分かり合えない人とは、分かり合えないままでよい。
いきなりこんなことを言うと、「それでは人間関係が成り立たないでしょう」と思う人がいるかもしれない。
それは、もちろんそうである。
話しあう必要があるときは話しあえばよい。意味がずれているなら確認すればよい。仕事なら、必要なところはちゃんとすりあわせた方がよい。
ぼくが言いたいのは、そういうことではない。
「わかりあえる」を前提にすると、「わかりあえない」ときに消耗する。
だったら最初から、「わかりあえない」という前提のもとで、だましだましやりとりした方がよいのではないか、という話である。
そもそも、生きている世界が違う
人間関係が難しい理由は、ちょー簡単に言えば、生きている世界が違うからである。
あらゆる人間は固有の世界観の中で生きている。
ぼくはぼくの世界観を通してでしか他者と関われないし、相手もまた、その人の世界観を通してでしかぼくと関われない。
これはもうひっくり返しようがない。
「生きている世界観が違う→思考、感情、行動が違う」ということである。
だから、同じことを見ても考えが違う。
同じ言葉を聞いても受け取り方が違う。
同じ出来事が起こっても、「たいしたことない」と思う人もいれば、「ありえない」と思う人もいる。
人は意見が違う中で生きている。
もちろん、時間をかけて話せば近づくことはある。
意味のズレが見つかって、「あぁ、そういう意味だったのね」となることもある。
けども、世界観が圧倒的に異なると、時空をともにしていてもぜんぜん違う次元で存在しているようなことになる。
話しても、話しても、わかりあえない。
そんなことは普通にある。
なので、「ちゃんと話せばわかるはずだ」という前提は、眉に唾つけた方がよい。
ちゃんと話してもわからん人は、わからんのである。
人間ってほんとうにややこしいですね。
まず、意味のズレならすりあわせればよい
とはいえ、話が通じないからといって、秒速で「この人とは分かり合えない」と決める必要もない。
単に意味がずれているだけかもしれないからである。
ぼくの経験上、話が通じない、、、と感じる人は、こちらが想定していなかったような意味で受け取っていたりする。
だったら、「どういう意味で受け取りました?」と確認したらよい。
こちらも相手の言葉を違う意味で受け取っているかもしれない。
意味のズレがわかれば、互いに理解を確認しながらすりあわせていけばよい。
これはそんなに難しい話ではない。
ただ、すりあわせてもどうにもならない場合がある。
何回説明しても、話が元に戻る。
こちらが当然だと思っていることが、相手にはまったく通じない。
反対に、相手が当たり前だと思っていることが、こちらには意味不明である。
そういう場合、世界観が根本的に異なっている可能性がある。
ここでさらに「いや、ちゃんと理解しなければ」と頑張りすぎると、まともな方から消耗することがある。
だから、
「理解はできないけども、そういう人もいるのね、、、」
でよい。
理解不能だけども、そういうことする人もいるんやなぁ、、、と思うだけでよい。
何でも理解しなければならないわけではない。
「わかりあえる」を前提にすると消耗する
ぼくは以前から、「わかりあえる」を前提にすると消耗すると書いてきた。
理由は簡単である。
わかりあえるはずだと思っているから、わかりあえないときに問題になるのだ。
「なんでわからないの?」
「これだけ説明したのに」
「普通わかるでしょう」
「どうしたらわかってくれるんだろう」
となる。
はぁしんど、である。
でも、最初から世界観はそれぞれ違うと思っていれば、
「あぁ。あなたはそう思ったのね」
ぐらいでさらっと流せることも増える。
もちろん、仕事などで必要なことまで流したらダメである。
それも程度問題だ。
状況と目的を見たらよい。
ここは一致していないと仕事にならない。
ここは違っていても別に困らない。
ここは最低限すりあわせる。
ここから先は放っておく。
そんなふうに分ければよい。
全部わかりあう必要なんてない。
必要なところが通じれば、それで回る関係もある。
むしろ現実には、そんな関係の方が多いのではないかと思う。
人間関係は、近すぎても遠すぎても面倒である
分かり合えない人と付きあうときは、距離も大事である。
ぼくは支配的な人への対処について書いたときに、近すぎると当然しんどいし、遠すぎると大事な仕事ができないので困る、と書いた。
だから、適度に距離をとる。
これでよい。
人間関係がうまくいかないと、「もっとちゃんと話した方がいいのではないか」と思うことがある。
でも、近づけば近づくほど悪化する関係もある。
反対に、「もう関わりたくない」と完全に切ろうとしても、仕事、家族、地域などでは切れないこともある。
だったら、ほどほどに付きあえばよい。
良いときも悪いときも、適当な距離を保つ。
必要な話はする。
必要のない話はしない。
相手が近づきすぎてきたら、少し離れる。
相手が不機嫌だからといって、こちらまで相手のパターンに乗らない。
適当にいつも通りに付きあう。
こういう曖昧なやり方は、なんとなく不誠実に見えるかもしれない。
けども、人間関係なんてそんなものである。
何でも本音で話しあって、全部理解しあって、きれいに解決する。
そんなことばかりできるわけがない。
相手の問題まで、自分で背負わなくてよい
分かり合えない相手がいると、「どうしたら相手を変えられるだろう」と考えはじめることがある。
これもやめた方がよい。
人間関係がうまくいかないときほど、自分と他人の課題を明確に分けた方がよいからである。
例えば、気難しい人を前にして、
「怒られたら嫌だなぁ」
と思ったとする。
けど、怒るかどうかは相手の問題であって、自分でコントロールできる話ではない。
こちらができることは、自分の言い方を考えるとか、必要な情報を伝えるとか、距離を調整するとか、そのぐらいである。
相手がどう受け取るか。
相手が納得するか。
相手が機嫌を悪くするか。
そこまで全部自分で何とかしようとすると、しんどい。
他人の人生に首をつっこみすぎることにもなる。
自分の人生は自分で責任を持つしかない。
相手の人生は相手のものである。
だったら、自分が引き受ける範囲でやればよい。
その方が話はシンプルである。
すべての対立を解決しなくてもよい
ぼくは信念対立という問題を長く考えてきた。
だから、対立が起こったら、何がぶつかっているのかを解明することは大切だと思っている。
目的は何か。
状況はどうなっているのか。
何を大事にしているのか。
そこを整理すると、対立がほどけることはある。
けども、これだってすべての対立でやる必要はない。
なんでも深掘りすればよいわけではない。
そもそも大した問題ではないなら、放っておけばよい。
「あぁ。あなたはそう思うのね」で終わってよい。
人それぞれ世界観が違うのだから、大なり小なり意見が違うのは当たり前である。
意見の食い違いを全部「対立だ!」と受け取っていたら、人生ずっと揉め続けることになる。
それはしんどい。
だから、解明する必要がある対立は解明する。
すりあわせれば済むものはすりあわせる。
どうでもよいものはさらっと流す。
関わらなくてよいなら距離をとる。
離れられないなら、適当な距離で付きあう。
理解不能なら、「そういう人もいるんやなぁ」で終える。
こんな感じでよい。
だましだましで、いいではないか
「だましだまし生きる」というと、なんとなく格好が悪い。
もっとちゃんと向きあった方がよい。
もっと深く理解しあった方がよい。
もっと本音で話しあった方がよい。
そんなふうに思う人もいるだろう。
もちろん、それでうまくいくならそうすればよい。
けども、それでしんどくなっているなら、やり方を変えた方がよい。
わかりあえない人とは、わかりあえない。
それでも、必要なところだけ話すことはできる。
全部納得できなくても、一緒に仕事することはできる。
相手を理解できなくても、「そういう人もいる」と承認することはできる。
近づきすぎず、遠ざかりすぎず、ほどほどに付きあうこともできる。
つまり、分かり合えないことと、関係を続けられないことは同じではない。
「わかりあえる」を前提にすると消耗する。
だったら、「わかりあえない」を前提にして、だましだましやりとりすればよい。
それでどうにもならなくなったら、そのとき距離をもっととればよい。
それでも無理なら、離れることも考えればよい。
人間関係はときと場合によりけりである。
泣いても笑っても、自分の人生である。
分かり合えない人を分からせることに時間を使いすぎず、自分の人生に集中した方がよい。
まぁ、そのぐらい適当でいいのではないかと思う。