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正しさが、人を傷つけるとき

2026.07.03
人間を考える

自分が正しいと思っているときほど、ちょっと怪しい。

いきなりこんなことを言うと、「じゃあ、正しいことを言ったらダメなの?」と思う人がいるかもしれない。

もちろん、そういう話ではない。

間違っていることを間違っていると言わなければならないときもあるし、危ないことを止めなければならないときもある。

ぼくが言いたいのは、そういうことではない。

絶対に間違っているとか、絶対に正しいとか、そういう考え方はいったん脇において、間違いも正しいも立場によって変わるよね、という感度を基底にした方がよい。

だって、自分にとって正しく感じることと、相手にとって正しく感じることが同じだとは限らないからである。

ここをごっちゃにすると、人は正しいまま他人を傷つけることがある。

正しいか、間違っているかは、そんな簡単な話ではない

ぼくらは、「正しい/間違っている」と言われると、どちらか一方を選びたくなる。

でも、ぼくらの思考には、AとBどっち?と問われたら、どちらか一方を選んでしまうクセがある。

選択肢を提示されると、どれか選ばなきゃいけない、という信憑にとり憑かれがちなのだ。

正しいか、間違っているかも同じである。

けども、原理的に考える限りにおいて、考え方が間違っているかどうかは、その人の関心や置かれている状況によって規定される。

自分にとって正しいことが、別の状況でも正しいとは限らない。

自分の目的にとって役立つことが、相手の目的にとって役立つとも限らない。

なので、「自分は正しい。相手が間違っている」で秒速で片づけない方がよい。

正しいと思ったら、目的と状況をアンカーにして考える。

誰にとって。

何のために。

どんな状況で。

ひとまず、そこまで考えた方がよい。

## そもそも、生きている世界が違う

人間関係が難しい理由は、ちょー簡単に言えば、生きている世界が違うからである。

あらゆる人間は固有の世界観の中で生きている。

ぼくはぼくの世界観を通してでしか他者と関われないし、他者もまたその人の世界観を通してでしかぼくと関われない。

これはもうひっくり返しようのない話である。

「生きている世界観が違う→思考、感情、行動が違う」ということだ。

だから、同じ出来事でも考え方は違う。

感じ方も違う。

当然、何を正しいと思うのかも違ってくる。

世界観が人それぞれ異なるということは、絶対に正しい世界観はない。

あるのは、その時々で確からしい世界観だけであり、それも時と場合によっては確かなものではなくなる。

だったら、自分にとって正しく感じるからといって、それを他者に押しつける理由はない。

世界観の押しつけはやめた方がよい。

ここはわりと大事である。

「〜すべき」が混ざると、正しさはしんどくなる

正しさが人を傷つけはじめるとき、「〜するべき」「〜しなければならない」が混ざっていることがある。

「学生ならこれぐらいするべきだ」

「部下なら指示に従うべきだ」

「専門家ならこう判断しなければならない」

「親ならこうするべきだ」

「普通ならこれぐらいわかるべきだ」

こんな感じである。

ぼくは以前、「〜するべき」「〜しなければいけない」という思い込みは、しんどさの増幅装置のようなものだと書いた。

自分の生き方の可能性を狭めて、いろんな苦悩をもたらすからである。

これを他人に向けると、他人の可能性まで狭めることがある。

しかも、正しさがくっつくと厄介である。

「ぼくがそうしてほしい」ではない。

「これが正しいのだから、あなたはそうするべきだ」になる。

すると、相手が違う選択をすると、「間違った人」に見えてくる。

ここからややこしくなる。

強い立場にいる人ほど、正しさには気をつけた方がよい

正しさは、強い立場にある人が使うとさらに強くなる。

ぼくは以前、強者の立場にある人ほど柔軟さが大事だと書いた。

「〜するべき」「〜しなければならない」という思い込みは、上から統制を取りやすくするという意味では便利なツールである。

けども、強者の立場にある人に思い込みが強いと、チームとしての機能を低下させる。

部下のミスに厳しくなりすぎる。

寛容さがなくなる。

相手の話に耳を傾けられなくなる。

コミュニケーションエラーが起こる。

空回りな指導になる。

相手から得られるはずだった情報まで逃す。

これ、正しさでも同じである。

立場が強い人が「これが正しい」と言ったら、相手は簡単には反論できない。

表面上は「はい」と言うかもしれない。

けど、それで納得しているとは限らない。

実質的な選択の自由がない状態はまじ辛い。

しかも、本人は「正しいことを教えてあげている」と思っているかもしれない。

自分の思い通りに相手を動かしていることと、正しいことを伝えていることの境界が怪しくなってくる。

ここまでくると、怪しさマックスである。

「あなたのため」が、大きなお世話になることもある

正しさは善意とも相性がよい。

「あなたのためを思って言っている」

これもわりとある。

もちろん、本当に相手のことを考えている場合は多い。

善意そのものを否定する必要なんてない。

けども、ぼくは以前、求められてもいないのに助言したり、「こうするべきだ」と提案したりするのは、基本的に他人の人生に首をつっこむことになると書いた。

本人が求めているか、求めていないかというのは大きな違いである。

求められた助言は、自分の人生を変えるきっかけになるほど貴重なものになることがある。

他方、求めてもいないのに「ああしろ」「こうしろ」と言われ続けたら、そりゃしんどい。

親切心でやっていたことでも、相手にとってやってもらいたくないことなら潔くやめた方がよい。

正しいかどうかだけではなく、相手との関係、役割、目的、状況も見る必要がある。

そうしないと、親切心がいつの間にか支配に変わる。

巧妙に選択肢を絞って、相手の行動を制御し、思い通りにならないと怒る。

そこまでいったら、もはや「あなたのため」という言葉は眉に唾つけて聞いた方がよい。

だからといって、正しさを捨てればよいわけではない

ここまで書くと、「じゃあ正しいことなんて言わない方がよい」と思う人がいるかもしれない。

それも違う。

それも程度問題である。

絶対に正しいとか、絶対に間違っているとかいう考えはいったん脇に置いた方がよい、と書くと、無責任な印象を受けるかもしれない。

けど、そうではない。

何でも「人それぞれだから」でスルーすればよいわけではない。

危険なことを止める必要がある場合もある。

契約上、指導や助言をしなければならないこともある。

相手から助言を求められていることもある。

問題を放置すれば、もっと誰かが傷つくことだってある。

なので、「正しさを言う/言わない」の二択ではない。

目的と状況を見定めればよい。

正しさもツールとして扱えばよいのである。

この状況で、何を達成したいのか。

ここで正しさを押し出すと、何が起こるのか。

相手の話を聞いた方がよいのか。

今すぐ止めなければならないのか。

少し時間をおいた方がよいのか。

こんな感じで、その都度考えればよい。

自分が正しいと思ったときこそ、自分にも疑いを向ける

そして、これはぼく自身にも当てはまる。

ここは重要である。

「あの人は正しさを押しつけている」と他人を批判しながら、自分が「正しさを押しつける人は間違っている」という正しさを振り回したら、同じことをしている。

人間ってほんとうにややこしいですね。

ぼくはぼくの世界観を通してでしか他者と関われない。

だったら、自分ではよく見えているつもりでも、本当は見えていないかもしれない。

自分では相手のためだと思っていても、自分の都合が混ざっているかもしれない。

自分では説明しているだけでも、相手には支配されているように感じられているかもしれない。

なので、自分が正しいと思ったときほど、ちょっとだけ自らの可能性を疑った方がよい。

ほんまかいな、と。

自分は何を正しいと思っているのか。

それは誰にとって正しいのか。

何のためなのか。

どんな状況で成立しているのか。

自分の世界観を押しつけていないか。

相手の選択肢を必要以上に狭めていないか。

そんなふうに考える。

正しさを捨てる必要はないが、正しさに支配される必要もない。

目的と状況をアンカーにして、正しさを使えばよい。

ぼくは、それぐらいでよいと思っている。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学教授。思想ノートでは身近な違和感の奥にある前提を問い直し、分かり合えない世界で人間・社会・自由について考えている。

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