はじめに

専門家として生きながら、専門家に閉じない

京極真

専門家になると、世界の見え方が変わります。

それまで何となく見ていたものが、急に細かく見えるようになる。
言葉が増える。判断の根拠が増える。何が危なくて、何が見落とされやすくて、どこに手を入れれば状況が動きそうかが、少しずつわかるようになる。

これは、かなり大きな力です。

けれども、その力はときどき人を狭くもします。

専門家であることに慣れてくると、自分の専門から見える世界が、世界そのもののように感じられることがあります。作業療法の言葉で人を見すぎる。研究の言葉で実践を見すぎる。大学の制度で人生を見すぎる。合理性で、人間の迷いや弱さを見落とす。

これは他人事ではありません。僕自身にも、たぶん何度も起こっている。専門性は、世界を開く。同時に、世界を閉じる。ここに、専門家として生きることの難しさがあります。

専門家であることは、もちろん必要です。専門性がなければ見えないものがあります。作業療法士として見える生活の崩れがある。研究者として見える問いの弱さがある。教育者として見える学びの難しさがある。立場が変わると、同じ世界でも見えてくるものが変わります。

どれも、簡単なものではありません。
長い時間をかけて学び、失敗し、書き、教え、現場で悩み、また考える。その積み重ねが専門性になります。だから、専門性を軽く扱うことには、僕はかなり抵抗があります。

「専門家も一人の人間だから、専門性にこだわらなくてよい」という話ではない。

むしろ逆です。専門家は、自分の専門にかなり深く入った方がよい。

深く入らないと、専門性が持っている本当の射程が見えてこないからです。表面だけをなぞると、作業療法はリハビリの一種に見えます。研究は論文を書く作業に見えます。教育は知識を伝える仕事に見えます。信念対立は人間関係のトラブルに見えます。

でも、深く入ると少し違ってくる。

専門性は、深く入るほど、専門の外へ通じていくところがあります。僕が面白いと思うのは、そこです。

専門家に閉じるというのは、専門を深めることではありません。専門を、自分を守る壁にしてしまうことです。

自分は専門家だからわかっている。
専門外の人にはわからない。
この領域では、こう考えるのが正しい。
そのやり方は専門的ではない。

こうした言葉は、ある場面では必要です。専門性には境界がありますし、誤った理解に対しては、違うと言わなければならないこともある。

ただ、その言葉が自分の問いを止める方向に働きはじめると、専門性は急に不自由になります。

専門家であることが、自分の見方を固定する。
肩書きが、自分の可能性を狭める。
役割が、自分の人生を代表しすぎる。

これは、かなり静かな不自由です。

外から見ると、うまくいっているように見えるかもしれません。肩書きがある。仕事がある。評価される領域がある。人から相談される。専門家としての居場所がある。だからこそ、自分でも気づきにくい。

けれども、内側では少しずつ窮屈になることがあります。

本当は別のことも考えたい。
専門の外にある問題にも関心がある。
仕事の役割だけでは、自分の人生を説明しきれない。
でも、専門家として期待される自分から外れるのが、どこか怖い。

こういう感覚は、専門職に限らず、多くの人にあるのではないかと思います。

医療職には医療職としての自分があります。教員には教員としての自分がある。研究者、支援者、管理者、親、事業者、書き手。それぞれの役割には、固有の責任があります。その責任を引き受けることは、簡単ではない。

ただ、人間はひとつの役割だけでできているわけではありません。

役割は必要です。
けれども、役割は人生そのものではない。

ここを間違えると、人は自分で自分を閉じ込めます。

専門家としての評価を失いたくない。
周囲から期待される自分でいなければならない。
この領域で認められたのだから、そこから降りてはいけない。
専門外のことを語ると、浅いと思われるかもしれない。

そう思っているうちに、自分の関心が痩せていく。

僕は、それが昔からとても嫌なのだと思います。

専門性は、僕にとって世界を見る入口です。
でも、その入口の中に閉じこもりたいわけではない。

これは、かなり大事な感覚です。

専門家に閉じないというのは、専門性を捨てることではありません。専門性を持ったまま、その専門性がどのような関心から成り立っているのかを問い直すことです。

なぜ自分は、この専門に惹かれているのか。
この専門は、人間のどこを見ようとしているのか。
この専門で見えないものは何か。
この専門を通して、社会や自由をどう考えることができるのか。

そう問いはじめると、専門性は肩書きではなくなります。
世界と関わる方法になる。

方法である以上、状況と目的に応じて使い方を考えなければなりません。ある場面では作業療法士として考える。別の場面では研究者として考える。教育者として判断しなければならないこともある。

立場が複数あることは、ときどき面倒です。

大学教授としての責任がある。作業療法士としての専門性がある。研究者としての問いがある。それぞれが、違う方向に引っぱることがあります。

でも、その複数性が、自分をひとつの役割に閉じ込めない支えにもなります。

教育の論理だけで考えない。
臨床の論理だけで考えない。
業績だけで人生を測らない。

複数の立場を持つと、ひとつの世界が絶対ではないことが見えやすくなります。これは、信念対立を考えるうえでも大きい。人は、自分が立っている世界を絶対化しやすいからです。

専門家として生きる人ほど、自分の専門の正しさに救われます。
同時に、その正しさに縛られます。

だから、ときどき専門の外に出る必要があります。

外に出るといっても、派手なことをする必要はありません。別の領域の本を読む。自分の専門では説明しにくい経験について考える。専門外の人の違和感を、未熟な理解として片づけずに聞く。自分が当然だと思っている言葉を疑う。

あるいは、ただ生活者として世界を見る。

朝起きて、家族と話す。働く。食べる。歩く。お金のことを考える。将来の不安を感じる。自由でありたいと思う。思いどおりにならない身体や時間や制度の中で、何とか自分の人生を組み立てる。

専門家である前に、人はそういう生活をしています。

この当たり前のことを忘れると、専門性は人間から離れていきます。専門用語は増えるのに、人間が見えなくなる。理論は精密になるのに、生活の手触りが消える。方法は洗練されるのに、何のための方法だったのかがわからなくなる。

それは、かなり危うい。

僕は、専門性は人間に戻っていくためにあると思っています。

生活する人間に戻る。
問いを持つ人間に戻る。
変わろうとして、でも簡単には変われない人間に戻る。
正しさに支えられ、正しさに傷つく人間に戻る。

そこに戻れなくなったとき、専門性は閉じはじめます。

自由という言葉も、ここにつながっています。

自由は、役割をすべて捨てることではありません。社会から完全に降りることでもない。専門家としての責任、組織の中での役割、家族や仕事や経済の条件。そうしたものを抱えながら、それでも自分の人生をどう引き受けるかを考え続けることだと思います。

自分は何に縛られているのか。
何を守りたいのか。
何を捨ててよいのか。
どの専門性を、どの場面で使い、どの場面では少し脇に置くのか。

この問いを持てることが、自由の一部なのかもしれません。

専門家として生きることは、悪くありません。
むしろ、僕は専門家として生きることに、多くの時間を割いてきました。そのことに価値を感じています。何かを深く学び、実践し、他者に役立て、知識や技術を更新していくことは、人間にとって大切な営みです。

けれども、専門家であることが人生の全部になってしまうと、少し苦しい。

専門性を持つ。
でも、専門性に閉じない。
役割を引き受ける。
でも、役割だけで自分を終わらせない。

この距離感を、僕はまだ考えている途中です。

たぶん、専門家として成熟するというのは、自分の専門を絶対化しないことでもある。深く入るからこそ、そこから外を見る。外を見るからこそ、もう一度専門に戻れる。

その往復の中で、人間や社会や自由について考える余地が生まれると思っています。うまくできるかどうかは、まだわかりませんが。

著者紹介
京極 真
京極 真
Ph.D.、OT
1976年大阪府生まれ。Thriver Project代表。首都大学東京大学院人間健康科学研究科博士後期課程・終了。吉備国際大学ならびに同大学大学院・教授(役職:人間科学部長、保健科学研究科長)。『この一冊でわかる!セラピストのための研究論文の書き方ガイド』(三輪書店)、『医療関係者のための信念対立解明アプローチ』(誠信書房)、『OCP・OFP・OBPで学ぶ作業療法実践の教科書』(メジカルビュー)、『作業で創るエビデンス』(医学書院)など著書・論文多数。
記事URLをコピーしました