はじめに

書くことは、自由の技術である

京極真

書いていると、自分が何を考えていなかったのかが見えてくることがあります。

頭の中では、わかっているつもりでいる。話しているときも、なんとなく筋が通っているように感じる。けれども、文章にしてみると、急にあやしくなる。

この言葉と次の言葉は本当につながっているのか。ここで言っている「人間」とは、誰のことなのか。自分は、何を問題だと思っているのか。なぜ、それをそんなに気にしているのか。

書くという作業は、そういう問いを遠慮なく突きつけてきます。

だから、書くことは、頭の中にある考えを外へ出すだけの作業ではありません。むしろ、外に出してみて初めて、自分の考えがどれほど曖昧だったかを知る営みです。これは気持ちのよいことばかりではない。かなり面倒です。書くたびに、自分の中の粗さや弱さや飛躍が見えてしまうからです。

でも、そこが面白いところでもあります。

僕は長く、研究計画書、論文、著書、連載、教材、ブログなど、いろいろな文章を書いてきました。もちろん、締切に追われて書くこともあります。何年もかかって書き続けているものもある。書かなければならないから書く。業績にするために書く。授業や研究指導のために書く。そういう現実もあります。

けれども、それだけでは書くことの意味は尽くせない。

研究でも文章でも、本当に大事なのは、自分が何を問うているのかに気づくところにあります。方法を選ぶ前に、問いがある。データを集める前に、世界のどこに引っかかっているのかがある。論文を書く前に、その領域のどこにまだ言葉になっていない問題が残っているのかを見ようとする態度がある。

問いは、最初から立派なかたちで出てくるわけではありません。

むしろ、多くの場合、問いは違和感として現れます。何かがおかしい。うまく説明できない。現場で見ていることと、教科書に書かれていることが少しずれている。患者さんや学生や同僚と関わる中で、既存の言葉では取りこぼされるものがある。そういう小さな引っかかりが、研究や執筆の始まりになることがあります。

ただ、その違和感は、放っておくとすぐに消えます。その理由は、忙しいから、役割があるから、制度があるから、「そんなものだ」と流した方が日々は回りやすいから、などなどです。

書くことは、その流れに少し抵抗する行為です。

目の前の出来事を、ただ過ぎ去らせない。自分の中に生じた違和感を、なかったことにしない。うまく言えないことを、うまく言えないままでも、とりあえず言葉の前に置いてみる。そこから少しずつ、自分が何に縛られていたのか、何を当然だと思っていたのかが見えてきます。

この意味で、書くことは自由に関係しています。

自由というと、何にも縛られず、好きなことを好きなようにできる状態を想像しやすい。もちろん、そういう自由もあります。けれども、僕がここで考えたい自由は、それとは少し違います。

人は、自分が何に縛られているのかが見えないと、自由になりにくい。専門性に縛られていることがある。職場や業界の常識に縛られていることがある。家族や社会の期待に縛られていることもある。もっと厄介なのは、自分自身の正しさに縛られているときです。

自分では自由に考えているつもりでも、実際には、かなり狭い枠の中でしか考えていないことがあります。作業療法の言葉でしか人間を見ていない。研究方法論の言葉でしか現象を見ていない。教育者の言葉でしか学生を見ていない。業界や世間の常識でしか物事を考えていない。あるいは、過去に苦労して身につけた方法に守られながら、その方法に少しずつ閉じ込められている。

これは誰にでも起こります。もちろん、僕にも起こります。

だから、書く。

書くことで、自分の言葉をいったん自分の外に置くことができます。外に置かれた言葉は、もう自分そのものではありません。読み返すことができる。疑うことができる。削ることができる。別の言葉に置き換えることができる。他者に読んでもらうこともできる。

ここに、自由への小さな回路があります。

もちろん、文章を書いたからといって、すぐに自由になるわけでは、決してありません。文章は人を自由にすることもありますが、逆に人を不自由にすることもあります。言葉は、ときに自分を固定するからです。いったん書いたことに縛られる。過去の自分の主張に縛られる。読者の期待に縛られる。学術論文なら、査読者や学会や研究領域の規範にも縛られます。

だから、書くことは単純な解放ではない。

それでも、書かなければ見えないものがあります。

研究は、世界を自分の思いどおりに説明するためのものではありません。少なくとも僕は、そう考えていません。研究は、自分の見方を鍛え、疑い、他者の検討に開いていく営みです。方法はそのための道具です。統計も、質的研究も、理論研究も、論文の構成も、パラグラフライティングも、それ自体が目的ではありません。

何を明らかにしたいのか。
なぜその方法でなければならないのか。
その問いは、誰にとって、どのような意味をもつのか。

こうしたことを考えずに、方法だけを整えると、研究はどこかつまらなくなります。逆に、問いだけが強すぎて、方法が荒いままでもうまくいかない。研究は、問いと方法が互いに制約しあいながら、少しずつかたちを取っていくものです。

書くことも同じです。

言いたいことだけがあっても、文章にはなりません。形式だけがあっても、読むに耐えるものにはなりにくい。

問いがあり、言葉があり、構造があり、読者がいる。自分の内側にあったものが、文章というかたちで外に出ると、そこにはもう他者が入ってきます。自分だけの確信では済まなくなる。伝わらない可能性、誤解される可能性、批判される可能性にさらされる。

それは怖いことです。

けれども、他者に開かれない言葉は、自分の中で固まりやすい。自分だけが納得している言葉は、強く見えて、案外もろい。書くことは、自分の問いを他者のいる世界に置くことでもあります。そのとき初めて、自分の考えは、自分だけのものではなくなります。

たぶん、自由は、自分ひとりの内側だけでは成立しにくい。

自由は、社会や制度や他者との関係の中で、いつも揺れています。好きに書けばよい、というだけでは足りない。何を書けるのか。どの言葉が許され、どの言葉が封じられているのか。誰の経験が言葉になり、誰の経験が沈黙させられているのか。そういう問いも、書くことの背後にはあります。

だから、書くことは個人的な作業でありながら、社会的な営みでもある。

研究や執筆に惹かれる理由は、そこにあります。書くことによって、自分の問いを鍛える。世界の見え方を少し変える。他者に向けて開く。批判にさらされながら、また考え直す。そういう地味な反復の中に、人間が自由になるための技術があるのではないかと思うのです。

技術という言葉を使うと、手順やスキルの話に聞こえるかもしれません。けれども、ここでいう技術は、もう少し広い意味です。自分を縛っているものを見えるようにする技術。曖昧な違和感を問いへと変える技術。自分の正しさをいったん外に置いて、他者の前で検討できるようにする技術。

それは、簡単な技術ではありません。
たぶん、一生かかる。

僕自身、書くたびにうまくいかないなぁ、、、と思います。言葉が足りない。余計なことを書いている。考えが浅い。もっと別の言い方があったのではないか。後から読むと、まったく違うと感じることもある。そう思うことは今でも多い。

以前、ある原稿を書いていたとき、何度書き直しても一段落だけ前に進まないことがありました。文献は読んでいる。思考も深めている。なのに、どうしても書けない。あとから考えると、そこは文章の問題ではなく、自分がその理路をどう受け止めているのかを、まだ決められていなかったのだと思います。

でも、だから書くのだと思います。

すでにわかっていることを確認するためだけなら、書く必要はあまりないのかもしれません(「1+1=2」と書くことを想像してみてください)。わかっていないことがあるから書く。自分の中に、まだ言葉になっていない何かがあるから書く。世界に対して、まだうまく開けていない問いがあるから書く。

書くことは、自由の技術である。

そう言い切ってしまうと、少し強すぎる気もします。
けれども、少なくとも僕にとって、書くことは、自分が何に縛られ、何を問い、どこへ向かおうとしているのかを確かめるための方法です。

自由は、どこか遠くに完成形としてあるわけではないのだと思います。言葉にして、読み返して、疑って、また書き直す。書くことで、自分が無意識のうちに囚われている常識や、自分の正しさという枠組みに気づき、それを疑って組み替えることができる。その途中に、ときどき自由の手触りのようなものがある。

まだ、うまく言えていない気もします。
でも、たぶん、書くことはその「うまく言えていなさ」から始まるのです。

著者紹介
京極 真
京極 真
Ph.D.、OT
1976年大阪府生まれ。Thriver Project代表。首都大学東京大学院人間健康科学研究科博士後期課程・終了。吉備国際大学ならびに同大学大学院・教授(役職:人間科学部長、保健科学研究科長)。『この一冊でわかる!セラピストのための研究論文の書き方ガイド』(三輪書店)、『医療関係者のための信念対立解明アプローチ』(誠信書房)、『OCP・OFP・OBPで学ぶ作業療法実践の教科書』(メジカルビュー)、『作業で創るエビデンス』(医学書院)など著書・論文多数。
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