話し合ったのに、何も伝わっていないと感じることがある。
こちらはかなり丁寧に説明したつもりでいる。相手も、うなずいていた。言葉を荒らしたわけでもない。できるだけ誤解がないように、何度も言い換えた。
それなのに、話し合いが終わったあとで、どこか妙な感じが残る。
たしかに会話は成立していた。日本語としても通じていた。相手の言っていることも、ひとつひとつの文としては理解できる。けれど、何かが届いていない。あるいは、こちらが受け取ったつもりのものも、相手が言おうとしていたものとは、少し違っていたのかもしれない。
こういうとき、僕らは「言葉が足りなかった」と考える。
もちろん、それはある。説明不足もある。感情が先に立って、言うべきことを言えていないこともある。聞く側が疲れていたり、関心を向けられなかったりすることもあるだろう。
けれど、話し合っても分かり合えない理由は、たぶんそれだけではない。もっと根本には、言葉そのものの頼りなさがある。これは、言葉数が足りないという話ではなく、もっと原理的なものだ。
言葉は、ものに貼られた名札ではない
言葉は、目の前のものに貼られた名札のように思われがちだ。
机がある。そこに「机」という名前がついている。水がある。そこに「水」という名前がついている。そう考えると、言葉は世界にあるものを指し示すための道具のように見える。
たしかに、そういう面はある。「そこにあるコップを取ってください」と言えば、相手はたいていコップを取ってくれる。「明日の午前10時に来てください」と言えば、時間と行動がだいたい共有される。言葉がなければ、僕らは日常生活の多くを、かなり不便に感じるはずだ。
でも、言葉は単なる名前の一覧ではない。
「自由」「責任」「配慮」「支援」「尊重」「本人らしさ」「安全」「普通」「正しい」。こういう言葉になると、急にあやしくなる。
たとえば「本人の自由を尊重しましょう」と言ったとき、そこでいう自由は、何を意味しているのか。本人が望むことを妨げないことなのか。本人が長期的に後悔しないように支えることなのか。危険を承知で選ぶ権利を認めることなのか。危険が大きすぎる場合には止めることも、本人の自由を守ることになるのか。
同じ「自由」という言葉を使っていても、その言葉が働いている場所は同じではない。
言葉と対象、言葉と概念のあいだには、数学のような厳密な対応規則があるわけではない。もちろん辞書はある。法律や専門用語の定義もある。でも、実際の生活の中で言葉がどう使われるかは、その場の関係、文脈、歴史、目的、感情に、かなり左右される。
だから、人は同じ言葉を使いながら、違う世界を立ち上げる。ここが難しいところだ。
分かり合えた感じは、どこから来るのか
僕らは、相手の頭の中を直接見ることができない。
相手が「わかりました」と言ったとき、本当に何をわかったのかは、こちらには見えない。こちらが「そういう意味ではありません」と言ったとき、その否定が相手にどう届いたのかも、やはり見えない。
それでも僕らは、日々、分かり合えたような感じをもって生活している。なぜそれが可能なのか。
おそらく、言葉の使い方がある程度似ているからだ。
「暑いですね」と言えば、相手は気温や体感の話として受け取る。「疲れました」と言えば、体力や気力が落ちている話として受け取る。「少し考えたい」と言えば、すぐに答えを出したくないのだと察する。
このように、言葉が指しているものを完全に共有しているというより、言葉の使い方の型が、ある程度そろっている。反応の仕方、言い換え方、沈黙の意味、冗談の受け取り方、どの言葉を重く受け止めるか。そうしたものが、だいたい同じ方向に動くとき、僕らは「通じた」と感じる。
分かり合えた感覚は、相手の内面を完全に確認できたことから生まれるのではない。それは、言葉の使い方の同型性から生まれる。
ただし、この同型性は、かなりもろい。生活の背景が違う。立場が違う。経験してきた傷が違う。専門領域が違う。権力関係が違う。何を守りたいかが違う。すると、同じ言葉の使い方が、少しずつずれていく。
少しのずれなら、会話は流れる。でも、そのずれが「正しさ」や「責任」や「自由」や「支援」に関わると、話は急にこじれる。
同じ言葉が、違う足場を支えている
医療や福祉や教育の場では、「安全」という言葉がよく使われる。
安全はもちろん大事だ。人が傷つかないこと。命を守ること。事故を防ぐこと。これは軽く扱ってよいものではない。
けれど、安全という言葉が、いつも同じ世界を指しているとは限らない。
ある人にとって安全は、転倒や再発や事故をできるだけ避けることだ。別の人にとって安全は、自分の選択が尊重されることかもしれない。さらに別の人にとっては、管理されすぎないことが、安全の感覚につながっている場合もある。
僕自身、会議の中で「安全のために」と言われたとき、その言葉にうなずきながらも、どこか引っかかったことがある。その場で語られていた安全は、本人の生活を守るというより、こちら側が不安にならないための安全に近かったのではないか。あとから、そんなふうに感じたことがあった。
同じ「安全」を語りながら、一方はリスクを減らす世界を見ている。他方は、自分の生活が奪われない世界を見ている。
このずれは、単なる語義の違いではない。その人がどのような身体で、どのような経験を重ね、何を怖れ、何を希望し、何を失いたくないと思っているのか。そうしたものが、言葉の意味を支えている。
信念対立は、ここで起こる。
表面では、同じ言葉を使っている。だから、話し合えば分かるはずだと思う。ところが実際には、同じ言葉が別々の足場を支えている。相手の言葉を、自分の言葉の使い方で理解する。こちらの言葉も、相手の言葉の使い方で受け取られる。
その結果、どちらも「なぜ、こんな簡単なことがわからないのか」と思う。しかし、簡単ではない。言葉が同じだから、世界も同じだとは限らない。
それでも、言葉を手放すわけにはいかない
ここまで考えると、言葉はあてにならないから、話し合いなど無意味だと言いたくなるかもしれない。
でも、僕はそうは思わない。
言葉だけでは分かり合えない。これは、かなり確かなことだと思う。けれど、言葉なしに分かり合えるわけでもない。むしろ、言葉の限界があるからこそ、言葉を使うしかないところがある。
話し合いで必要なのは、たぶん、正しい言葉を一発で当てることではない。相手の内面を完全に読み取ることでもない。こちらの意図を、誤差なく相手に移植することでもない。そんなことは、たぶんできない。
できるのは、言葉の使い方のずれに、少しずつ気づいていくことだ。
「自由」と言ったとき、自分は何をしようとしていたのか。「責任」と言ったとき、相手は何を背負わされていると感じたのか。「支援」と言ったとき、こちらはよかれと思っていたけれど、相手には管理として響いていなかったか。「普通はこうでしょう」という言葉は、誰の普通を前提にしていたのか。
こういう問いは、会話をきれいに解決するものではない。むしろ、話を少し面倒にする。でも、その面倒さを避けると、言葉はすぐに武器になる。
正しさも、責任も、配慮も、自由も、相手を助ける言葉であると同時に、相手の足場を奪う言葉にもなる。信念対立の怖さは、たぶんそこにある。
社会は、言葉のずれを抱えたまま動いている
社会は、言葉によって成り立っている。
法律、契約、診断名、制度、評価、役割、職名、資格、家族関係、学校のルール、職場の方針。どれも言葉なしには成り立たない。言葉があるから、人は同じ場に集まり、同じ手続きを踏み、同じ目的に向かっているように動ける。
でも、その「同じ」は、かなり危うい。
制度の中で使われる言葉は、人を助ける。支援が必要な人に制度を届けるためには、一定の言葉が必要だ。診断名や要件や手続きがなければ、社会は個別の困りごとをうまく扱えない。
その一方で、制度の言葉は、人を狭めることもある。その人の生活の複雑さが、ひとつの分類に押し込められる。本人の語りが、書類に合うように削られる。現場で感じている違和感が、「ルール上は問題ない」という言葉で消される。
言葉は、世界を見えるようにする。同時に、見えなくもする。
ここで、自由の問題が出てくる。
自由とは、ただ好きな言葉を使うことではない。自分の言葉で語ることは、たしかに自由に関係しているが、自分の言葉だと思っているものも、すでに社会の中で覚えた言葉だ。僕らは、自分だけの完全に私的な言葉で生きているわけではない。
だとすると、自由はどこにあるのか。
自分がどの言葉に縛られているのかに気づくこと。それが、その一部ではないかと思う。「普通」「ちゃんと」「責任」「迷惑」「自立」「成長」「専門性」「正しさ」。こうした言葉が、自分の世界をどう組み立てているのか。それに気づくと、言葉から完全に自由になるわけではない。でも、少し距離ができる。その距離の中で、別の言い方を探す余地が生まれる。
自由は、たぶんそこに少しだけある。
言葉の向こうに、すぐ人間がいるわけではない
話し合えば分かり合える。この言葉には、希望がある。僕も、その希望を捨てたいわけではない。
ただ、話し合いを信じすぎると、話し合っても分かり合えない相手を、すぐに不誠実だと思ってしまう。理解力がない、態度が悪い、心が閉じている、そう見えてくる。
もちろん、そういう場合もあるだろう。人はいつも善意で話しているわけではない。悪意もあるし、支配もあるし、都合の悪いことを言葉でごまかすこともある。
けれど、話し合っても分かり合えない理由を、相手の人格だけに押し込めると、見落とすものがある。
言葉は透明ではない。同じ言葉が、同じ概念を指すとは限らない。同じ概念を指しているように見えても、その言葉が生活の中でどう働いているかは、人によって違う。
だから、言葉の向こうに、すぐ人間が見えるわけではない。言葉の使い方があり、その背後に生活があり、身体があり、経験があり、制度があり、恐れがあり、希望がある。人間は、そこにいる。けれど、そこへたどり着く道は、まっすぐではない。
話し合っても分かり合えない。言葉が足りなかったのかもしれない。聞く姿勢が足りなかったのかもしれない。時間が足りなかったのかもしれない。
でも、それだけではない。僕らは、同じ言葉を使いながら、少しずつ違う世界を生きている。そのずれを抱えたまま、それでも言葉を使うしかない。
たぶん、考えることは、そこから始まるはずだ。分かり合うためというよりも、分かり合えなさの形を少しだけ見えるようにするために。そして、その形が少し見えたとき、相手の世界だけでなく、自分が当然だと思っていた世界も、ほんの少し揺れるだろう。その揺れは、気持ちのよいものではないが、そこにしか開かれない自由もあるのだと思う。