信念対立

分かり合えない人と、だましだまし生きていく

京極真
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分かり合えない人がいます。

話せば少しは通じるかと思って話す。こちらの言い方が悪かったのかもしれないと思って、別の言葉を探す。相手の立場も考えてみる。こちらの思い込みも疑ってみる。

それでも、どうにも通じない。

何度も同じところに戻ってくる。こちらが大事にしていることは、相手にはどうでもよいことのように見える。相手が当然だと思っていることは、こちらにはなぜそれほど大事なのかわからない。悪意があるとは限りません。むしろ、相手も相手なりに真面目だったりする。

だから、余計にしんどい。

明らかに乱暴な人や、明らかに理不尽な人なら、距離を置く理由を見つけやすい。けれども、相手がそれなりに正しく、それなりに誠実で、それなりに筋の通ったことを言っていると、こちらも簡単には切れません。

それでも、分かり合えない。

私は、人間の基本設定は、どちらかといえば「分かり合えない」なのだと思っています。

もちろん、まったく分かり合えないわけではありません。そんなことを言い始めたら、社会生活は成り立たない。家族も、職場も、学校も、医療や福祉の現場も、研究室も、何もかもが崩れてしまいます。

実際には、私たちは日々、かなり多くのことを何とか共有しています。

挨拶をする。時間を守る。仕事の手順を確認する。食事の好みを伝える。困っていることを相談する。相手の顔色を見て、今日はあまり踏み込まない方がよさそうだと感じる。そういう小さな了解の積み重ねで、生活は回っています。

けれども、それは「完全に分かり合っている」という意味ではありません。

たまたま、ある範囲で通じている。

そのくらいに考えた方が、人間関係は少し現実的になる気がします。

分かり合おうとしすぎると、苦しくなる

分かり合うことは、よいことのように見えます。

相手を理解する。自分も理解してもらう。誤解を解く。心を開いて話す。どれも悪いことではありません。むしろ、人間関係の中では必要なことでもあります。

ただ、分かり合うことがいつも善であるかというと、そこは少し怪しい。

分かり合おうとしすぎると、人は相手の内側に入り込みすぎます。

なぜそう考えるのか。
どうしてわかってくれないのか。
本当は何を思っているのか。
どこまで説明すれば納得するのか。
どうすればこちらの気持ちを理解してくれるのか。

こうやって相手の世界に入り込もうとする。あるいは、相手に自分の世界へ入ってきてもらおうとする。

でも、人にはそれぞれの世界があります。

それは、表面的な考え方の違いではありません。その人が生きてきた時間、傷ついた経験、守ってきたもの、失ったもの、身体の感じ方、家族や職場で身につけた暗黙のルール、そうしたものが折り重なって、その人の世界をつくっています。

そこへ、他人が簡単に入れるはずがない。

入られたくない場所もあります。

自分でもうまく言葉にできない場所もある。こちらが善意で近づいても、相手には侵入のように感じられることがある。逆に、相手がこちらを理解しようとして踏み込んできたとき、こちらが強く拒みたくなることもあります。

分かり合うという言葉は、きれいです。

けれども、その奥には、他者の世界にどこまで踏み込んでよいのかという問題があります。

ここを間違えると、理解しようとすること自体が暴力に近づく。

踏み込まない領域を残す

分かり合えない人と向き合うとき、必要なのは、もっと深く話すことだけではありません。

むしろ、踏み込まない領域を残すことが必要な場合があります。

相手の価値観をすべて理解しなくてよい。
自分の考えをすべて説明しなくてよい。
相手に納得してもらえないまま、いったん置いておくことがあってよい。
こちらも、相手の正しさを完全に受け入れなくてよい。

これは冷たい態度ではありません。

むしろ、人間の有限性を認める態度だと思います。

人は、他人の人生を丸ごと引き受けることはできません。相手の痛みを全部わかることもできない。相手が何を怖れているのか、何に傷ついてきたのか、何を失いたくないのか、それらを完全に共有することはできない。

それでも、同じ場所にいることはあります。

同じ家で暮らす。同じ職場で働く。同じチームで患者さんや利用者さんを支える。同じ社会の制度を使う。同じ地域で生活する。完全には分かり合えない人たちが、同じ場を共有してしまう。

社会とは、たぶんそういうものです。

分かり合える人だけで社会をつくることはできません。気の合う人だけで働くこともできない。似た価値観の人だけで家族を続けることも、たぶん難しい。現実の社会は、分かり合えない人たちが、それでも何とか同じ場に居合わせるところにあります。

だから、踏み込まない領域を残すことは、断絶ではなく、共存の技術でもあります。

技術と言うと少し実用っぽく聞こえますが、ここで言いたいのは手順ではありません。

人には、こちらが理解しなくても残しておいてよい場所がある。こちらにも、相手に理解されなくても守ってよい場所がある。その感覚です。

部分的に通じるだけで、十分なこともある

人間関係が苦しくなるのは、全体を分かり合おうとするからかもしれません。

この人とは、根本的に分かり合えない。
この人には、私の大事なところが伝わらない。
この人とは、世界の見え方が違いすぎる。

そう感じると、関係全体が駄目になったように思えてきます。

けれども、全体として分かり合えなくても、部分的に通じることはあります。

仕事のある部分では協力できる。
家族としては難しくても、生活上の連絡はできる。
価値観は合わなくても、ある趣味の話だけはできる。
人生観は違っても、困ったときに最低限の助け合いはできる。
深く信頼することはできなくても、同じ場にいるための作法は共有できる。

それでよい場合があります。

いや、それでしか成り立たない関係の方が多いのかもしれない。

私たちは、つい「本当に分かり合うこと」を人間関係の理想に置きます。深く理解し合い、互いの思いを受け止め、価値観を共有し、心から納得し合う。そういう関係は、たしかに美しい。

でも、現実の多くの関係は、そこまで透明ではありません。

なんとなく通じる。
そこそこ合わせる。
一部だけ共有する。
深入りしない。
面倒なところは、少し避ける。
言わないで済むことは、言わないでおく。

こうした曖昧な関係の中で、生活は回っています。

それを「分かり合ったフリ」と言ってしまえば、少し身も蓋もないかもしれません。

でも、分かり合ったフリにも、人間らしさがあります。

本当は完全には納得していない。でも、ここではこれ以上掘らない。相手の言葉に少し違和感がある。でも、今はその違和感を争点にしない。こちらの考えも全部は伝わっていない。でも、必要なところだけ通じていればよい。

だましだましやっていく。

この言い方は、あまり立派ではありません。けれども、私はわりと大事なことだと思っています。

信念対立を深めないという選択

信念対立という問題を考えていると、対立を解明する、対立を乗り越える、対立から学ぶ、といった方向に話が進みやすい。

もちろん、それが必要な場面はあります。

何がぶつかっているのかを見ないと、人はすぐ相手を悪者にする。自分の正しさだけを絶対化する。相手の言葉を都合よく悪く読む。そうなると、関係は静かに壊れていきます。

だから、信念対立を考えることには意味があります。

けれども、すべての信念対立を深く扱う必要はありません。

むしろ、深く扱わない方がよいこともある。

なぜなら、対立を深く掘ることは、それだけ互いの足場に触れることだからです。相手が何を大事にしているのかを問う。自分が何を守ろうとしているのかを言葉にする。どの正しさが衝突しているのかを見ようとする。

これは、見方によってはけっこう危ない作業になることも。

うまくいけば、互いの見え方が少し変わるかもしれない。でも、うまくいかなければ、かえって傷が深くなる。言わなくてよかったことまで言ってしまう。見なくてもよかったものを見てしまう。関係の中で、何とか保たれていた薄い膜が破れることもある。

だから、分かり合えない人とは、分かり合えないままにしておく方がよい場合があります。

すべてを話し合わない。
すべてを理解しようとしない。
すべてを納得しようとしない。

ただ、どこまでなら一緒にやれるのかを見る。

その方が、人間関係としては現実的なことがある。

自由は、離れることだけではない

分かり合えない人と向き合うとき、距離を置くことは大事です。

ただし、距離を置くというのは、必ずしも物理的に離れることだけではありません。もちろん、本当に危険な関係なら離れた方がよい。暴力や支配や搾取があるなら、分かり合う努力よりも安全を確保する方が先です。

でも、離れられない関係もあります。

家族、職場、地域、制度、専門職同士の連携。簡単には切れない関係の中で、人は生きています。そこで必要になるのは、相手の世界に完全に入らないこと、また相手を自分の世界に無理に入れようとしないことです。

内側に、少し余白を残す。

相手がこちらをわかってくれなくても、自分のすべてが否定されたわけではない。
相手の世界がこちらには理解できなくても、その人の存在を丸ごと否定する必要はない。
同じ場にいても、同じ世界を生きていないことがある。
それでも、部分的には通じることがある。

この感覚があると、人は少し自由になります。

自由とは、気の合う人だけに囲まれることではないと思います。もちろん、それはかなり快適です。できればそうしたい。でも、社会の中で生きる以上、分かり合えない人と居合わせることは避けられない。

そのとき、自分の世界を守りながら、相手の世界を侵略しすぎない。

ここに、自由の難しさがあります。

自分の世界を守ることだけを考えると、相手は邪魔者になります。相手の世界を尊重することだけを考えると、自分が消耗します。どちらか一方では、たぶんうまくいかない。

だから、だましだましになる。

この「だましだまし」は、逃げではないと思います。

人間が有限で、世界が複数で、言葉がいつも少しずれていて、それでも生活を続けなければならない。その現実に対する、かなり正直な態度です。

それでも世界はまわる

分かり合えない人がいる。

その事実は、少し寂しい。

できれば、身近な人とは分かり合いたい。職場では同じ方向を向きたい。家族には自分の大事なところをわかってほしい。社会の中でも、最低限の正しさは共有したい。

その願いを捨てる必要はありません。

ただ、その願いを強く持ちすぎると、分かり合えない現実が許せなくなります。相手を変えたくなる。わからせたくなる。自分も、わかってもらえないことに深く傷つく。

分かり合えないことは、失敗だけではない。

それは、人間がそれぞれの世界を生きていることの表れでもあります。完全に同じ世界を生きていないから、衝突も起こる。誤解も起こる。腹も立つ。けれども、完全に同じではないから、他者が他者としてそこにいるとも言える。

これは面倒です。いや、めっちゃ面倒です。

でも、世界はそういう面倒さを抱えたまま、だいたい回っています。

すべてを分かり合っているわけではない。むしろ、かなりの部分は分かり合えていない。それでも、挨拶をし、約束をし、仕事をし、家に帰り、また会い、少し話し、少し黙る。

そうやって人は生きている。

分かり合えない人とどう向き合うか。

その問いに、きれいな答えを出すのは難しい。

無理に分かり合わなくてよい。
でも、すぐに切り捨てなくてもよい。
踏み込まない場所を残してよい。
部分的に通じるところだけで、しばらくやっていってもよい。
分かり合ったフリをしながら、だましだまし続けてもよい。

そのくらいのゆるさが、人間には必要なのだと思います。

もちろん、それでもうまくいかない関係はあります。

限界もある。撤退が必要なこともある。こちらだけが我慢して、相手の世界を守り続ける必要はありません。

ただ、分かり合えないというだけで、すべてを終わらせなくてもよい。

完全には分かり合えないまま、少しだけ通じている。

そのあいまいな場所で、関係も社会も、案外どうにか動いている。

私たちはたぶん、そのくらい不完全な世界にいます。

そして、そこからしか始められないのだと思います。

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著者紹介
京極 真
京極 真
Ph.D.、OT
1976年大阪府生まれ。作業療法士、博士(作業療法学)。Thriver Project代表。首都大学東京大学院人間健康科学研究科博士後期課程修了。吉備国際大学ならびに同大学大学院教授。人間科学部長、保健科学研究科長。作業療法、信念対立、現象学、構造構成主義、研究方法論、アカデミックライティングを主な関心領域とする。『この一冊でわかる!セラピストのための研究論文の書き方ガイド』『医療関係者のための信念対立解明アプローチ』『OCP・OFP・OBPで学ぶ作業療法実践の教科書』『作業で創るエビデンス』など著書・論文多数。
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