はじめに

分かり合えない世界で、考えるということ

京極真

話せばわかる、という言葉があります。

僕は、この言葉を嫌いではありません。

実際、話さなければわからないことはたくさんあります。黙っているだけでは、相手が何を大事にしているのかも、自分が何に引っかかっているのかも、なかなか見えてこない。

けれども、話せば必ずわかるのかというと、たぶんそうではない。むしろ、話せば話すほど、わからなくなることがあります。説明を重ねるほど、相手が頑なになる。こちらは丁寧に伝えているつもりなのに、相手には責められているように聞こえる。相手の言葉も、こちらには理解不足や無責任さの表れに見える。

そんなとき、僕たちはつい思います。

なぜ、こんな簡単なことがわからないのか。
なぜ、こちらの意図をそんなふうに受け取るのか。
なぜ、同じものを見ているはずなのに、ここまで話がずれるのか。

でも、本当に同じものを見ているのでしょうか。

同じ会議に出ている。
同じ患者さんについて話している。
同じ家族の出来事を振り返っている。
同じ社会のニュースを見ている。

それでも、人は必ずしも同じ世界を生きているわけではありません。

何を大事にしているのか。何を怖いと感じているのか。何を守ろうとしているのか。何に傷つき、何に希望を見ているのか。その違いによって、同じ出来事の意味はかなり変わります。

このブログで考えたいのは、まずこのことです。以前は、この場所を「webマガジン」のように考えていました。けれども、いまは少し違います。情報を整理して届ける場所というより、僕が人間、社会、自由について考えたことを残しておく場所にしたい。そう思って、『京極真の思想ノート』という名前に変更しました。

人は、簡単には分かり合えない。しかも、分かり合えないからといって、すぐに相手が間違っているとか、自分が未熟だとか、そういう話に回収できるわけでもない。

もちろん、すべての対立を深刻に考えなければならないわけではありません。単なる誤解もあります。情報不足もあります。距離を置いた方がよい関係もある。何でもかんでも対話すればよい、という話ではない。

ただ、人が本気でこじれるとき、そこにはたいてい、その人にとって譲れない何かがあります。

正しいと思っていること。
守らなければならないと感じていること。
傷つけられたくないもの。
もう二度と失いたくないもの。

こうしたものがぶつかると、話し合いは急に難しくなります。正しさは、人を支えます。けれども、同じ正しさが、人を追い詰めることもある。

僕が信念対立という問題に長く関わってきたのは、たぶんここに理由があります。

信念対立は、意見が違うという単純な話ではありません。意見の奥には、その人なりの世界の組み立て方があります。何を見て、何を見落とし、何を危険だと感じ、何を希望だと受け取るのか。その違いが、同じ出来事をまったく別のものにしてしまう。

これは、医療や福祉や教育の現場だけで起こることではありません。家庭でも、職場でも、研究室でも、SNSでも、地域社会でも起こります。むしろ、人間が複数人で生きるところでは、どこでも起こる。

しかも厄介なことに、たいていの当事者は、自分が悪いことをしているとは思っていません。

自分は正しいことを言っている。
相手のためを思っている。
組織のため、家族のため、社会のために必要なことをしている。

そう思っているからこそ、話はこじれます。

僕は、そうした分かり合えなさを、ただの失敗や絶望として片づけたくありません。

分かり合えないことは、つらい。
正しさがぶつかる場面に立つと、心底うんざりすることもあります。もう考えたくないと思うこともある。

それでも、そこには人間について考えるための入口があります。

作業療法に関わっていると、人間は本当に「何かをして生きている」のだと感じます。食べる、歩く、働く、休む、人と会う、黙って座る、誰かを待つ、何かを作る。外から見ると小さな行為でも、その人にとっては世界とつながる大事な回路になっていることがあります。

研究や教育や書くことに関心を持ってきたのも、おそらく同じ問題とつながっています。研究は、正解を早く出すための営みではありません(そもそも何が正解なのかは原理的にわからない)。自分が何を問うているのか、その問いはどこから来ているのか、どの方法ならその問いに近づけるのかを考える営みです。

書くことも似ています。書く前から考えが完成していることは、あまりありません。書いているうちに、自分が何をわかっていなかったのかが見えてくる。言葉にしようとして、かえって言葉にならない部分が浮かび上がる。その意味で、書くことは考える場所をつくる作業です。

このブログも、たぶんそういう場所になります。作業療法について書くこともあると思います。信念対立、現象学、構造構成主義、研究方法論、教育、アカデミックライティングについて書くこともあるでしょう。専門的な話に触れることもあります。

でも、専門用語を並べたいわけではありません。

僕が考えたいのは、もう少し手前にある問いです。

人はなぜ分かり合えないのか。
正しさは、なぜ人を助けるだけでなく、傷つけるのか。
専門家として生きるとは、どういうことなのか。
研究や書くことは、なぜ自由と関係するのか。
社会の中で、自分の人生をどう引き受けるのか。

自由という言葉も、簡単ではありません。

自由は、好きなことを好きにすることだと言えます。たしかに、それは自由の大事な一面です。けれども、人は制度の中で生きています。役割の中で生きています。家族、職場、専門性、社会的責任、経済的条件、身体、時間。そうしたものから完全に離れて生きることはできません。

だとすると、自由はどこにあるのか。

僕は、自分を縛っているものが何かを少しずつ見えるようにすること、そのうえで、自分がどのように世界と関わるのかを選び直していくことに、自由の手触りがあるのではないかと思っています。

もちろん、これもまだ考えている途中です。

分かり合えなさを、諦めや断絶だけに渡してしまうのではなく、人間とは何か、社会とは何か、自由とは何かを考える入口にしてみる。

このブログは、そのためのノートです。
たぶん、きれいな答えは出ません。

でも、考え続けるための言葉なら、少しずつ書けるかもしれないと思っています。

著者紹介
京極 真
京極 真
Ph.D.、OT
1976年大阪府生まれ。Thriver Project代表。首都大学東京大学院人間健康科学研究科博士後期課程・終了。吉備国際大学ならびに同大学大学院・教授(役職:人間科学部長、保健科学研究科長)。『この一冊でわかる!セラピストのための研究論文の書き方ガイド』(三輪書店)、『医療関係者のための信念対立解明アプローチ』(誠信書房)、『OCP・OFP・OBPで学ぶ作業療法実践の教科書』(メジカルビュー)、『作業で創るエビデンス』(医学書院)など著書・論文多数。
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