同じ場所にいても、同じ世界にいるとは限らない。
いきなりこんなことを言うと、「いやいや、同じ会議室にいるなら、同じものを見たり聞いたりしているでしょう」と思う人がいるかもしれない。
それは、もちろんそうである。
同じ部屋にいる。
同じ話を聞いている。
同じ出来事を経験している。
そういう意味では同じである。
ぼくが言いたいのは、そういうことではない。
人間関係が難しい理由は、簡単に言えば、生きている世界が違うからである。
ぼくらはそれぞれ違う世界観の中で生きている
あらゆる人間は固有の世界観の中で生きている。
ぼくはぼくの世界観を通してでしか他者と関われないし、皆さんもまた各人の世界観を通してでしか他者と関われない。
これはもうひっくり返しようがない。
「生きている世界観が違う→思考、感情、行動が違う」というわけである。
例えば、同じ会議に出ていたとする。
ぼくは「今日はわりと話がまとまったな」と思った。
でも、隣にいた人は「ぜんぜん話がまとまらなかった」と思っているかもしれない。
別の人は「あの発言は問題だった」と思っている。
さらに別の人は、その発言そのものをほぼ覚えていない。
同じ場所にいた。
同じ時間を過ごした。
同じ言葉を聞いた。
けども、そこで経験していることは同じではない。
こんなことはわりと普通にある。
同じ出来事でも、受け取り方はぜんぜん違う
どうしてそんなことが起こるのか。
人それぞれ世界観が違うからである。
これまでどんな経験をしてきたのか。
何を大事だと思っているのか。
何が嫌いなのか。
何が怖いのか。
何を期待しているのか。
そういうものが違えば、同じ出来事に出会っても受け取り方は変わる。
例えば、上司から、「もう少し早くお願いします」と言われたとする。
ある人は、「了解です」で終わる。
別の人は、「仕事が遅いと責められた」と思う。
さらに別の人は、「全体の予定が遅れているから調整したいんだな」と受け取る。
同じ言葉である。
でも、そこから立ち上がっている意味は違う。
ぼくは以前、コミュニケーションの難しさは、意味が文脈で変動するところにあると書いた。
同じ言葉でも文脈が変われば意味は変わる。
しかも、その文脈自体がふわふわ移ろっていく。
なので、意味もそれにともなってふわふわ変わる。
そのうえ、受け取る側の世界観まで違う。
そりゃ、完全に同じ世界になる方が無理である。
「なんでわからないの?」と思う前に考えた方がよい
ここを忘れると、人間関係はややこしくなる。
自分にはこう見えている。
だから、相手にもそう見えているはずだ。
自分には明らかである。
だから、相手にも明らかなはずだ。
自分は傷ついた。
だから、相手も自分が傷ついたことぐらいわかっているはずだ。
こう思ってしまう。
でも、そうとは限らない。
ぼくの経験上、話が通じない、、、と感じる人は、こちらが想定していなかったような意味で受け取っていたりする。
なので、「なんでわからないの?」と秒速で怒るより、「どういう意味で受け取りました?」と確認した方がよい。
すると、「えっ、そんな意味で受け取っていたの?」となることがある。
逆もある。
相手は普通に言っただけなのに、こちらが勝手に違う意味をくっつけているかもしれない。
人間関係が難しいのは、お互い様である。
あなたはAさんとの関係で悩んでいるかもしれない。
けど、Aさんはあなたとのことで困っているかもしれない。
人間ってほんとうにややこしいですね。
状況と目的が共有できると、少し話は楽になる
では、どうしたらよいのか。
ひとつは、状況と目的を共有することである。
状況と目的の共有はコミュニケーションの基盤になる。
例えば、仕事を頼むにしても、「これをやってください」だけでは、相手は、「なぜ?」と思うかもしれない。
場合によっては、「面倒な仕事を押しつけられた」と思うかもしれない。
でも、「いまこういう状況になっていて、ここまでに終わらせたいので、これをお願いしたい」と状況と目的が共有できれば、意味はかなり変わる。
相手が同意するかどうかは別問題である。
けども、少なくとも何が起きているのかは共有しやすくなる。
なので、話が通じないときは、「相手がおかしい」「自分の説明が下手だった」の二択で考えない方がよい。
状況と目的が共有できていないだけかもしれない。
意味がずれているだけかもしれない。
世界観が違っているだけかもしれない。
それぞれ分けて考えればよい。
それでも、同じ世界にはならない
ただし、状況と目的を共有すれば、同じ世界を生きられるという話ではない。
そんなことは無理である。
どんなに愛しあっても、どれほど憎み合っても、自他の世界観が溶けあって一体化することはない。
だから、究極のところわかりあえない。
ここはどうしようもない。
でも、「わかりあえる」という感度を前提にすると、「わかりあえない」ときに簡単にトラブル化する。
「これだけ話したのに」「なんでわからないの?」「普通わかるでしょう」となる。
はぁしんど、である。
だったら、世界観は人それぞれ違うので、わかりあえないからはじめるしかない。
これは別に、人間関係をあきらめろという話ではない。
むしろ逆である。
世界観はそもそも違う。
そう前提にできれば、意見が食い違っても、「あぁ。あなたはそう思ったのね」とさらっと流せることも増える。
時間と空間をともにしても、世界観が違えば思考、感情、行動は千差万別になる。
まず、それを承認するところからはじめればよい。
同じ場所にいられるだけで十分なこともある
ぼくらは、相手と同じ世界を共有したがる。
同じものを見てほしい。
同じように感じてほしい。
自分が大切だと思うものを、相手にも大切だと思ってほしい。
その気持ちはわかる。
でも、そんなにうまくいかない。
同じ場所にいても、生きている世界は違う。
同じ出来事を経験しても、意味は違う。
同じ言葉を使っても、受け取り方は違う。
だからといって、何も共有できないわけでもない。
意味のズレがわかれば、互いに理解を確認しながらすりあわせればよい。
状況と目的を共有できるなら、共有すればよい。
どうしてもわかりあえないなら、
「理解はできないけども、そういう人もいるのね、、、」ぐらいでよい。
何でもわかりあわなければならないわけではない。
同じ世界を生きていなくても、同じ場所にいることはできる。
全部同じように考えなくても、一緒に仕事はできる。
相手を完全に理解できなくても、相手が自分とは違う世界を生きていることは承認できる。
たぶん、人間関係なんてそんなものなのである。
同じ場所にいても、同じ世界にはいない。
だったら、相手を自分の世界に無理やり引っぱりこむよりも、「あぁ。あなたにはそう見えているのね」ぐらいのところから、だましだまし付きあった方がよい。
ぼくは、それぐらいがちょうどよいと思っている。