信念対立

正しさが、人を傷つけるとき

京極真
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正しいことを言っているはずなのに、なぜか場が悪くなることがあります。

こちらとしては、間違ったことを言っているつもりはない。むしろ、相手のため、組織のため、患者さんのため、学生のため、家族のために言っている。だから、言わない方が不誠実だとすら感じている。

けれども、言葉を重ねるほど、相手の表情が固くなる。
こちらは説明しているつもりなのに、相手は責められているように受け取る。
相手が黙る。あるいは反発する。こちらも、だんだん苛立ってくる。

なぜ、正しいことを言っているのに伝わらないのか。

こういう場面は、たぶん誰にでもあります。

医療でも、教育でも、研究でも、組織運営でも、正しさは必要です。正しさを完全に手放してしまえば、何を判断の拠りどころにすればよいのかわからなくなる。誰かが傷ついているのに、「まあ、人それぞれだから」と言って済ませるわけにはいかないこともあります。

正しさは、人間や社会を支えるためにある。これは、たぶん間違っていない。

けれども、その正しさが、いつも人を救うとは限らない。

正しさは、ひとりで立っているわけではない

正しさという言葉には、どこか強い響きがあります。

正しい。間違っている。そう言い切ると、世界が二つに分かれたような感じがする。

正しい側と、間違っている側。
わかっている側と、わかっていない側。
成熟した側と、未熟な側。

しかし、正しさは、たいていの場合、それだけで宙に浮いて存在しているわけではない。何が正しいのかは、状況、目的、立場、関心などによってかなり変わりうる。

たとえば、人を殺してはいけないというのは、平時においては強い正しさです。ほとんど疑う余地がない。

しかし、戦争の中では、敵を殺すことが正しい行為として語られることがあります。もちろん、だから戦争がよいと言いたいわけではありません。むしろ逆です。人間の正しさは、状況によって、ここまで変わってしまう。

正しさは、単独であるのではなく、「どんな状況で」「誰にとって」「何のために」という問いと結びついている。その結びつきを忘れたとき、正しさはとても扱いにくいものになります。

正しさそのものが悪いのではない。けれども、文脈から切り離された正しさは、人を裁く道具になりやすい。

正しいまま、相手を追い詰める

信念対立を考えていると、気になることがあります。

それは、多くの対立が、単純に「正しい人」と「間違った人」の衝突ではない、ということです。むしろ、それぞれが自分なりの正しさを確信している。だからこそ、こじれる。

医療の現場であれば、ある人は「患者さんの自己決定を尊重すべきだ」と考える。別の人は「専門職として、危険な選択は止めるべきだ」と考える。どちらも、それなりに正しい。

教育の場でもそうです。ある人は「学生の主体性を尊重すべきだ」と考える。別の人は「未熟な段階では、厳しく指導しなければならない」と考える。これも、どちらか一方を簡単に悪者にできる話ではありません。

組織運営になると、さらにややこしい。自由に任せた方がよい場面もある。けれども、全体の秩序を守らなければならない場面もある。個人の事情に配慮すべき場面もあるし、公平性を保つために例外を認めにくい場面もある。多種多様な正しさが混じるぶん複雑になりやすい。

どれも背景の文脈によっては正しくなりえる。

正しさが一つしかなければ、話はまだ簡単です。間違いを修正すればよい。しかし、異なる正しさが衝突しているとき、こちらの正しさを強く語れば語るほど、相手には自分の生きている世界を否定されたように聞こえることがあります。

こちらは説明しているつもりでも、相手には攻撃として届く。そのとき、相手は反省せず、防衛する。黙るか、怒るか、表面上は従いながら内側で離れていく。

そして、こちらは思うわけです。なぜ、こんなに正しいことがわからないのか、と。

でも、そこで少し立ち止まらないといけないのかもしれません。自分が正しいと思っているその言葉は、相手のどこに届いているのか。相手の何を脅かしているのか。そこが見えないまま正しさを振るうと、人は正しいまま、相手を追い詰めます。

善意が悪意を生む。これは、かなり厄介です。

誰にとって、何のための正しさなのか

正しさを語るとき、私たちはたいてい、その正しさを支えている自分の関心を見落とします。

たとえば、「これは学生のためだ」と言うとき、本当に学生のためだけなのか。
そこには、教育者としての責任感があるかもしれない。大学としての質保証もあるでしょう。保護者や社会への説明責任もある。場合によっては、自分が無責任な教員だと思われたくない、という恐れも混ざっているかもしれない。

「患者さんのためだ」と言うときも同じです。患者さんの安全を守りたい。生活をよくしたい。苦痛を減らしたい。そこには確かに誠実な関心があります。けれども同時に、専門職として失敗したくない、責任を問われたくない、チーム内での立場を守りたい、という関心が混ざることもある。

人間は、そんなに透明ではありません。

もちろん、だからその正しさは偽物だ、という話ではないです。むしろ、人間の正しさは、いつも複数の関心を含んでいる。善意、責任、不安、恐れ、面子、役割、経験、過去の傷つき。いろいろなものが混ざりあって、「これが正しい」と感じられている。

その混ざりあいを見ないまま、正しさだけを前面に出すと、話がだんだんおかしくなっていきます。

私は正しい。相手はわかっていない。だから、相手を変えなければならない。こうなると、正しさは人を助けるためのものではなく、相手をこちら側の都合で支配するための力になります。

たぶん、ここで信念対立が深くなる。何を守ろうとしているのか。何を失うことを怖れているのか。どの立場から世界を見ているのか。そうしたものが絡みあって、互いの正しさがぶつかる。

だから、相手の意見だけを論破しても、あまり解決しないことがあります。相手は意見を守っているだけではない。その背後にある自分の世界を守っているからです。

正しさを捨てればよい、という話ではない

ただ、ここで話を簡単にしてはいけないと思います。

正しさは人を傷つけることがある。だから、正しさを語らない方がよい。相手を不快にしないために、言うべきことも飲み込んだ方がよい。

そういう話ではありません。それはそれで、別の誰かを傷つけることがあります。

誹謗中傷を見て見ぬふりをする。暴力を「その人の考え方」として放置する。明らかに危険な判断を、相手の自由だからといって止めない。これは、優しさに見えて、無責任になることがある。

正しさは必要です。言わなければならないこともある。止めなければならないこともある。相手にとって不快でも、伝えなければならないこともある。

教育でも、医療でも、研究でも、組織でも、正しさを相対化しすぎると、何でもありになります。何でもありになった世界では、力がすべてになりがちで、たいてい弱い人から傷ついていく。

だから、問題は「正しさを持つか、持たないか」ではない。たぶん、問うべきなのは、その正しさが何と結びついているのかです。

誰にとっての正しさなのか。
何を守るための正しさなのか。
どの状況で成り立つ正しさなのか。
その正しさによって、誰が助かり、誰が傷つくのか。
そして、その正しさの背後で、自分は何を恐れているのか。

こういう問いを挟むだけで、正しさは少し扱いやすくなる気がします。硬い正しさは、ぶつかる。扱える正しさは、考える余地を残す。その違いは小さいようで、わりと大きいのではないか、と私は思う。

正しいと思うときほど、世界は狭くなる

自分が正しいと思っているとき、人は不思議なほど自分の見え方を疑えなくなります。

私は見えている。相手は見えていない。だから、相手に教えなければならない。

そんな構図が、いつの間にかできあがる。

でも、実際には、自分にも見えていないものがあります。相手の立場に置かれたときの恐れ。相手が背負っている責任。相手が過去に何を経験してきたか。相手がいま何を守ろうとしているのか。もちろん、相手のすべてを理解することはできないですが。

それでも、自分の正しさがどこから来ているのかを少し見直すことはできる。自分は何を守ろうとして、こんなに強く正しさを語っているのか。相手に何をわからせたいのか。相手が変わらないとき、自分は何を失うように感じているのか。

そう考えると、正しさの中に、自分の不安が混ざっていることがあります。これは、あまり気分のよい発見ではありませんが、そこが見えないまま正しさを語り続けるよりは、少しだけましなのではないかと思います。

正しさは、人間や社会を支えるために必要です。でも、正しさは、人間から切り離されると危ない。

誰にとって、何のための正しさなのか。
どんな状況で成り立つ正しさなのか。
その正しさを語る私は、何を守ろうとしているのか。

たぶん、正しさを捨てる必要はありませんが、誰のため、何のための正しさなのかをよく振り返って考える必要はある。
それは、誰かを支えようとしているのか。
それとも、知らないうちに誰かを傷つけているのか。

この違いは、外からは案外わかりにくい。

だからこそ、自分が正しいと思っているときほど、少し怖いのです。

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著者紹介
京極 真
京極 真
Ph.D.、OT
1976年大阪府生まれ。作業療法士、博士(作業療法学)。Thriver Project代表。首都大学東京大学院人間健康科学研究科博士後期課程修了。吉備国際大学ならびに同大学大学院教授。人間科学部長、保健科学研究科長。作業療法、信念対立、現象学、構造構成主義、研究方法論、アカデミックライティングを主な関心領域とする。『この一冊でわかる!セラピストのための研究論文の書き方ガイド』『医療関係者のための信念対立解明アプローチ』『OCP・OFP・OBPで学ぶ作業療法実践の教科書』『作業で創るエビデンス』など著書・論文多数。
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