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好きなことを探しているうちに、動けなくなる

2026.07.19
自由を考える

好きなことなんて、最初からわからなくてもよい。

いきなりこんなことを書くと、「いやいや、自分が何を好きなのかわからないと、仕事も人生も選べないじゃないか」と思う人がいるかもしれない。

確かに、それはその通りである。

やりたいことがハッキリしているなら、それに向かって進めばよい。自分が好きなことを仕事にできて、しかもそれで生活できるなら、かなり幸運だと思う。

ぼくも「好きなことをして生きる」という考えそのものを否定したいわけではない。

けども、「まず本当に好きなことを見つけなければならない」と思いはじめると、話がおかしくなる。

何が好きなのか。

本当にやりたいことは何なのか。

一生続けても後悔しないことは何なのか。

そんなことを延々と考えているうちに、何もできなくなる。

自由に生きるために好きなことを探していたはずなのに、「好きなことを見つけなければならない」という思い込みによって、自分で自分を動けなくしてしまうわけである。

人間ってほんとうにややこしい。

好きなことを先に確定するなんて、わりと無理である

そもそも、まだやってもいないことを「これは自分が本当に好きなことなのか」と考えても、よくわからない。

当たり前である。

経験していないからだ。

例えば、研究に興味がある人がいたとする。

研究は面白そうだ。

自分に向いているかもしれない。

でも、実際に研究をやると、論文を山ほど読まなければならないし、データは思い通りにならないし、査読でボコボコにされることもある。

そこで「やっぱり研究は嫌いだ」と思う人もいる。

逆に、最初はまったく興味がなかったのに、やっているうちに面白くなってくる人もいる。

こんなのは普通にある。

仕事だってそうである。

最初から「これが天職だ!」と思って始める人ばかりではない。

なんとなく選んだ仕事でも、できることが増えたり、人の役に立ったり、自分なりに工夫できるようになったりすると、わりと面白くなることがある。

逆に、大好きで始めた仕事でも、人間関係が最悪だったり、給料が安すぎたり、毎日アホみたいに忙しかったりすれば嫌になる。

つまり、「好き」は対象だけで決まらない。

目的と状況によって変わる。

誰とやるのか。

どんなやり方でやるのか。

どのぐらいやるのか。

どこまで責任を負うのか。

そういう条件が変われば、同じことでも意味は変わる。

なので、「本当に好きなこと」を自分の心の奥から掘り出せば、その後の人生が決まる、みたいに考えるのはちょっと無理がある。

好きは、そんなカチッとしたものではない。

好きなこと探しも、メンタルブロックになる

好きなことがわからないとき、本人はたいてい真剣に考えている。

「もっと自分と向きあおう」

「自分の本当の気持ちを見つけよう」

「納得できる答えが出るまで考えよう」

そうやって熟慮しているつもりになる。

けども、考えても考えても動かないなら、どこかでただ愚図愚図しているだけになっている可能性がある。

これは別にバカにしているわけではない。

ぼくだって普通にそうなる。

失敗したくない。

選択を間違えたくない。

時間を無駄にしたくない。

途中で辞めて「あれは何だったんだ」と思いたくない。

だから、行動する前に正解を見つけようとする。

でも、「自分にとって本当に好きなことを見つけてから動かなければならない」という思い込みには、たいした存在論的根拠はない。

未来は未定だからこそ、未来である。

まだやっていないことが、自分に合うかどうかなんて完全にはわからない。

人生は予定調和に進まない。

だから、行動前に考え抜けば失敗を回避できる、という発想そのものがわりと怪しい。

行動をともなわない計画は、冬眠しているのとほぼ変わらない。

好きなこと探しも同じである。

何年も「自分の本当に好きなことは何だろう」と考えているだけなら、好きなことを探しているというより、好きか嫌いか判断するための経験を積んでいないだけかもしれない。

それでは、いつまでたってもわからない。

行動しながら考えればよい

では、どうしたらいいのか。

ぼくは「行動しながら考える」でよいと思っている。

ちょっと興味がある。

だったら、やってみる。

面白ければ続ける。

思っていたのと違えば、やめる。

少し面白いけどもしんどいなら、やり方を変える。

それでもダメなら、さくっと離れる。

それぐらいでよい。

「そんな適当なことで人生を決めて大丈夫なのか」と思うかもしれない。

けど、そもそも人生なんて適当にしか決められない。

この先何が起こるかわからないし、自分の考えだって変わる。

ものすごく好きだったことに飽きるかもしれない。

嫌いだったことが好きになるかもしれない。

仕事で出会った人によって、まったく考えていなかった方向に進むこともある。

そんなものを20歳とか30歳とか40歳のある一点で「これが本当の自分だ」と確定する方が無理ゲーである。

だったら、ひとまずやってみればよい。

重要なのは、最初から正解を選ぶことではない。

やってみた結果を踏まえて、次を選び直せることである。

その意味では、失敗もそれほど大した問題ではない。

「やってみたけども違った」

それがわかったなら、立派な収穫である。

少なくとも、頭の中だけで「合うかなぁ、合わないかなぁ」と100回考えているより前に進んでいる。

「好き」が「〜すべき」に変わったら気をつける

もうひとつ気をつけた方がよいことがある。

「好きなことをして生きる」が、いつの間にか「好きなことをして生きるべき」に変わることである。

これが始まるとわりとしんどい。

好きな仕事なんだから、多少給料が安くても我慢すべき。

自分で選んだ仕事なんだから、つらくても辞めるべきではない。

やりたかったことなんだから、弱音を吐いてはいけない。

せっかく見つけた好きなことなんだから、途中で変えてはいけない。

こんな感じで「〜するべき」「〜しなければならない」が増えてくる。

すると、「好き」は自由に生きるための手がかりではなく、しんどさの増幅装置になる。

これでは本末転倒である。

好きなことでも、しんどくなったら休めばよい。

嫌いになったらやめてもよい。

前は好きだったけど、今はそれほどでもない。

それでも全然かまわない。

ぼくたち人間は首尾一貫した存在ではない。

昔の自分と今の自分が違ってもよい。

「これが自分の本当に好きなことだ」と一度決めたからといって、死ぬまで守り続ける必要なんてない。

そういう思い込みからは極力自由になった方がよい。

好きなことがわからないなら、わからないままで動けばよい

結局のところ、「好きなことがわからない」というのは、それほど大した問題ではない。

まだわからないだけかもしれない。

経験が足りないのかもしれない。

いまのやり方が合っていないだけかもしれない。

あるいは、本当にこれといって好きなことがないのかもしれない。

それも別にいい。

人生には「これがぼくの情熱です」と言えるものが絶対に必要なわけではない。

そのときどきで、少し面白そうなことをやる。

飽きたらやめる。

また別のことをする。

何となく続けているうちに、気づけば長くやっていた、というものがあってもよい。

もちろん、明確にやりたいことがある人は、それを圧倒的にやればよい。

自分の人生なんだから遠慮することはない。

けど、やりたいことがない人まで、無理に「本当の好き」をひねり出す必要はない。

そんなものを探して立ち止まっているぐらいなら、ちょっと気になることをやってみる方がなんぼかましである。

行動しながら考える。

違ったら変える。

うまくいかなければ、また考える。

人生は思い通りにはならないけども、人生は続く。

だったら、その都度選び直していけばよい。

ぼくは、それぐらいの適当さで生きる方が、かえって自由なんじゃないかと思っている。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学教授。思想ノートでは身近な違和感の奥にある前提を問い直し、分かり合えない世界で人間・社会・自由について考えている。

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