信念対立

同じ場所にいても、同じ世界にはいない

京極真
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同じ場にいたはずなのに、あとから話してみると、まるで別の出来事を経験していたように感じることがあります。

会議でも、家族の会話でも、大学の授業でも、医療や福祉の現場でも起こる。こちらは「これで共有できた」と思っている。けれども、相手はまったく違うところに引っかかっている。あるいは、こちらが少し気になっていたことを、相手はまったく問題にしていない。

こういうとき、私たちは言葉が足りなかったのだと思いやすい。

もっと丁寧に説明すればよかった。
もっと相手の話を聞けばよかった。
もっと冷静に話せばよかった。

もちろん、そういうことはあります。言い方が雑だった。前提を共有しないまま話を進めた。相手の状況を見ないで、自分の都合だけを押しつけた。そういう場合は、話し方を変えることで少し状況が動くこともある。

けれども、問題はそこだけではありません。

人は、同じ場所にいても、同じ世界にいるとは限らない。

これは、少し冷たい言い方に聞こえるかもしれません。けれども、私はこのことを、人間関係に絶望するためではなく、人間と社会に絶望しすぎないために考えておきたいと思っています。

見ているものは、見えているものではない

たとえば、同じ会議で上司が「もう少し早く進めてほしい」と言ったとします。

ある人には、それが単なる進捗確認として聞こえる。別の人には、自分の仕事の遅さを責められたように聞こえる。さらに別の人には、チーム全体の方向修正として聞こえるかもしれない。言葉は一つです。けれども、その言葉が立ち上がらせる世界は一つではない。

なぜそうなるのか。

それは、人がただ外の出来事をカメラのように写しているわけではないからです。人はいつも、自分の身体で、自分の欲望で、自分の関心で、世界に向かっています。疲れている身体で聞く言葉と、余裕のある身体で聞く言葉は違う。認められたいと思っているときに聞く注意と、淡々と仕事を進めたいと思っているときに聞く注意も違う。何を恐れているのか。何を期待しているのか。何を守ろうとしているのか。そこによって、同じ出来事の輪郭が変わってしまう。

構造構成主義では、こういう「何かに向かっている」という人間のあり方と世界の構成のされ方を志向相関性という言葉で考えます。難しい言葉です。けれども、日常の実感としてはそれほど遠い話ではありません。

お腹が空いているとき、街の景色の中で飲食店の看板がよく目に入る。急いでいるとき、信号の赤がやけに長く感じる。気まずい相手がいると、部屋に入った瞬間にその人の位置が気になる。世界はそこにあるようでいて、実際には、こちらの身体や関心に応じて立ち上がってくる。

だから、人は同じものを見ているようで、同じものを見ていない。

ここを見落とすと、「なぜわからないのか」という問いは、すぐに「相手の理解力が低いからだ」「相手の性格が悪いからだ」「こちらが未熟だからだ」という話になっていきます。もちろん、本当に理解力や性格や未熟さが問題になる場合もあるでしょう。そこまで否定する必要はない。

ただ、それだけでは足りない。

人は、違う世界の中から話している。
この前提を置くだけで、分かり合えなさの見え方は少し変わります。

信念対立は、意見の違いだけではない

私が長く考えてきた信念対立という問題も、ここに深く関係しています。

信念対立というと、何か特別な対立のように聞こえるかもしれません。専門用語として整理することもできます。実際、私自身もそれを理論として考え、実践のための哲学的方法論として組み立てようとしてきました。

けれども、生活の中で起こっていることは、もっと生々しい。

あの人は現場をわかっていない。
あの人は人の気持ちを考えていない。
あの人は安全を軽く見ている。
あの人は自由をはき違えている。
あの人は正しさを押しつけている。

こうした言葉の奥には、たいていその人なりの世界があります。安全を守らなければならない世界。本人の意思を尊重しなければならない世界。秩序が崩れることを恐れる世界。自由を奪われることに敏感な世界。過去に傷ついた経験から、同じことを繰り返したくない世界。

だから、信念対立は単純な意見の違いではありません。意見の違いなら、条件を整理すれば何とかなることがあります。A案かB案か。いつまでにするか。誰が担当するか。そういう問題なら、まだ調整の余地がある。

でも、その意見が、その人の生きている世界の足場と結びついていると、話は急に難しくなります。

相手の反論は、情報の違いではなく、自分の世界への否定として響く。こちらの説明も、相手には理解を助ける言葉ではなく、相手の足場を崩す言葉として聞こえることがある。そうなると、話せば話すほど、互いに防衛的になる。

これは、かなり厄介です。

しかも、多くの場合、当事者は自分が悪いことをしているとは思っていません。むしろ、正しいことをしていると思っている。相手のため、組織のため、家族のため、社会のため。そういう言葉を背負っているからこそ、譲れなくなる。

正しさは、人間を支えます。けれども、正しさは人間を閉じ込めることもある。

分かり合えなさは、欠陥ではない

人はなぜ分かり合えないのか。

その問いに一言で答えるなら、人がそれぞれ異なる身体、欲望、関心をもって世界を生きているからです。同じ出来事に触れても、そこに何が立ち上がるかは同じではない。言葉を交わしても、その言葉がどの経験に接続されるかは人によって違う。

このことは、とても当たり前です。
でも、当たり前すぎて、よく忘れられる。

私たちは、つい自分が見ている世界を、相手も見ているはずだと思ってしまいます。自分にとって明らかなことは、相手にとっても明らかなはずだと思う。自分が傷ついた言葉は、相手も当然わかっているはずだと思う。自分が大事にしているものは、説明しなくても伝わっているはずだと思う。

でも、そうではない。

人は、それぞれの世界からしか世界に触れられません。これは人間の欠陥というより、生きていることの基本設定に近い。身体が違う。経験が違う。置かれている立場が違う。何を失うと怖いのかも違う。そうである以上、完全に同じ世界を共有することはできない。

もちろん、だからといって、何も伝わらないわけではありません。

分かり合えなさは、完全な断絶ではない。ここが難しいところです。人は完全には分かり合えない。けれども、まったく分かり合えないわけでもない。状況や目的を整えることで、言葉を重ねることで、少し見えてくることがある。相手の沈黙を待つことで、ようやく聞こえてくるものがある。何年も経ってから、あのとき相手が守ろうとしていたものが少しわかることもある。

だから、私は「話せばわかる」をそのまま信じることはできません。けれども、「話しても無駄だ」と言い切ることもできない。

この中間に、人間のしんどさがあります。
同時に、希望のようなものもある。

社会は、分かり合えない人たちでできている

社会は、分かり合える人たちが集まってできているわけではありません。

むしろ、分かり合えない人たちが、それでも同じ場所、同じ制度、同じ時間、同じ資源を共有しなければならないところに社会があります。家族もそうです。職場もそうです。大学も、医療や福祉の現場も、地域も、国家も、ぜんぶそうです。

だから社会は、いつも少し無理を含んでいる。

それぞれが違う世界を生きているのに、何らかの共通の決定をしなければならない。何らかのルールをつくらなければならない。誰かの自由と、別の誰かの安全がぶつかる。誰かの安心と、別の誰かの尊厳がぶつかる。どちらもそれなりに理由がある。だからこそ、簡単には片づかない。

ここで「みんな仲良くしましょう」と言っても、あまり効きません。
「相手の立場に立ちましょう」だけでも足りない。

立場に立つという言葉はきれいですが、本当に他者の立場に立つことは、そう簡単ではありません。相手の身体で生きることはできない。相手の記憶をそのまま持つこともできない。相手の不安や怒りや希望を、こちらの内側で完全に再現することもできない。

できるのは、せいぜい、自分が相手をわかったつもりになっていることに気づくことです。

これは小さなことのようで、そうでもない。
相手をわかったつもりになると、人はすぐに裁きはじめます。
あの人はこういう人だ。
だから、あんなことを言うのだ。
だから、変わらないのだ。

その瞬間、相手は一人の人間ではなく、こちらの理解の中に閉じ込められます。

分かり合えなさを基本設定として考えることは、相手を理解しなくてよいという話ではありません。むしろ逆で、理解はいつも不完全であるという前提に立つことです。そこからしか、他者を他者として扱うことは始まらないのではないか。

自由は、自分の世界が見えてくるところにある

分かり合えない世界で生きることは、孤独です。

自分が見ているものを、誰も同じようには見てくれない。自分が大事にしているものを、相手は平気で軽く扱うことがある。こちらが傷ついたことを、相手は気づきもしない。逆もあります。自分では何気なく言った言葉が、誰かの足場を崩していることもある。

この孤独をなくすことは、たぶんできません。

けれども、孤独をなくそうとしすぎると、かえって他者に過剰な期待をかけることになります。わかってほしい。わかるはずだ。わからないなら、相手が悪い。そう考えるほど、分かり合えなさは怒りに変わっていく。

では、どうすればよいのか。

ここで答えをきれいに出すと、急にノウハウになってしまう。だから、少し手前で止めておきたいのですが、少なくとも私は、分かり合えなさを考えることは自由の問題につながっていると思っています。

自由とは、ただ制約がないことではありません。もちろん、制約が少ない方がよい場面はたくさんあります。制度に縛られないこと、役割に押しつぶされないこと、経済的に選択肢があること。そういう自由は現実に必要です。

でも、それだけではない。

自分がどのような世界を当然だと思っているのか。何に反応し、何を恐れ、何を守ろうとしているのか。どの正しさに支えられ、どの正しさに閉じ込められているのか。そうした自分の前提が少し見えてくるとき、人は自分の世界との距離をほんの少し取れる。

その距離の中に、自由の手触りがあるのではないか。

分かり合えないことは、つらい。
でも、分かり合えないからこそ、自分がどんな世界を生きているのかが見えてくることもあります。

相手がわからない。
そのとき、本当は自分の世界も少しわからなくなっている。

たぶん、そこから考えるしかないのだと思います。きれいに分かり合える場所ではなく、互いに少しずつずれた世界を生きている場所から。人間も、社会も、自由も、そこから見直すしかない。

そして、その見直しは、たぶん一度では終わりません。

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著者紹介
京極 真
京極 真
Ph.D.、OT
1976年大阪府生まれ。作業療法士、博士(作業療法学)。Thriver Project代表。首都大学東京大学院人間健康科学研究科博士後期課程修了。吉備国際大学ならびに同大学大学院教授。人間科学部長、保健科学研究科長。作業療法、信念対立、現象学、構造構成主義、研究方法論、アカデミックライティングを主な関心領域とする。『この一冊でわかる!セラピストのための研究論文の書き方ガイド』『医療関係者のための信念対立解明アプローチ』『OCP・OFP・OBPで学ぶ作業療法実践の教科書』『作業で創るエビデンス』など著書・論文多数。
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