はじめに

作業療法から、人間を見る

京極真

できなくなったことは、外から見ると、案外小さく見えることがあります。

朝、自分で服を選べない。
台所に立つ気になれない。
いつも行っていた店まで歩いて行けない。
仕事の段取りがつかない。
人と会うのがしんどい。
趣味だったはずのことに手が伸びない。

それだけを取り出せば、「生活上の困りごと」と呼べるのかもしれません。あるいは、医学的には症状や障害の結果として説明できる場合もあります。身体が動きにくい。注意が続かない。意欲が低下している。不安が強い。そういう説明は必要です。

でも、それだけで本当にその人の困りごとを見たことになるのか。
僕は、ずっとそこが気になっています。

人は、ただ身体機能をもって存在しているわけではありません。何かをして生きています。服を着る、食べる、働く、休む、誰かと話す、黙って過ごす、移動する、待つ、片づける、祈る、遊ぶ、書く、育てる。こういう一つひとつの営みの中で、自分の生活を組み立てています。

作業療法でいう「作業」は、そういうものを含んでいます。

もちろん、日常語の「作業」は、単純労働や手順化された仕事のように聞こえることがあります。だから、作業療法という言葉も、ときどき誤解されます。手工芸をする療法なのか。仕事復帰の支援なのか。身の回りの日常生活活動を支援することなのか。リハビリ室で何か活動をすることなのか。そう見える場面もあります。

けれども、作業療法の奥にある問いは、もう少し深い。

人は何をして生きているのか。
何ができなくなると、その人の生活は崩れはじめるのか。
どうすれば、止まってしまった時間が再び動きだすのか。

僕にとって作業療法は、この問いを具体的な人間の生活の中で考える営みです。

たとえば、歩けるようになることは大事です。手が使えるようになることも大事です。記憶や注意が改善することも、もちろん大事です。けれども、それらはそれ自体で完結しているわけではありません。

その人は、歩けるようになってどこへ行きたいのか。
手が使えるようになって、何をしたいのか。
注意が続くようになって、どんな時間を取り戻したいのか。

ここを見落とすと、支援はすぐに細かい機能の修理になっていきます。

もちろん、機能を軽く見ているわけでは決してありません。人間には身体があり、精神があり、脳があり、病気や障害があります。それらを無視して生活を語ることはできない。そこを雑に扱うと、ただのきれいごとになります。

ただ、人間を機能の束としてだけ見ると、その人が何を失い、何を取り戻そうとしているのかが見えにくくなる。

作業療法が面白く、同時に難しいのは、ここにあります。

作業療法士は、患者さんや利用者さんの「できる」「できない」を見ます。けれども、本当はそれだけでは足りません。その行為がその人にとって何なのかを見なければならない。同じ料理でも、ある人にとっては家族を支える役割かもしれない。別の人にとっては一人で生きていく自信かもしれない。ある人にとっては、亡くなった親との記憶につながっているかもしれない。

外から見ると同じ動作でも、内側で生きている意味は違う。

この違いを見落とした瞬間に、作業療法は急に底が浅くなります。
逆に、この違いに触れた瞬間、人間理解はかなり深くなる。

僕は、作業療法を学び、実践し、教え、研究してきた中で、人間とは「意味のある何かをしながら、世界とつながっている存在」なのだと考えるようになりました。少し大げさに聞こえるかもしれません。でも、実務の場にいると、このことはかなり切実です。

人は、何かができなくなると、シンプルに便利さを失うだけではありません。

朝起きて、自分で身支度をする。いつもの道を通って仕事に行く。台所で家族の気配を感じながら味噌汁をつくる。夕方に庭の草木を見る。机に向かって書く。誰かのためにお茶を入れる。

そういう何でもないことが、その人の世界を支えている場合があります。

だから、それができなくなると、世界との接続が切れる。
生活が狭くなる。
自分が自分である感じが薄くなる。

このあたりは、医療や福祉の現場だけの話ではないと思います。

たとえば、仕事を失った人が深く落ち込むとき、それは収入だけの問題ではありません。自分が社会の中で何を担っていたのか、誰に必要とされていたのか、朝起きてどこへ向かえばよいのかが、一気に曖昧になることがあります。

子育てが終わった後に、ぽっかり穴が空いたようになる人もいます。退職後に時間はあるのに何をしてよいかわからなくなる人もいます。病気になって趣味から離れた途端に、生活全体の色が変わってしまう人もいる。

人は、作業を通して、時間を組み立て、他者とつながり、自分の役割を感じ、社会の中に居場所をつくっています。

だから、作業を失うことは、しばしば自由を失うことでもあります。

ここでいう自由は、好き勝手に何でもできるという意味だけではありません。自分の生活に関与できること。自分の時間を、少しでも自分のものとして引き受けられること。環境や制度や身体の制約があっても、その中でなお、自分にとって意味のある行為を選び取れること。

作業療法は、その自由のかなり具体的な部分に関わっています。

もちろん、現実はそんなにきれいではありません。病院や施設には制度があります。時間も人手も、金銭も限られています。家族の事情もあります。本人が望む作業と、周囲が安全だと考える作業がぶつかることもある。専門職同士で、何を優先すべきかが合わないこともあります。

でも、作業療法が人間の生活に戻って考える視点を持っていることは、こういう場面で効いてきます。

その人は、どのような生活を生きようとしているのか。
その生活の中で、何が支えになっているのか。
いま失われているのは、機能なのか、役割なのか、関係なのか、時間なのか、希望なのか。
そして、どこからなら再び動きだせるのか。

これは、ただの技術論ではありません。人間を見るための問いです。

僕が作業療法に惹かれているのは、ここに理由があります。作業療法は、抽象的な人間論を語るだけでは終わりません。目の前の人が、今日、何をして過ごすのかに密着していく。どんな椅子に座るのか。どの道を歩くのか。誰と食べるのか。何時に眠るのか。どんな役割を取り戻したいのか。

人間を考えるには、こういう具体性が必要です。

あまりに抽象的な人間理解は、現実の生活を取りこぼします。反対に、細かい技術だけに閉じた支援は、人間の奥行きを取りこぼします。作業療法は、そのあいだで揺れながら、人間を見ようとする営みなのだ、と個人的には思っています。

だから、僕は作業療法を、専門職だけの閉じた知識にしたくない。

作業療法を通して見えてくる人間の姿は、医療や福祉の外にも広がっています。働くこと、学ぶこと、書くこと、育てること、休むこと、老いること、病むこと、失うこと、また始めること。どれも、人が何をして生きるのかという問いにつながっている。

人間を見るとは、その人の内面だけをのぞきこむことではありません。
その人がどんな世界で、何をしながら生きているのかを見ることでもある。

この視点を持つと、少しだけ世界の見え方が変わるはずです。

できないことを、能力低下として単純化しない。
生活の乱れを、単なる自己管理の失敗として見ない。
働けないことを、意欲の問題として一律に見ない。
人と会えないことを、性格の問題として片づけない。

そこには、その人と世界とのつながり方の変化があるかもしれない。
そのつながりをもう一度組み立てる余地が、どこかに残っているかもしれない。

作業療法は、その余地を探す仕事です。

そしてたぶん、僕が考えたい人間や社会の問題も、そこから遠く離れてはいません。人は何をして生きるのか。その「すること」が壊れたとき、人は何を失うのか。社会はその人に、どのような作業の可能性を開いているのか、あるいは閉ざしているのか。

作業療法から人間を見るというのは、そういう問いを持って世界を見ることです。

まだ十分に言葉にできていないところもあります。
けれども、僕はこの問いを、もうしばらく手放せそうにありません。

著者紹介
京極 真
京極 真
Ph.D.、OT
1976年大阪府生まれ。Thriver Project代表。首都大学東京大学院人間健康科学研究科博士後期課程・終了。吉備国際大学ならびに同大学大学院・教授(役職:人間科学部長、保健科学研究科長)。『この一冊でわかる!セラピストのための研究論文の書き方ガイド』(三輪書店)、『医療関係者のための信念対立解明アプローチ』(誠信書房)、『OCP・OFP・OBPで学ぶ作業療法実践の教科書』(メジカルビュー)、『作業で創るエビデンス』(医学書院)など著書・論文多数。
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