誰にも迷惑をかけずに生きるなんて、たぶん無理である。
いきなりこんなことを書くと、「じゃあ、人に迷惑をかけてもいいのか」と思う人がいるかもしれない。
それは、もちろん違う。
自分でできることは自分でやればよいし、面倒なことを人に押しつけて自分だけ楽をするのはダメである。何かあるたびに「誰かが何とかしてくれるだろう」と思って生きるのも、ぼくはあまりよいとは思わない。
ぼくが言いたいのは、そういうことではない。
「人に迷惑をかけない」という考え方を大切にしすぎると、場合によっては自分の自由まで狭くしてしまうのではないか、という話である。
自立している人も、わりと人に頼っている
ぼくらは「自立」という言葉を、わりと簡単に使う。
自分で働いて、自分のお金で生活して、家事もして、困ったことがあっても自分で何とかする。
そういう人を見ると、「あの人は自立している」と思う。
もちろん、それでよい。
けども、よくよく考えると、自立している人もめちゃくちゃ人に頼っている。
朝起きて水道を使う。電気を使う。コンビニで飯を買う。電車に乗る。Amazonで何か注文する。病気になったら病院に行く。
全部、自分以外の誰かが働いてくれているからできることである。
「いやいや、お金を払っているから人に頼っているわけではない」と思うかもしれない。
でも、お金を払って人に頼っているだけである。
家族にご飯を作ってもらうと「依存している」と言われることがあるのに、店でご飯を作ってもらうと急に「自立している」ことになる。
なんだか変な話である。
ちょー簡単に言えば、頼り方が違うだけなのだ。
目の前にいる人に直接お願いしているのか、お金を通してお願いしているのか、制度を使ってお願いしているのか。その違いはあるけども、誰かの働きに支えられていること自体はほぼ同じである。
なので、「誰にも頼らずに生きる」というのは、そもそも無理な話なのだと思う。
誰にも頼らないと、自分に全部がかかってくる
とはいえ、人に頼らない方が気楽なことはある。
これは間違いない。
人に何か頼むと、断られるかもしれない。恩を着せられるかもしれない。頼んでもいないことまで口を出されることもある。
家族なんだから。
夫婦なんだから。
同僚なんだから。
そんな感じで、助けてもらったことを理由に別のことまで要求される場合もある。
こんなのはしんどい。
だから、自分で何とかできるなら、自分で何とかする。
その方が自由なこともある。
けど、それも程度問題である。
何でも自分でやるということは、言い方をかえると、自分一人にいろんなことを背負わせるということでもある。
自分が元気なうちはそれでいい。
働ける。考えられる。動ける。金も稼げる。
問題は、自分が弱ったときである。
人間なので、病気になることはある。どうにもやる気が出ないこともある。仕事で失敗することもあるし、年をとれば今まで普通にできていたことができなくなることもある。
そんなときまで「人に迷惑をかけてはいけない」と思っていたら、どうなるか。
休めばいいのに休まない。
助けを求めればいいのに求めない。
もう一人でどうにもならないのに、まだ自分で何とかしようとする。
「人に迷惑をかけてはいけない」という考え方が、しんどさの増幅装置になってしまうわけである。
これでは何のために自立しているのかわからない。
人に支配されたくないから自分でやっていたのに、今度は「自分は弱ってはいけない」という思い込みに支配される。
人間ってほんとうにややこしい。
では、人に頼ればいいのか
ここまで読むと、「じゃあ、困ったらどんどん人に頼ればいいんですね」と思う人がいるかもしれない。
けど、そんなに単純な話でもない。
人に頼ることによって、かえって不自由になることもあるからである。
たとえば、生活のすべてを一人の人に頼っていたら、その人との関係が悪くなったときに困る。
親に生活費のほとんどを出してもらっているなら、親の言うことを無視しにくいかもしれない。会社だけに生活を預けていれば、辞めたいと思っても簡単には辞められない。
だから、人に頼らない方が自由な場合も確かにある。
でも、だからといって全部自分でやると、今度は自分が壊れたら終わりである。
結局、どっちも極端だとしんどい。
なので、ぼくは依存するか、自立するか、みたいに二択で考えない方がよいと思っている。
家族に頼ることもある。
友人に頼ることもある。
お金を払って誰かの力を借りることもある。
制度を使うこともある。
もちろん、自分でやることだってある。
そのときの目的や状況にあわせて、頼り方を変えればよい。
ひとまず、それぐらいに考えておけばいいのではないか。
支える側だって自由である
ただし、ここで忘れたらダメなことがある。
頼る側に自由があるように、頼られる側にも自由があるということである。
「家族なんだから助けるべきだ」
「親なんだから我慢するべきだ」
「同僚なんだからフォローするのが当たり前だ」
こんな感じで言いはじめると、今度は支える側がしんどくなる。
以前からぼくは、「〜するべき」「〜しなければならない」という考え方は、使い方によっては他人を支配するための便利なツールになると思っている。
支え合いだって同じである。
「お互いさま」という言葉は素敵だけども、それを使って誰か一人に負担を押しつけたら意味がない。
今日は無理。
それはできない。
そこまでは引き受けられない。
そう言えることも大事である。
頼る側だけが自由で、頼られる側には断る自由がないなら、それはたぶん支え合いではない。
単なる押しつけである。
もちろん、何でも簡単に断ればよいという話でもない。
病気の子どもを前にして「ぼくにも断る自由がある」と言って親がどこかに行ったら、そりゃダメである。
関係性が非対称な場合もあるし、その人が引き受けるしかない責任もある。
だから、こういう話は結局、ときと場合によりけりなのだ。
そこを飛ばして「人に頼ってよい」「嫌なら断ればよい」とだけ言うと、別の問題が生じる。
迷惑をかけたり、かけられたりしながら生きる
人はそれぞれ固有の生を生きている。
自分には自分の事情があり、他人には他人の事情がある。
なので、他人に不可逆的な迷惑を押しつけない限りは、それぞれがもう少し自由にやればよいとぼくは思っている。
困ったときは頼る。
余裕があれば助ける。
無理なら断る。
うまくいかなければ、別の方法を探す。
それでよい。
人と一緒に生きていたら、多少は迷惑をかける。
逆に、迷惑をかけられることもある。
まぁ、それはしょうがない。
誰にも迷惑をかけない人生を目指したところで、そんなものはたぶん実現できない。それよりも、迷惑をかけたら感謝するとか、負担が偏っていたら調整するとか、無理になったら別の人や制度に頼るとか、その都度やりようを考えた方がよい。
自由とは、誰にも頼らないことではない。
かといって、好き勝手に人へ頼ることでもない。
自分も他人も、それぞれ生きたいように生きたい存在である。
そのことを認めたうえで、頼ったり、離れたり、また別のところに頼ったりしながら生きていく。
ぼくたちにできるのは、たぶんそのぐらいである。
それで十分ではないかと思う。