人間関係が難しい理由は、簡単に言えば、生きている世界が違うからである。
いきなりこんなことを言うと、「でも、ちゃんと話しあえば分かり合えることもあるでしょう」と思う人がいるかもしれない。
それは、もちろんそうである。
話さなければわからないことはいっぱいあるし、誤解しているだけなら話しあえば解消できることもある。意味のズレがわかれば、互いに理解を確認しながらすりあわせていけばよい。
ぼくが言いたいのは、そういうことではない。
どれだけ話しても、ぼくがあなたそのものになることはできないし、あなたがぼくそのものになることもできない。
あらゆる人間は固有の世界観の中で生きている。
ぼくはぼくの世界観を通してでしか他者と関われないし、皆さんもまた各人の世界観を通してでしか他者と関われない。
これはもうひっくり返しようがない。
生きている世界が違う
世界観は信念の総体であり、その信念は経験を通して確信した事柄全般を意味する。
例えば、周囲をぐるりと見渡して疑いの余地なく「人がいる」と感じちゃったら、それも信念である。
「自分はこういう人間だ」「あの人は信用できない」「仕事はこうするべきだ」「家族ならこれぐらいわかって当然だ」みたいなものも、本人が特に疑っていなければ信念である。
大小さまざまな信念が組み合わさって、その人の世界観ができている。
なので、生きている世界観が違う→思考、感情、行動が違うということになる。
同じものを見ても考えることが違う。
同じことを言われても感じることが違う。
同じ状況でも行動が違う。
ぼくにはどう考えても親切にしか見えないことが、別の人には余計なお世話に見えることもある。
こちらは丁寧に説明しているつもりなのに、向こうは責められていると思うこともある。
逆もある。
そして、「なんでそんな受け取り方になるの?」となる。
でも、その相手からすれば、「なんでこっちの気持ちがわからないの?」かもしれない。
人間関係が難しいのは、お互い様なのである。
「わかりあえる」を前提にすると消耗する
問題は、ぼくらが案外、「話せばわかる」「ちゃんと説明すれば伝わる」「本当に大事に思っているならわかってくれる」という感度で生きていることである。
もちろん、わかることもある。
けども、「わかりあえる」という感度を前提にすると、「わかりあえない」ときに簡単にトラブル化する。
「こんなに説明したのに、なぜわからないのか」「普通はわかるでしょう」「こんなことまで言わなければならないのか」となる。
はぁしんど。
だけども、世界観は人それぞれ違う。
だったら、最初からわかりあえないからはじめるしかないのである。
これは、「他人なんて理解できないからどうでもいい」という話ではない。
むしろ逆である。
わかりあえるはずだと思うから、わからない相手に腹が立つ。
最初から、「たぶん意味はズレる」「ぼくと相手は違う世界観の中で生きている」と思っておけば、ズレが出たときに、「まぁそういうこともあるよね」となる。
そのうえで必要ならすりあわせればよい。
ぼくの経験上、「話が通じない、、、」と感じる相手は、こちらが想定していなかったような意味で受け取っていることがある。
だったら、「どういう意味で受け取りました?」と聞けばよい。
意味のズレがわかれば、互いに理解を確認しながらすりあわせていけばよいのである。
正しいかどうかだけで考えるとややこしくなる
分かり合えないとき、ぼくらはついつい、「自分が正しいのか、相手が正しいのか」という話にしがちである。
でも、それもかなりややこしい。
世界観が人それぞれ異なるということは、絶対に正しい世界観はない。
あるのは、その時々で確からしい世界観だけであり、それも時と場合によっては確かなものではなくなる。
だから、自分にとって正しく感じるからといって、それを他者に押しつける理由はない。
ここで役立つのが、原理的に考えるということである。
原理的思考とは、できるだけ疑いの余地のない理路をたどっていくような考え方だ。
原理的に考える限りにおいて、考え方が間違っているかどうかは、その人の関心や置かれている状況によって規定される。
なので、「AとBのどっちが正しい?」と秒速で決めようとするのではなく、「そもそも何のために?」「どういう状況で?」と考える。
ぼくが信念対立解明アプローチで使っている解明思考も、基本的に目的と状況をアンカーにして考えるものである。
例えば、「厳しく指導するべきだ」という人と、「自由にやらせるべきだ」という人が対立しているとする。
どっちが正しいのか。
知らんがな、である。
何を目的にしているのか。
どんな人に対してなのか。
どういう状況なのか。
そこを抜きにして「厳しい/自由」で戦ってもしょうがない。
厳しくした方がよいときもある。
自由にした方がよいときもある。
どっちでもよいときだってある。
目的と状況に戻ればよいのである。
わかりあえなくても納得することはできる
では、世界観が違うなら、一緒に何かすることはできないのか。
そんなことはない。
わかりあえなくても納得することはできる。
ここはかなり大事である。
例えば、「今日の昼ご飯は何を食べる?」という、ちょーどうでもよさそうな話でも、お互いの希望は違うことがある。
ぼくはラーメンが食べたい。
相手はうどんが食べたい。
別に、ラーメンの素晴らしさを相手に深く理解してもらう必要はない。
「今日はうどんにして、次はラーメンにしよう」でもよい。
「食えるもんなら何でもええで」でもよい。
その時々の状況と目的を前提にしながら、双方が納得できるところを探せばよい。
コミュニケーションはつまるところ、共通了解可能性を担保することに意図が向いている。
なので、「コミュニケーションの極意は?」と問われたら、ぼくは「納得解を作ること」だと答える。
別に、心の底から分かり合う必要はない。
相手と同じ世界観になる必要もない。
「あなたはそう思ったんですね」でよいことだっていっぱいある。
「世の中には色んな考え方がある、、、」と気づけただけで儲けものである。
それでも一緒にやる必要があるなら、目的や状況を共有して、納得できるところを探す。
どうしても無理なら、距離を取る。
理解不能だけども、「そういう人もいるんやなぁ、、、」と思うだけでもよい。
だましだましやればよいのである。
分かり合えないからこそ、お互いの自由を認める
ぼくは信念対立を長く考えてきた。
結論からいえば、信念対立は世界観の確執という問題である。
つまり、生きている人間がいる限りなくならない。
だったら、信念対立が起こらない世界を目指すよりも、信念対立があっても一緒に生きられる条件を考えた方がよい。
そこで重要になるのが、自由の相互承認である。
ちょー簡単に言えば、自由の相互承認とは、ぼくらが生きたいように生きるために、お互いに自由な存在であると認めあうことである。
ひとまず、これがぼくらの市民社会の底の底にある基本ルールだと理解しておけばよい。
自分には自分の人生がある。
相手には相手の人生がある。
自分には自分の事情がある。
相手にもいろんな事情がある。
だったら、他人に不可逆的な迷惑をかけない限りは、自由にやればよい。
相手を自分と同じように考えさせる必要はない。
自分も相手と同じように考える必要はない。
そのうえで、必要なところだけ話しあう。
必要ならすりあわせる。
納得できるところを探す。
無理なら距離を取る。
こんな感じでよいのである。
分かり合えないことは、人間の失敗ではない。
世界観が人それぞれ違うなら、大なり小なり意見が違うのはデフォルトである。
だから、分かり合えない世界で考えるということは、全員を同じ考えにすることではない。
「どちらが正しい?」とすぐに決めることでもない。
自分の世界観を絶対化せず、相手の世界観も押しつけられず、目的と状況を見ながら、その都度どうするかを考えることである。
わかりあえないなら、わかりあえないところからはじめればよい。
意味がズレたら、すりあわせればよい。
それでもわからなければ、「あぁ。あなたはそう思ったのね」でよい。
そして必要なところでは、わかりあえなくても納得できるところを探す。
たぶん、ぼくらにできるのはそのぐらいである。
でも、そのぐらいできれば十分なのではないかと思う。