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正しさがぶつかるとき、世界が危うくなる

2026.06.29
社会を考える

人間が生きている限り、信念対立はなくならない。

いきなり身も蓋もない話である。

でも、これは仕方がない。

ぼくは長いこと信念対立という問題を研究してきたけども、結論からいえば、信念対立は世界観の確執という問題である。

世界観は信念の総体であり、その信念は経験を通して確信した事柄全般を意味する。

つまり、人はそれぞれ違う経験をしながら、いろんなことを「これは正しい」「これは大事だ」「これは許せない」と確信し、その積み重ねで世界観を作っている。

だったら、正しさがぶつかるのはわりと普通である。

ぼくが言いたいのは、正しさがぶつからない社会を作ろう、ということではない。

そんなの無理である。

問題は、正しさがぶつかったときに、どうするのかである。

固有の生を生きることと、信念対立はセットである

ぼくらは誰でも、それぞれ固有の生を生きている。

自分が経験したこと。

見てきたこと。

考えてきたこと。

うまくいったこと。

失敗したこと。

傷ついたこと。

そういう個別体験を手がかりに、他者との関係を結んでいる。

すると、どうしても世界観の確執という問題が生じる。

言い方をかえると、固有の生を生きることと信念対立はセットなのである。

これはもう、しょうがない。

例えば、ある人は「危ないからやめた方がいい」と思う。

別の人は「多少危なくても本人に決めさせた方がいい」と思う。

どちらも、自分なりの経験から考えている。

片方は事故を防ぎたい。

片方は自由を守りたい。

そこだけ見れば、どちらにもそれなりの理由がある。

でも、自分の正しさだけを見ていると、「なんでそんなこともわからないの?」となる。

相手から見れば、「なんでこっちのことをわかってくれないの?」となる。

人間ってほんとうにややこしいですね。

しかも、人間関係が難しいのはお互い様である。

こちらが「あの人はめんどくさい」と思っているとき、相手もこちらを「めんどくさい」と思っているかもしれない。

世界観が違う以上、そういうことは普通にある。

絶対に正しい世界観はない

ここで大事なのは、自分の世界観を絶対化しないことである。

世界観が人それぞれ異なるということは、絶対に正しい世界観はない。

あるのは、その時々で確からしい世界観だけであり、それも時と場合によっては確かなものではなくなる。

なので、自分にとって正しく感じるからといって、それを他者に押しつける理由はない。

これはわりと重要である。

「ぼくはこう思う」と、「だから、お前もそう思え」には大きな隔たりがある。

「これはぼくにとって大事だ」と、「だから、あなたも大事にするべきだ」も違う。

正しさは、いつの間にかこの境界を飛び越える。

すると、自分では正しいことを言っているだけのつもりなのに、相手からすると世界観を押しつけられている状態になる。

「〜するべき」「〜しなければならない」が増えてきたら、ちょっと怪しい。

自分では正義を守っているつもりでも、相手の選択肢をどんどん狭めているかもしれない。

そこまでいくと怪しさマックスである。

正しさの衝突を力で解決すると、弱肉強食になる

正しさがぶつかったとき、一番簡単なのは強い方が決めることである。

権力がある。

人数が多い。

声が大きい。

お金がある。

立場が上である。

そういう人が「これが正しい」と言えば、とりあえず話は終わる。

けども、それでいいのかという問題がある。

ぼくは以前、社会の基本ルールについて書いたときに、人類が長らく愛用してきた考え方を「普遍闘争」と表現した。

簡単に言えば、弱肉強食である。

強い者が勝つ。

勝った方の世界観が通る。

負けた方は従う。

これはものすごくわかりやすい。

でも、これでは信念対立の螺旋は解消できない。

むしろ、奪いあい、傷つけあいを促進する。

だから、人類はそれとは別に、自由の相互承認という考え方を作ってきた。

自由の相互承認とは、ちょー簡単に言えば、ぼくらが生きたいように生きるために、お互いに自由な存在であると認めあうことである。

つまり、人はそれぞれ人生があって、お互いにそれを尊重しあいながら生きるしかない、ということである。

ぼくはこの感度がめちゃくちゃ大事だと思っている。

自由に生きたいなら、他人の自由も認めるしかない

自分は自由に生きたい。

でも、他人には自分の正しさに従ってほしい。

これは無理である。

だって、相手も自分と同じように生きたい人生があるからだ。

ぼくは自由の相互承認について、自他の目的と状況に配慮しあいながら、それぞれいろんな事情があるので、他人に不可逆的な迷惑をかけない限りは自由にやればよい、と書いてきた。

これぐらいでよいのである。

相手の考えが気に入らない。

まぁしょうがないな。

相手の生き方が理解できない。

理解はできないけども、そういう人もいるのね、でよい。

自分なら絶対そんなことしない。

それも結構である。

だからといって、相手に自分と同じように生きてもらう必要はない。

もちろん、他人を傷つけたり、取り返しのつかない迷惑をかけたりしているなら話は別である。

それも程度問題である。

何でも「人それぞれ」で済ませればよいわけではない。

だからこそ、自他の目的と状況を見た方がよい。

何が起きているのか。

誰が何を求めているのか。

何が困るのか。

何なら許容できるのか。

そこを考える。

「どちらが正しいか」だけで考えるより、その方がずっと話を前に進めやすい。

どうでもよい正しさなら、スルっと流せばよい

しかも、すべての正しさの衝突に全力で反応する必要もない。

これは大事である。

信念対立に対する心の反応が大きすぎると、しんどくなりがちである。

ネットを見れば、自分と違う意見なんて秒速で見つかる。

職場に行けば、考え方が違う人はいくらでもいる。

家族だって別人なので、当然いろいろ違う。

いちいち、「それは間違っている!」「いや、こっちが正しい!」とやっていたら、はぁしんど、である。

なので、どうでもよい信念対立はスルっと流せばよい。

絶対に間違っているとか、絶対に正しいとかいう考えはいったん脇において、「あぁ。あなたはそう思うのね」ぐらいで終わればよい。

さらっとスルーする。

華麗にスルーしながらサバイブする。

それで問題がないなら、それが一番である。

逆に、どうしても放置できない問題なら、そこで初めて目的と状況をアンカーにして考えればよい。

何でも戦わなくてよい。

でも、必要なら考える。

こんな感じである。

正しさがぶつかったときこそ、自分の正しさも疑ってみる

そして、これは他人だけの話ではない。

ぼくにも当然当てはまる。

自分が何かを「正しい」と強く感じたときは、それだけ自分の世界観が前に出ている可能性がある。

もちろん、本当に大事なことなのかもしれない。

譲ったらダメなことかもしれない。

でも、そうではないかもしれない。

だから、「ほんまに?」と一回考えた方がよい。

絶対に正しいと思っているけども、目的や状況が変わったらどうか。

相手にもそれなりの事情があるのではないか。

自分の正しさを守ることと、相手の自由を踏みにじることが混ざっていないか。

そこを見る。

正しさをなくす必要はない。

そんなことはできないし、やる必要もない。

人間はそれぞれの世界観の中で生きているのだから、何かを正しいと思うのは当たり前である。

でも、その正しさをもって他人を踏みつけはじめたら話が変わる。

人はそれぞれ人生がある。

自分も生きたいように生きたい。

相手も生きたいように生きたい。

だったら、お互いに自由な存在であると認めあうしかない。

大きく示すと、ぼくらに残されている選択肢はそんなに多くない。

お互いの自由を認めあうか。

強い方が弱い方を踏みにじるか。

ぼくなら前者を選ぶ。

正しさがぶつかったとき、世界を壊さないために必要なのは、相手より強い正しさではない。

自分にも相手にも、それぞれ固有の生があるというところまで戻って考えることなのだと思う。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学教授。思想ノートでは身近な違和感の奥にある前提を問い直し、分かり合えない世界で人間・社会・自由について考えている。

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