の専門に深く入ったからこそ、その専門でできることと、できないことが見えてくる。
そこで他の世界にも開いていけばよい。
専門家であることを、自分を囲う壁にする必要はない。
世界と関わるために使えばよいのである。