正しさがぶつかると、人は壊れることがある。
いきなりこんなことを言うと、「じゃあ、正しいことを言ったらダメなのか」と思う人がいるかもしれない。
それは、もちろん違う。
間違っていることは間違っていると言った方がよい場合もある。明らかにおかしいことまで「人それぞれだから」で済ませたら、それはそれで困る。
ぼくが言いたいのは、そういうことではない。
人間関係でやっかいなのは、お互いが自分なりに正しいと思っているときである。
ぼくは、こういう問題を長く信念対立として考えてきた。
簡単に言えば、信念対立とは世界観の確執という問題である。
正しさがぶつかるというより、世界観がぶつかっている
世界観は信念の総体であり、信念は経験を通して確信した事柄全般を意味する。
つまり、ぼくらは生きているあいだにいろんなことを経験しながら、「これは大事だ」「これは危ない」「こうした方がよい」「普通はこうだ」みたいな確信をつくっていく。
大小さまざまな信念が組み合わさって、その人の世界観ができるわけである。
しかも、ぼくらは誰でもそれぞれ固有の生を生きており、自らの個別体験を手がかりに他者との関係性を結ぶ。
すると、どうしても世界観の確執という問題が生じる。
言い方をかえると、固有の生を生きることと信念対立はセットなのである。
だから、信念対立は生きている人間さえいれば生じる。
これはもう、しょうがない。
例えば、患者さんの安全を最優先したい人がいる。
本人の希望を最優先したい人もいる。
学生には厳しく指導した方がよいと思う人がいる。
失敗しながら学ぶ機会を与えた方がよいと思う人もいる。
どちらも、自分なりに相手のことを考えているかもしれない。
でも、世界観が違う。
なので、同じ状況を見ても判断が違う。
そしてお互いに、「なんでわからないの?」となる。
はぁしんど。
絶対に正しい世界観はない
ここでやっかいなのは、自分の世界観は自分にとってめちゃくちゃ自然に感じられるということだ。
だって、自分が経験してきたことを通してできたものだからである。
自分には、「どう考えてもこうでしょう」としか思えない。
でも、世界観が人それぞれ異なるということは、絶対に正しい世界観はないということである。
あるのは、その時々で確からしい世界観だけであり、それも時と場合によっては確かなものではなくなる。
だから、「自分は正しい」と思うこと自体は別に問題ない。
けども、「自分が正しい→相手は間違っている→相手はおかしい」まで秒速で進むと怪しさマックスである。
考え方が間違っているかどうかは、その人の関心や置かれている状況によって変わることがあるからだ。
例えば、クライエントが自分で意思決定でき、その人の生活を再構築したいなら、本人の希望を中心に考えることはおそらく正しい。
でも、意識不明で、とにもかくにも救命しなければならないなら話は変わる。
正しさは、ときと場合によりけりなのである。
もちろん、それも程度問題である。
暴力、不正、差別、搾取まで「世界観が違いますね」でスルっと流せばよいという話ではない。
ぼくが言っているのは、自分にとって明らかな正しさが、そのまま無条件に他人にも妥当するとは限らないということである。
正しさに権力が乗ると、もっとややこしい
さらに問題なのは、正しさを主張する人の立場が強い場合である。
上司と部下。
教員と学生。
医療者と患者。
親と子ども。
立場が違えば、同じ言葉でももっているチカラが違う。
例えば、上司が、「普通はこうするでしょう」と言う。
上司本人は単なる意見のつもりかもしれない。
でも、その上司が仕事を割り振り、評価し、人事に影響を与えられるなら、部下にとっては単なる意見ではない。
反論したら何が起きるかわからない。
なので黙る。
すると、「みんな納得している」みたいな話になったりする。
なんてドライな・・・というか、わりと怖い話である。
しかも、自分自身の立場が強いと感じると、立場が弱い人の気持ちがわからなくなることがある。
だから、立場が強い人ほど寛容さを意識した方がよい。
相手が黙っているからといって、納得しているとは限らない。
反論しないからといって、同意しているとは限らない。
ここを勘違いすると、正しさが人を傷つけるチカラになりうる。
正しさで勝とうとすると、弱肉強食になる
信念対立そのものはなくならない。
問題は、それをどう扱うかである。
人類史をふり返ると、信念対立は奪いあい、殺しあいの原動力になってきた。
自分が正しい。
相手は間違っている。
だから、自分に従わせる。
従わないなら排除する。
ちょー簡単に言えば、これは強い方が勝つという話である。
ぼくはこれを普遍闘争の原理と呼んでいる。
要するに弱肉強食である。
でも、それだと信念対立の螺旋は終わらない。
勝った側は、「やっぱり自分が正しかった」と思う。
負けた側は、「力で押さえ込まれただけだ」と思う。
そして、次の信念対立がはじまる。
人間ってほんとうにややこしいですね。
だから、ぼくらの社会には自由の相互承認という原理が必要になる。
ちょー簡単に言えば、自由の相互承認とは、ぼくらが生きたいように生きるために、お互いに自由な存在であると認めあうことである。
自分が自由に生きたい。
なら、相手も自由に生きたい存在だと認める。
ひとまず、これがぼくらの市民社会の底の底にある基本ルールだと理解しておけばよい。
正しさを捨てず、目的と状況に戻ればよい
では、正しさがぶつかったらどうしたらよいか。
正しさを捨てる必要はない。
「みんな違ってみんないい」で何でも終わらせる必要もない。
ぼくなら、目的と状況をアンカーにして考える。
そもそも何のためにそれを言っているのか。
いまどういう状況なのか。
自分は何を守ろうとしているのか。
相手は何を守ろうとしているのか。
どこまでは共通していて、どこから違っているのか。
そこへ戻る。
例えば、「学生には厳しく指導するべきだ」と、「学生をもっと自由にさせるべきだ」がぶつかっているとする。
そのまま、「厳しくする/自由にする」で戦っていてもしょうがない。
何のためなのかを確認する。
学生が学べるようにしたい。
成長してほしい。
必要な能力を身につけてほしい。
そこが共有できるなら、「じゃあ、この学生、この状況ではどうしたらよい?」と考えればよい。
厳しくした方がよい場合もある。
自由にさせた方がよい場合もある。
ほどほどがよい場合もある。
こんな感じで、目的と状況に戻れば、正しさを少し使いやすくできる。
それでも意見が一致しないことはある。
まぁしょうがない。
そもそも世界観が違うのだから、完全にわかりあえることを前提にすると消耗する。
意見が違ったら、「あぁ。あなたはそう思ったのね」とさらっと受け流せるところは流せばよい。
それでも一緒に何か決めなければならないなら、わかりあえなくても納得できるところを探す。
意味のズレがあるなら、すりあわせる。
どうしても無理なら、距離を取ることだってある。
信念対立は人間と社会の根本問題である。
だから、なくすことはできない。
正しさがぶつかることも、たぶん避けられない。
でも、自分の正しさを無条件にして相手に押しつけるのか。
それとも、「自分にはこう見えているけども、あなたにはどう見えている?」と考える余地を残すのか。
そこは選べる。
正しさが人を壊すのではない。
自分が正しいと確信した瞬間に、相手の事情も、目的も、状況も、そして相手が自分とは違う世界を生きているということまで見えなくなる。
たぶん、それが一番やばいのである。