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競争から降りることはできるか

2026.08.15
社会を考える

ぼくらが生きている社会は競争社会である。

学校に行けば成績を比べるし、仕事をすれば成果を比べる。

会社は他社と競争するし、個人も収入、肩書き、実績などで比較される。

SNSを開けば、誰がどんな生活をしているのかまで見える。

なので、競争なんてしたくないと思っても、完全に競争から離れて生きるのはなかなか難しい。

では、競争社会は悪いのか。

これもそんなに単純な話ではない。

競争にはメリットもあれば、デメリットもあるからである。

競争社会は全然悪いことではない

競争社会そのものは全然悪いことではない。

歴史的にみれば、生まれや身分によって生き方がほぼ決まる社会から、各自が経済活動に参加し、自分で利益を追求できる方向へ社会は変わってきた。

つまり、少なくとも理念上は、誰にでもチャンスが開かれている。

頑張って成果を出したら、それによって自分の可能性を広げることができる。

競争があるから、より良い商品やサービスを作ろうとするし、新しい技術も生まれる。

昨日より今日、今日より明日と改善する動機にもなる。

なので、競争を全部なくしてしまえばよいという話にはならない。

競争には、ぼくらの自由を広げる働きがあるからである。

けども、競争は人生をハードゲームにもする

他方、競争社会にはしんどい面もある。

競争すると、当然ながら差がつく。

勝つ人もいれば、負ける人もいる。

うまくいった人には、お金、評価、機会などが集まりやすくなる。

すると、それを使ってさらに有利にゲームを進めることができる。

逆に、いったん不利な側に回ると、そこから挽回するのが難しくなることもある。

特に日本はいったん転げ落ちると挽回がめっちゃ難しい。

つまり、競争社会はスタート地点では誰でも参加できるように見えても、ゲームを続けているうちに条件がどんどん変わってくる。

ここがなかなかややこしいところでして、勝っている人にとっては、競争社会はわりと良い社会であるものの、負けた側から見える世界はまったく違うのだ。

勝者は頑張って成果が出たらうれしいし、評価されて、収入も増えるだろう。

なので、「努力すれば報われる。みんなもっと頑張ればいい」と思いやすい。

けども、敗者は頑張っても成果が出ないし、収入も増えないし、将来も不安である。

そういう状態で「努力が足りない」と言われたら、そりゃしんどいに決まっている。

競争の結果をすべて本人の努力に還元すると、勝った側は優越感に浸り、負けた側は自分を責めるか、勝った人を恨むことになる。

これではお互いに首を絞めあうだけである。

資本主義というゲームから完全に降りるのは難しい

ぼくは昔から、資本主義を一種のゲームとして考えている。

ゲームと言っても、ぼくらが好むと好まざるとにかかわらず、そのルールの中で生活しているという意味である。

生活するにはお金がいるし、お金を得るために多くの人は自分の労働力を売る。

会社も利益を出さないと続かない。

ぼくらが「競争なんて嫌だ」と思ったところで、この仕組みがいきなり消えるわけではない。

だから、競争社会が嫌なら全部降りればいい、というのも現実には無理ゲーである。

山奥で完全自給自足でもしないかぎり、何らかのかたちで市場や他人の経済活動とかかわることになるからだ。

だったら、まずゲームのルールを理解した方がよい。

ルールを知らずにゲームに参加すると、知らないうちにしんどいところへ追い込まれるからである。

競争相手を他人だけにするとしんどい

競争社会で生きるときに、他人ばかり見ているとしんどくなる。

「あの人の方が収入が多い」「あの人の方が評価されている」「あの人は自分より若いのに成功している」「あの人の方が論文を書いている」などなど、こんなのを延々とやっていたらキリがない。

特に最近はSNSで実生活の良いところを切り取ってアピールする人が増えているので、余計にしんどい。

世の中には、自分よりすごい人なんていくらでもいるし、上を見ればほとんど際限がない。

逆に、自分よりうまくいっていない人を見つけて安心するようになっても、しょうもない。

そんなことしたって、何にもならないからだ。

なので、競争するなら基本的には競争相手を自分にした方がよい、とぼくは思っている。

昨日の自分より、今日はちょっとよくできた。

去年できなかったことが、今年はできるようになった。

それぐらいでOKである。

他人に勝ったところで、さらに強い人が出てきたら終わりである。

けど、自分が少しずつできることを増やしていけば、その成果は基本的には自分に残る。

他人との競争を完全になくすことはできなくても、自分からわざわざ競争を増やす必要はないのである。

自己研鑽は、競争に勝つためだけにやるものではない

以前のぼくは、資本主義というゲームを攻略したければ自己研鑽に努めるべし、とかなり強く思っていた。

この考え方はいまも基本的には変わっていない。

けども、自己研鑽の意味は「他人に勝つため」と考えない方がよいと思う。

大切なのは、自分の選択肢を増やすことである。

一つの会社でしか使えない能力しかなければ、その会社がしんどくなっても逃げにくい。

一つの仕事しかできなければ、その仕事がなくなったときに困る。

収入源が一つしかなければ、それが途絶えたときに一気に苦しくなる。

逆に、いくつかできることがあれば話は変わる。

いまの職場がダメなら別の職場に行けばいい。

別の仕事をしたり、自分で仕事を作ることもできるだろう。

場合によっては、働く量を減らすのもよいかもしれない。

できることがいくつかあれば、そういうことができるようになる。

自己研鑽は、自分自身を鍛え抜いて競争に勝つためだけのものではない。

競争しなくても生きていける余地を少しずつ増やす営みでもある。

この違いはわりと重要である。

不安があるなら選択肢を増やす

仕事の現在や将来が不安だという人は多い。

「収入は大丈夫なのか」「いまの会社で働き続けられるのか」「人間関係はうまくいくのか」「老後はどうなるのか」などなど、先行き不透明な時代だから考えだしたらキリがない。

こういう不安に対して、「不安にならないようにしましょう」と言ってもどうしようもない。

不安になる条件があるんだから、そりゃ不安になる。

だったら、個人でできることは選択肢を増やすことである。

今の仕事を続けるのもよしだし、別の仕事に移るのもありだ。

専門性を高めたり、違う技能を身につけるのも有効だろう。

自分で小さく仕事を作ったり、資産を作ることもやったらいい。

選択肢が一つしかなければ、その一つにしがみつくしかないが、選択肢が複数あれば、一つがダメになっても別の道へ動ける。

何すればいいか分からない人は、とにかく何でもよいので選択肢を増やす試行錯誤の回数を増やそう。

不安を完全になくすことはできないけど、「これしかない」という状態から抜けることはできるかもしれない。

これは競争社会を生きるうえで、けっこう大切だと思う。

では、競争から降りることはできるのか

では、競争から降りることはできるのか。

ぼくらは競争を含んだ社会の中で生きているから、自給自足でもしない限り完全に降りるのは難しい。

けども、すべての競争に参加する必要はない。

収入を増やしたいならそのための競争に参加すればよいし、専門家として高いレベルに行きたいなら努力すればよいと思う。

自分で事業をしたいなら、市場の中で競争するしかない。

それを面白いと思う人は、とことんやればよい。

他方、そこまで勝ちたいと思わないなら、無理に勝負しなくてもよい。

「ほどほどの仕事でよい」「ほどほどの収入でよい」「他人より良い家に住む必要もない」「肩書きもいらない」などなど、昨日より少し自分の選択肢が増えていれば、それで十分だという生き方もあると思う。

結局、問題なのは競争そのものではない。

競争することが、いつの間にか人生の目的になることである。

「他人に勝つために働く」「他人に負けないためにお金を使う」「他人より評価されるために努力する」などいろいろあるが、それを本人が楽しいと思っているなら何も問題ない。

けども、しんどいのに競争から降りられないなら、「何のために、この競争に参加しているのか」とか「その競争に勝ったら、自分は本当に心楽しく生きられるのか」「そもそも、この勝負は自分にとって必要なのか」などといったことを、一度落ちついてしっかり考え直した方がよいだろう。

そのうえで、やっぱり必要だと思うならやればよいし、必要ないと思うなら降りればよいと思う。

社会全体の競争から完全に逃れることは難しいけど、自分が参加する競争はある程度選べるんだから。

他人ではなく自分をライバルにして、できることを少しずつ増やし、いつでも別の道へ動けるようにしておく。

そうやって競争を利用しながら、競争に人生を支配されないようにする。

競争社会では、それぐらいの距離感がちょうどよいのではないかと思っている。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学教授。思想ノートでは身近な違和感の奥にある前提を問い直し、分かり合えない世界で人間・社会・自由について考えている。

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