正しさがぶつかるとき、世界が危うくなる
人と意見が合わないことは、よくある。
どこに行くか。何を食べるか。どの順番で進めるか。どの方法を選ぶか。こうした違いは面倒ではあるが、たいていはまだ処理できる。こちらを選ぶ。今回は譲る。条件を整理する。時間を置く。そうすれば、多少の不満は残っても、話は前に進むことがある。
けれど、そうはいかない違いがある。
ただ意見が違うだけなのに、なぜか自分の奥のほうが傷つく。相手の言葉を聞いているうちに、自分がこれまで大事にしてきたものが軽く扱われているように感じる。あるいは、こちらが普通に言ったつもりの言葉が、相手にはひどく暴力的に響いてしまう。
このとき起こっているのは、表面上の意見の不一致ではない。奥底にある正しさがぶつかっている。もう少し言えば、それぞれが生きている世界の足場が、互いに触れ合ってしまっている。
正しさは、頭の中の考えだけではない
正しさというと、論理や知識の問題のように思われることがある。どちらの主張が妥当か。どちらの根拠が強いか。どちらの判断が合理的か。もちろん、そういう問題はある。事実確認も必要だ。根拠の吟味も必要だ。何でも「人それぞれ」で済ませればよいわけではない。
ただ、人が本当にこじれるとき、正しさは頭の中の意見だけに留まっていない。
その人がどのように生きてきたのか。何を危険だと感じてきたのか。何を失ったのか。何を守らなければならないと思っているのか。どの場面で、どのような言葉に救われ、どのような言葉に傷ついたのか。そうしたものが、正しさの背後にある。
たとえば、ある人にとって「安全を優先する」は当然の正しさだ。事故が起きれば取り返しがつかない。責任も問われる。本人も家族も傷つく。だから、危険が予測されるなら止めるべきだ、と考える。
別の人にとっては、「本人の意思を尊重する」が譲れない正しさだ。安全の名のもとに、その人が生きる機会を奪ってきた現場を見てきたのかもしれない。管理される生活が、人からどれほど力を奪うかを知っているのかもしれない。だから、危険があるからこそ、本人が選ぶ意味を軽く扱ってはいけない、と考える。
どちらも、ただの思いつきではない。その人なりの経験から組み立てられた世界像がある。
人は、自分の世界を真なるものとして生きている
僕らは、自分が見ている世界を、ただの仮説として位置づけて生きているわけではない。
もちろん、頭では「自分の考えが絶対に正しいとは限らない」と思うことができる。研究をしていれば、知識には限界があることもわかる。現象学や構造構成主義に触れていれば、世界が立場や関心によって異なる姿を現すことも理解できる。
けれど、日々の生活の中で、僕らはそんなに宙ぶらりんには生きられない。
朝起きて、仕事に行き、人と話し、判断し、約束し、誰かを支え、ときに誰かを拒む。そのたびに、「これはさしあたり正しい」「これは危ない」「これは許せない」「これは守るべきだ」という感覚に支えられている。
その感覚がまったくなければ、世界は夢うつろなものになる。何を信じてよいのかわからない。何を根拠に判断してよいのかわからない。何を守ればよいのかわからない。そういう状態では、人はたぶん、確かな生を生きにくい。
だから人は、自分の経験から構成された世界像を、暗黙のうちに真なるものとして生きている。これは本来的には錯覚だ。でも、知らず知らずのうちに、そう位置づけてしまっている。
この「真なるものとして」というところが厄介だ。それは、哲学的に絶対真理を持っているという意味ではない。そうではなく、その人がその人として立っていくために、疑いすぎるわけにはいかない足場があるということだ。
正しさは、その足場だ。
反論が、生の否定として響くとき
だから、正しさがぶつかると、人は思った以上に傷つく。
相手は、こちらの一つの意見に反論しただけかもしれない。ある方法を否定しただけかもしれない。ある判断に疑問を示しただけかもしれない。
でも、その意見や方法や判断が、自分の生き方の深いところと結びついている場合、反論はただの反論として聞こえない。
あなたの見てきたものは間違っている。あなたが大事にしてきたものには意味がない。あなたの判断の仕方は信頼できない。あなたのこれまでの生き方は、どこかおかしい。そんなふうに響くことがある。
もちろん、相手はそこまで言っていないだろう。実際には、そこまでの意図がないことも多い。けれど、言葉は相手の意図どおりにだけ届くわけではない。言葉は、その人がこれまで生きてきた世界の中に落ちていく。
だから、ある人にはただの質問が、別の人には詰問として響く。ある人には丁寧な確認が、別の人には不信の表明として響く。ある人には当然の助言が、別の人には人生への介入として響く。
ここで、正しさの衝突は実存をかけた戦いになる。
大げさに聞こえるかもしれない。でも、人が強く反応するとき、そこにはたいてい、その人が自分として生きていくために必要な何かがある。自尊心という言葉で片づけてもよいのかもしれない。プライドと言ってもよいのかもしれない。でも、それだけでは少し浅い気がする。
そこには、自分が自分の人生をどう了解してきたのか、という問題がある。それが危険にさらされるから、人は身を守る。
正しさは、人を守りながら閉じ込める
正しさは、人を支える。
何があっても守らなければならない価値がある。これはしてはいけない。ここまでは引き受ける。ここから先は譲れない。そうした正しさがあるから、人は責任を持てるし、踏みとどまることもできる。
正しさがなければ、人は流される。その場の空気に合わせる。強い人の言うことに従う。自分が何を大事にしているのかもわからないまま、ただうまくやり過ごす。そういう生き方が、いつも悪いとは言わない。人は毎回、全力で自分の正しさを表明していたら疲弊する。沈黙が必要な場面もある。
それでも、正しさがまったくなければ、自分の人生を自分のものとして引き受けることは難しい。
しかし、同じ正しさが人を閉じ込めることもある。
自分の正しさが、自分の世界像を守るためだけに働き始めると、他者の言葉はすぐに脅威になる。異なる意見は、学ぶ機会ではなく攻撃になる。違和感を伝えてくる人は、自分を困らせる人になる。問い直しは、成長ではなく敗北になる。
そうなると、人は自分の正しさを強めることで、自分を守ろうとする。同じ考えの人とだけ話す。相手の言葉を悪く読む。自分の過去の判断を正当化する材料を集める。別の可能性を見ない。見てしまうと、自分の足場が揺れるからだ。
これは他人事ではない。僕自身にもある。自分の考えてきたこと、自分が書いてきたこと、自分が人に伝えてきたこと。それらに対して異なる見方を突きつけられると、やはりどこかで身構える。素直に「なるほど」と受け取れるときばかりではない。むしろ、受け取れないときのほうが、自分の正しさがどこにあるのかを露わにする。
社会は、正しさの衝突を個人の問題にしやすい
正しさの衝突は、個人の性格だけで起こるわけではない。社会の中には、特定の正しさを強める仕組みがある。
職場では成果が求められる。学校では評価がある。医療や福祉では安全や責任が強く問われる。家庭では親密さの名のもとに、互いに踏み込みすぎることがある。研究の世界では、方法や業績や査読の基準が、その人の問いの価値を決めるように働くこともある。
もちろん、制度や基準は必要だ。何も基準がなければ、社会は動かない。責任も曖昧になる。
けれど、制度が背負った正しさは、しばしば強くなりすぎる。
普通はこうです。ルールではこうなっています。専門家として当然です。家族ならわかるはずです。社会人なら我慢すべきです。
こうした言葉は、素朴な意見ではない。その背後には、評価、権限、慣習、空気がある。だから、弱い立場にいる人は、自分の正しさを言葉にする前に飲み込んでしまう。
飲み込み続けると、自分の世界像が少しずつ崩れていく。自分は何を苦しいと感じていたのか。何に怒っていたのか。何を守りたかったのか。それすら、だんだんわからなくなる。
正しさがぶつかっているのに、それが個人の未熟さや我慢不足やコミュニケーション能力の問題にされると、人はかなりきついところに追い込まれる。その人の生が、静かに否定されていくからだ。
自由は、自分の正しさが揺れるところにもある
正しさがぶつかるとき、僕らはたいてい、相手の正しさをどう扱うかを考える。相手の言い分を聞くべきか。自分の意見を通すべきか。どこで折り合うべきか。どこまで譲るべきか。それも必要だ。
でも、もう一つ考えるべきことがある。
自分の正しさは、どのような世界像を支えているのか。自分は何を守ろうとしているのか。何を失うことを恐れているのか。どの経験から、この正しさを手放せなくなっているのか。その正しさは、いま目の前の相手や状況に対して、どのように働いているのか。
これは、自分を疑えという話とは、ちょっと違う。自分の正しさを簡単に手放す必要はない。手放してはいけない正しさもある。暴力や差別や搾取を前にして、「相手にも正しさがある」と言うだけでは、現実の痛みを隠してしまうことがある。
ただ、自分の正しさがどのように構成されているのかを、少し見ることはできる。そこに、自由の手触りがある。
自由とは、自分の正しさから完全に解放されることではないと思う。そんなことはたぶんできないし、できたとしても、それは確かな生ではないかもしれない。むしろ自由は、自分がどの正しさに支えられ、どの正しさに閉じ込められているのかを、少しずつ見えるようにする過程にある。
見えるようになったからといって、すぐに楽になるわけではない。むしろ、揺れる。
自分が正しいと思ってきたことが、誰かの世界を狭めていたかもしれない。自分を守っていた言葉が、相手には刃物のように届いていたかもしれない。自分が当然だと思っていた世界像が、ある条件のもとで成り立っていただけかもしれない。
気持ちのよい気づきではない。それでも、そこからしか考え直せないことがある。
正しさがぶつかるとき、そこでは何かが壊れかけている。関係かもしれない。役割かもしれない。自尊心かもしれない。これまで信じてきた世界かもしれない。
ただ、その壊れかけた場所には、人間が何によって生きているのかが露わになることもある。何を真なるものとして生きてきたのか。何を支えにして、何を恐れて、何を守ろうとしているのか。
正しさの衝突は、しんどい。できれば避けたい。それでも、その衝突の中に、自分の世界像が少し見えてしまうことがある。相手の世界像も、少しだけ見えることがある。
和解できるとは限らない。話し合えばわかるとも限らない。正しさを手放せば自由になる、というほど単純でもない。ただ、正しさがぶつかるとき、僕らは相手と争っているだけではない。自分がどのように世界に立ってきたのか、その足場もまた問われている。
その問いを避け続けると、正しさは固くなる。少しだけ見つめることができたとき、正しさは、相手を倒すためだけのものではなくなるのかもしれない。まだ、そこから考える余地がある。