作業療法は、人間を見る仕事である。
いきなりこんなことを言うと、「医療職なんだから、人間を見るのは作業療法だけじゃないでしょう」と思う人がいるかもしれない。
それは、もちろんそうである。
医師も、看護師も、理学療法士も、心理職も、それぞれの専門性を通して人間を見ている。
ぼくが言いたいのは、そういうことではない。
作業療法には、**作業を通して人間を見る**という独特の切り口がある。
何をしているのか。
何ができなくなったのか。
何をしたいのか。
どんな役割をもっているのか。
普段どういうふうに一日を過ごしているのか。
そういうところから人間を見る。
ぼくは長く作業療法をやってきたけども、この見方は人間を考えるうえでかなり面白いと思っている。
人間は、何かをしながら生きている
ぼくは作業療法士なので、クライエントにとって意味のある作業の達成を支援することによって、その人が自信を取り戻したり、自分の人生を生きたりするお手伝いをしてきた。
ここでいう作業は、仕事だけではない。
料理する。
散歩する。
本を読む。
家族と話す。
買い物する。
仕事する。
寝転んでぼーっとする。
そういうものも含めて、人間が日々やっていることを作業として見る。
すると、人間の見え方がちょっと変わる。
例えば、同じ「料理」でも意味は人それぞれである。
料理そのものが好きな人もいる。
家族のために作ることに意味を感じる人もいる。
一人暮らしを続けるために仕方なくやっている人もいる。
長年やってきたけども、本当はもうやめたい人もいる。
つまり、作業の意味は作業名で決まらない。
これは作業療法で重視されていることだけども、楽しめる作業も作業名で決まるわけではなく、いろいろ試しているうちに出会うものなのである。
だから、「料理ができる/できない」だけ見ても、その人のことはよくわからない。
その人にとって料理とは何なのか。
そこまで見ないと、人間の輪郭は見えてこないのである。
何かができなくなると、生活の形が変わる
作業療法の世界的理論である人間作業モデルでは、習慣化を役割と日課から見る。
役割とは義務、日課とはパターンである。
この見方はわりと重要である。
例えば、病気になって料理ができなくなったとする。
外から見ると、
「料理ができない」
というひとつの問題である。
けども、その人がずっと家族の食事を作ってきたなら、話はそれだけでは終わらない。
料理ができなくなる。
家族の中で担ってきた役割が変わる。
いつも料理していた時間が空く。
家族とのやりとりも変わる。
自分は家族の役に立っている、という感覚まで揺れるかもしれない。
こんな感じで、何かができなくなると、能力がひとつ失われるだけではなく、役割や日課まで変わることがある。
逆も同じである。
何かできるようになれば、生活のパターンが変わることがある。
自信が戻ることもある。
人と会う機会が増えることもある。
だから、作業療法で人間を見るときは、心身機能だけを見て終わりにはならない。
筋力が上がった。
注意力が改善した。
手が動くようになった。
もちろん、どれも大事である。
でも、「それによって何ができるようになったの?」「その人の生活はどう変わったの?」まで考える。
そこが面白いのである。
意味のある作業は、人によって違う
作業療法では、意味のある作業という考え方を大事にする。
ぼく自身、クライエントにとって意味のある作業の達成を支援することによって、自信を高めるお手伝いをしてきた。
でも、ここで少し気をつけた方がよい。
「意味のある作業」というと、何だか立派なことをしなければならないように聞こえるかもしれない。
そんなことはない。
読書でもいい。
ゲームでもいい。
庭いじりでもいい。
コーヒーを飲むでもいい。
一人でぼーっとするでもいい。
本人にとって価値があるなら、それでよい。
自分の生活をよく振り返って、自分にとって価値ある作業を見つけて、それを達成すればよいのである。
逆に、周囲から見て価値がありそうでも、本人にとってどうでもよいなら、そこに無理やり意味を見いだす必要はない。
作業療法士が、「この人には料理が大事なはずだ」「仕事復帰するべきだ」「以前の役割を取り戻した方がよい」と勝手に決めはじめたら怪しさマックスである。
だって、人それぞれ人生があって、それぞれいろんな事情があるからである。
作業療法の理論に、人間を押し込めない
ぼくの経験でいえば、実践は哲学、MOHOやOSなどの作業モデル、エビデンスに根ざした実践などのセオリーに忠実に仕事しはじめてから、できることが増えていったという皮膚感覚レベルの実感がある。
哲学は強く深く考えるための思考法の宝庫であり、作業モデルは生活支援の叡智の結晶である。
だから、理論は学んだ方がよい。
めちゃくちゃ学んだ方がよい。
けども、セオリーに忠実になることと、セオリーに支配されることはまったく違う。
セオリーに支配された状態は、目の前にいるクライエントよりもセオリーを重視する態度をもたらす。
他方、セオリーに忠実になることは、目の前にいるクライエントの問題を解決するためにセオリーを柔軟に使い倒すという態度を引きおこす。
目指すべきは後者である。
人間を見るために作業療法の理論を使うのであって、作業療法の理論に人間を押し込めるのではない。
ここを間違えると本末転倒である。
作業から見ると、人間はわりとややこしい
作業療法士は医療専門職である。
でも、作業療法の歴史をたどると、哲学、道徳療法、アーツ&クラフツ運動などが重なってできている。
なので、ぼくは以前、作業療法は医療専門職でありながら、哲学的実践論とも言えると書いた。
手を動かす。
歩く。
料理する。
働く。
休む。
そういう具体的なことから、
その人は何を大切にしているのか。
どういう人生を生きたいのか。
何をやめたいのか。
どんな役割を引き受けたいのか。
誰とどんなふうに生きたいのか。
という話まで入っていく。
だから作業療法は面白い。
同時に、めちゃくちゃややこしい。
同じ病気でも生活は違う。
同じ障害でも困りごとは違う。
同じ作業でも意味は違う。
昨日やりたかったことを、今日はもうやりたくないことだってある。
人間ってほんとうにややこしいですね。
でも、たぶんそれでよいのである。
作業療法から人間を見るということは、人間をきれいに説明することではない。
むしろ、「この人は、いま何をして生きているんだろう」「何ができなくなって困っているんだろう」「何ができるようになれば、その人の生活は変わるんだろう」「そもそも、それを本人は望んでいるんだろうか」と、その都度考えることである。
作業療法は、人間を全部わからせてくれる魔法の視点ではない。
そんなものはない。
けども、症状や身体機能だけを見ていたときには見えにくかったものを、作業という切り口から見えるようにしてくれる。
役割。
日課。
意味。
環境。
人との関係。
そして、自分にとって価値あることをやりながら、自分の人生を生きること。
ぼくが作業療法から人間を見るとき、見ているのはたぶんそういうものである。