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同じ場所にいても、同じ世界にはいない

2026.06.29
人間を考える

同じ場にいたはずなのに、あとから話してみると、まるで別の出来事を経験していたように感じることがある。

会議でも、家族の会話でも、大学の授業でも、医療や福祉の現場でも起こる。こちらは「これで共有できた」と思っている。けれど、相手はまったく違うところに引っかかっている。あるいは、こちらが気になっていたことを、相手はまったく問題にしていない。

こういうとき、僕らは言葉が足りなかったのだと思いやすい。

もっと丁寧に説明すればよかった。もっと相手の話を聞けばよかった。もっと冷静に話せばよかった。

もちろん、そういうこともある。言い方が雑だった。前提を共有しないまま話を進めた。相手の状況を見ないで、自分の都合だけを押しつけた。そういう場合は、話し方を変えることで、少し状況が動くこともある。

けれど、問題はそこだけではない。

人は、同じ場所にいても、同じ世界にいるとは限らない。

これは、少し冷たい言い方に聞こえるかもしれない。でも、僕はこのことを、人間関係に絶望するためではなく、人間と社会に絶望しすぎないために考えておきたいと思っている。

見ているものは、見えているものではない

たとえば、同じ会議で上司が「もう少し早く進めてほしい」と言ったとする。

ある人には、それが単なる進捗確認として聞こえる。別の人には、自分の仕事の遅さを責められたように聞こえる。さらに別の人には、チーム全体の方向修正として聞こえるかもしれない。言葉は一つだ。けれど、その言葉が立ち上がらせる世界は、一つではない。

なぜそうなるのか。

人はただ外の出来事をカメラのように写しているわけではないからだ。人はいつも、自分の身体で、自分の欲望で、自分の関心で、世界に向かっている。疲れている身体で聞く言葉と、余裕のある身体で聞く言葉は違う。認められたいと思っているときに聞く注意と、淡々と仕事を進めたいと思っているときに聞く注意も違う。何を恐れているのか。何を期待しているのか。何を守ろうとしているのか。そこによって、同じ出来事の輪郭が変わってしまう。

構造構成主義では、こういう「何かに向かっている」という人間のあり方と世界の構成のされ方を、志向相関性という言葉で考える。難しい言葉に聞こえるかもしれない。でも、日常の実感としては、それほど遠い話ではない。

お腹が空いているとき、街の景色の中で飲食店の看板がよく目に入る。急いでいるとき、信号の赤がやけに長く感じる。気まずい相手がいると、部屋に入った瞬間にその人の位置が気になる。世界はそこにあるようでいて、実際には、こちらの身体や関心に応じて立ち上がってくる。

だから、人は同じものを見ているようで、同じものを見ていない。

ここを見落とすと、「なぜわからないのか」という問いは、すぐに「相手の理解力が低いからだ」「相手の性格が悪いからだ」「こちらが未熟だからだ」という話になっていく。もちろん、本当に理解力や性格や未熟さが問題になる場合もあるだろう。そこまで否定する必要はない。

ただ、それだけでは足りない。人は、違う世界の中から話している。この前提を置くだけで、分かり合えなさの見え方は少し変わる。

信念対立は、意見の違いだけではない

僕が長く考えてきた信念対立という問題も、ここに深く関係している。

信念対立というと、何か特別な対立のように聞こえるかもしれない。専門用語として整理することもできる。実際、僕自身もそれを理論として考え、実践のための哲学的方法論として組み立てようとしてきた。

けれど、生活の中で起こっていることは、もっと生々しい。

あの人は現場をわかっていない。あの人は人の気持ちを考えていない。あの人は安全を軽く見ている。あの人は自由をはき違えている。あの人は正しさを押しつけている。

こうした言葉の奥には、たいてい、その人なりの世界がある。安全を守らなければならない世界。本人の意思を尊重しなければならない世界。秩序が崩れることを恐れる世界。自由を奪われることに敏感な世界。過去に傷ついた経験から、同じことを繰り返したくない世界。

だから、信念対立は単純な意見の違いではない。意見の違いなら、条件を整理すれば何とかなることがある。A案かB案か。いつまでにするか。誰が担当するか。そういう問題なら、まだ調整の余地がある。

でも、その意見が、その人の生きている世界の足場と結びついていると、話は急に難しくなる。

相手の反論は、情報の違いではなく、自分の世界への否定として響く。こちらの説明も、相手には理解を助ける言葉ではなく、相手の足場を崩す言葉として聞こえることがある。そうなると、話せば話すほど、互いに防衛的になる。

これは、かなり厄介だ。しかも、多くの場合、当事者は自分が悪いことをしているとは思っていない。むしろ、正しいことをしていると思っている。相手のため、組織のため、家族のため、社会のため。そういう言葉を背負っているからこそ、譲れなくなる。

正しさは、人間を支える。けれど、正しさは人間を閉じ込めることもある。

分かり合えなさは、欠陥ではない

人はなぜ分かり合えないのか。

その問いに一言で答えるなら、人がそれぞれ異なる身体、欲望、関心をもって世界を生きているからだ。同じ出来事に触れても、そこに何が立ち上がるかは同じではない。言葉を交わしても、その言葉がどの経験に接続されるかは、人によって違う。

このことは、とても当たり前だ。でも、当たり前すぎて、よく忘れられる。

僕らは、つい自分が見ている世界を、相手も見ているはずだと思ってしまう。自分にとって明らかなことは、相手にとっても明らかなはずだと思う。自分が傷ついた言葉は、相手も当然わかっているはずだと思う。自分が大事にしているものは、説明しなくても伝わっているはずだと思う。

でも、そうではない。

人は、それぞれの世界からしか世界に触れられない。これは人間の欠陥というより、生きていることの基本設定に近い。身体が違う。経験が違う。置かれている立場が違う。何を失うと怖いのかも違う。そうである以上、完全に同じ世界を共有することはできない。

もちろん、だからといって、何も伝わらないわけではない。

分かり合えなさは、完全な断絶ではない。ここが難しいところだ。人は完全には分かり合えない。けれど、まったく分かり合えないわけでもない。状況や目的を整えることで、言葉を重ねることで、少し見えてくることがある。相手の沈黙を待つことで、ようやく聞こえてくるものがある。何年も経ってから、あのとき相手が守ろうとしていたものが、少しわかることもある。

だから、僕は「話せばわかる」をそのまま信じることはできない。けれど、「話しても無駄だ」と言い切ることもできない。

この中間に、人間のしんどさがある。同時に、希望のようなものもある。

社会は、分かり合える人たちでできているわけではない

社会は、分かり合える人たちが集まってできているわけではない。

むしろ、分かり合えない人たちが、それでも同じ場所、同じ制度、同じ時間、同じ資源を共有しなければならないところに、社会がある。家族もそうだ。職場もそうだ。大学も、医療や福祉の現場も、地域も、国家も、ぜんぶそうだ。

だから社会は、いつも少し無理を含んでいる。それぞれが違う世界を生きているのに、何らかの共通の決定をしなければならない。何らかのルールをつくらなければならない。誰かの自由と、別の誰かの安全がぶつかる。誰かの安心と、別の誰かの尊厳がぶつかる。どちらもそれなりに理由がある。だからこそ、簡単には片づかない。

ここで「みんな仲良くしましょう」と言っても、あまり効かない。「相手の立場に立ちましょう」だけでも足りない。

立場に立つという言葉はきれいだが、本当に他者の立場に立つことは、そう簡単ではない。相手の身体で生きることはできない。相手の記憶をそのまま持つこともできない。相手の不安や怒りや希望を、こちらの内側で完全に再現することもできない。

できるのは、せいぜい、自分が相手をわかったつもりになっていることに気づくことだ。

これは小さなことのようで、そうでもない。相手をわかったつもりになると、人はすぐに裁きはじめる。あの人はこういう人だ。だから、あんなことを言うのだ。だから、変わらないのだ。その瞬間、相手は一人の人間ではなく、こちらの理解の中に閉じ込められる。

分かり合えなさを基本設定として考えることは、相手を理解しなくてよいという話ではない。むしろ逆で、理解はいつも不完全であるという前提に立つことだ。そこからしか、他者を他者として扱うことは始まらないのではないか。

自由は、自分の世界が見えてくるところにある

分かり合えない世界で生きることは、孤独だ。

自分が見ているものを、誰も同じようには見てくれない。自分が大事にしているものを、相手は平気で軽く扱うことがある。こちらが傷ついたことを、相手は気づきもしない。逆もある。自分では何気なく言った言葉が、誰かの足場を崩していることもある。

この孤独をなくすことは、たぶんできない。

けれど、孤独をなくそうとしすぎると、かえって他者に過剰な期待をかけることになる。わかってほしい。わかるはずだ。わからないなら、相手が悪い。そう考えるほど、分かり合えなさは怒りに変わっていく。

では、どうすればよいのか。

ここで答えをきれいに出すと、急にノウハウになってしまう。だから、少し手前で止めておきたいのだが、少なくとも僕は、分かり合えなさを考えることは、自由の問題につながっていると思っている。

自由とは、ただ制約がないことではない。もちろん、制約が少ないほうがよい場面はたくさんある。制度に縛られないこと、役割に押しつぶされないこと、経済的に選択肢があること。そういう自由は現実に必要だ。

でも、それだけではない。

自分がどのような世界を当然だと思っているのか。何に反応し、何を恐れ、何を守ろうとしているのか。どの正しさに支えられ、どの正しさに閉じ込められているのか。そうした自分の前提が少し見えてくるとき、人は自分の世界との距離を、ほんの少し取れる。

その距離の中に、自由の手触りがあるのではないか。

分かり合えないことは、つらい。でも、分かり合えないからこそ、自分がどんな世界を生きているのかが見えてくることもある。

相手がわからない。そのとき、本当は自分の世界も、少しわからなくなっている。

きれいに分かり合える場所からではなく、互いに少しずつずれた世界を生きている場所から、人間も、社会も、自由も、見直していくしかないのだと思う。そして、その見直しは、たぶん一度では終わらないだろう。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学・教授。思想ノートでは、信念対立、作業療法、研究等を手がかりに、分かり合えない世界で人間・社会・自由についてどう考えるかを書いていきます。

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