話せばわかる、という言葉がある。
僕は、この言葉が嫌いではない。実際、話さなければ見えてこないことは山ほどある。黙ったままでは、相手が何を大事にしているのかも、自分がどこで引っかかっているのかも、曖昧なまま残る。
けれど、話せば必ずわかるのかというと、たぶんそうではない。
むしろ、話せば話すほど、わからなくなることがある。こちらは事情を丁寧に説明しているつもりなのに、相手には言い訳や責任逃れのように聞こえる。相手は率直に気持ちを伝えているつもりでも、こちらには責められているように響く。言葉を重ねるほど、互いの正しさだけが固くなっていく。
そんなとき、僕らはつい思う。
なぜ、こんな簡単なことがわからないのか。なぜ、こちらの意図をそんなふうに受け取るのか。同じことについて話しているはずなのに、どうしてここまでずれるのか。
でも、本当に同じものを見ているのだろうか。
同じ出来事を見ても、同じ意味を生きているとは限らない
同じ会議に出ている。同じ患者さんについて話している。同じ家族の出来事を振り返っている。同じ社会のニュースを見ている。
それでも、人は必ずしも同じ世界を生きているわけではない。
何を大事にしているのか。何を危険だと感じているのか。何を守らなければならないと思っているのか。何に傷つき、何に希望を見ているのか。その違いによって、同じ出来事の意味はかなり変わってくる。
たとえば、家族の治療方針をめぐって意見が分かれることがある。ある人は、少しでも長く生きてほしいと願っている。別の人は、本人が苦しむ時間をこれ以上増やしたくないと思っている。どちらも、その人を大切に思っていないわけではない。ただ、大切にするとは何をすることなのか、その見え方が違っている。
医療や教育の場でも、似たことが起こる。安全を守ろうとする人には、慎重な判断が誠実に見える。本人の選択を守ろうとする人には、同じ慎重さが過度な制限に見えることがある。
これは、事実が存在せず、すべてが人それぞれだという話ではない。確認できる出来事はある。誰が何を言い、何をしたのかを確かめることもできる。
ただ、その出来事が何を意味するのかは、出来事だけでは決まらない。人がどこに立ち、何を求め、何を恐れているかによって、見えてくるものが変わる。
ここに、分かり合えなさの一つの入口がある。
けれど、これだけで終わらせると、まだ少し浅い気がする。
「本当にわかったか」は、どうやって確かめるのか
「人は分かり合えるのか」と問うとき、僕らは、あることを黙って前提にしている。
相手の内側にある経験と、こちらが理解した内容を見比べれば、両者が一致しているかどうかを確かめられる、という前提だ。
でも、そんな位置に僕らは立てない。
相手が感じている痛みを、その人が感じている仕方のまま経験することはできない。相手の言葉、表情、沈黙、行為から推し量ることはできる。それでも、自分の理解を、相手の経験そのものと並べて照合することはできない。
「私の気持ちがわかりますか」と問われて、わかったと答えることはできる。けれど、何をもって完全にわかったと言えるのか。その最後の確認は、どうしても残る。
しかも、相手自身が、自分の経験をいつも明確に理解しているとは限らない。話しているうちに、初めて自分が何に傷ついていたのかに気づくことがある。昨日までは正しいと思っていた説明が、今日はしっくりこなくなることもある。
人の経験は、どこかに完成した形で保存され、正しく読み取られるのを待っているわけではないのだと思う。言葉にしたり、誰かに応答されたりする中で、その意味自体が少しずつ変わっていく。
だとすると、「人は本当に分かり合えるのか」という問いには、最初から答えようのない部分が含まれている。完全に理解できるか、まったく理解できないか。この二つのどちらかを選ぼうとするかぎり、僕らは確かめられないものを確かめようとし続けることになる。
ただ、この問いが答えられないからといって、そこに込められた切実さまで消えるわけではない。
自分の理解は独りよがりではないか。相手を傷つけずに応答できているのか。支援や教育を行ううえで、どこまで相手を理解する必要があるのか。大切な人と、どうすれば関係を続けられるのか。
僕らが本当に考えたいのは、たぶんこちらのほうだ。
理解できたかではなく、理解を直せるか
そう考えると、問いは少し変わってくる。
人は分かり合えるのか、ではない。
相手の内面そのものを確かめられない僕らは、どのような応答を通して、自分の理解が独りよがりではないかを確かめられるのか。何のために、どこまで理解する必要があるのか。
こちらが受け取ったことを、相手に返してみる。「こういう意味だと受け取ったけれども、合っているだろうか」と確かめる。違うと言われたら、組み直す。言葉だけでなく、その後の表情や行為、状況の変化にも目を向ける。新しいことがわかれば、以前の理解を修正する。
理解とは、一度たどり着けば終わる場所ではないのかもしれない。
相手に近づくために、そのつど仮の見取り図をつくり、ずれていれば描き直す。僕には、そういう作業に思える。
ここで大事なのは、最初から正しく理解することだけではない。自分の理解が間違っているかもしれないときに、直せることだ。
「それは違う」と相手が言えること。その言葉によって不利益を受けないこと。こちらが自分の説明を守ることより、相手からの訂正を受け取れること。理解には、理解力だけではなく、そういう関係の条件が必要になる。
反対に、相手が異議を言えない関係では、理解は簡単に完成してしまう。
上司が部下を、教員が学生を、支援者が対象者を「よくわかっている」と思っていても、相手が否定できないなら、その理解は本当に確かめられたとは言いにくい。相手が黙っていることと、理解されたことは同じではない。
理解は、ときに相手へ近づく手つきになる。けれど、自分の説明の中へ相手を閉じ込める手つきにもなる。
だから僕は、「わかった」と思ったときほど、その理解の中で何かが終わっていないかを気にする。
分かり合わなくても、共にできることがある
僕らは、良い関係を築くためには、深く分かり合わなければならないと思いやすい。
もちろん、相手の経験や願いを知ることで、関係が変わることはある。「やっとわかってもらえた」と感じる瞬間が、人を支えることもある。
ただ、すべての関係で、深い相互理解が必要なわけではない。
仕事では、目的、役割、期限、してはならないことを共有できれば、価値観が一致していなくても協力できる場合がある。家族であっても、何もかも打ち明けることより、互いに踏み込まない領域を認めたほうが関係を保てることもある。
対話を重ねるより、いったん距離を置いたほうがよい場面もある。力の差が大きい場所では、相互理解を求める前に、規則や境界線、第三者の介入によって安全を確保しなければならないこともある。
完全に分かり合うことと、何も通じないことのあいだには、かなり広い領域がある。
事実だけを共有する。目的だけを合わせる。判断が分かれる地点を確認する。互いに譲れない範囲を知る。結論は違っても、相手が何を根拠にそう考えているのかまでは理解する。
僕が考える共通了解は、全員が同じ気持ちになり、同じ結論にたどり着くことではない。どこまでなら確かめられ、どこから判断が分かれ、何がまだわからないのかを、互いに検討できる形にすることだ。
それだけでは足りない場面もある。
暴力、ハラスメント、不公正、差別、搾取があるとき、まず必要なのは相手の立場を理解することではない。被害を止め、安全を確保し、責任を明らかにすることだ。分かり合えなさを理由に、何でも価値観の違いに戻してしまえば、強い側に都合のよい話になる。
理解も対話も、それ自体が善なのではない。何かを可能にするための方法である。方法である以上、目的と条件によって、必要な深さも使い方も変わる。
なぜ、僕はこの問いに戻ってくるのか
僕が作業療法に関わってきたことも、信念対立という問題を長く考えてきたことも、研究や書くことに関心を持ち続けてきたことも、元をたどれば、この分かり合えなさにつながっているのだと思う。
作業療法の場では、目の前の人が何を失い、何を取り戻そうとしているのかを考える。けれど、その人が生きている世界を、そのままこちらの内側に移すことはできない。
信念対立を考えるときには、なぜ正しいと思っている人同士が、互いを傷つけるのかを問う。けれど、どちらか一方の内側に入って、そこから世界全体を見ることはできない。
研究では、対象を理解するために概念や方法を使う。けれど、方法によって見えるものがある一方で、見えにくくなるものもある。書くときも、自分の考えを伝えようとするほど、自分が使っている言葉の限界にぶつかる。
臨床の場でも、研究室でも、会議でも、原稿を書いている机の上でも、結局は同じ壁に戻ってくる。
人は、異なる身体と経験をもち、異なる場所から世界を見ている。だから完全には重ならない。それでも、誰とも何も共有できないわけではない。
僕は長いあいだ、その間にあるものを考えてきたのだと思う。
以前、この場所を、情報を整理して届ける「webマガジン」のようにしようと考えていた。読者に役立つ知識を、わかりやすく渡す場所にしようとしていた。
でも、人間について考えていると、情報を増やすだけでは動かない問題に何度も出会う。答えを探す前に、その問いが何を前提にしているのかを考えなければならないことがある。問題を解こうとするほど、問いそのものに閉じ込められていると気づくこともある。
だから、この場所を『京極真の思想ノート』と呼ぶことにした。
ここでは、問いにすぐ答えるのではなく、その問いがどのような条件で成り立っているのかを考えたい。問いが、確かめられないものや、成立しない二択によって難しくなっているなら、そこに込められた切実さを失わないまま、もう一度考えられる問いへ組み直したい。
情報ではなく、問いを置く。
ただし、問いを並べるだけではなく、どこまでなら異なる立場の人でも確かに考えられるのか、その道筋を探してみたい。
このブログは、そのための場所である。
わからない相手の前で、何を選び直せるか
分かり合えなさを認めることと、理解しようとすることをやめることは同じではない。
むしろ、自分の理解が相手そのものではないと知ることで、初めてできることがある。
問い返す。待つ。訂正を受け入れる。必要な範囲だけ共有する。距離を置く。第三者や制度を使う。関係を続けることも、終えることも含めて、関わり方を選び直す。
自由は、相手を思いどおりに変えられることではない。完全に分かり合える関係だけを選べることでもない。
相手には、どうしてもわからない部分が残る。相手も、自分の思いどおりにはならない。自分の側にも、うまく言葉にできないものがある。
その条件の中で、自分は何を引き受けるのか。どこまで近づくのか。どこで境界を引くのか。何を共有し、何については一致を求めないのか。
そのつど関わり方を選び直せることに、自由の具体的な形があるのではないかと、僕は考えている。
この文章が、僕の意図と同じ形で届いたかどうかを、僕には確かめられない。同じ言葉を読んでも、あなたが受け取ったものと、僕が渡したつもりのものは、たぶん少し違う。
それでも、読まれ、何かの応答が返ってくれば、どこで重なり、どこでずれたのかを、もう一度考えることはできる。そのずれに気づいたときに、書き直すこともできる。
分かり合えない世界で考えるというのは、理解を諦めることではない。
わかったことにして、考えるのをやめないことである。