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好きなことを探しているうちに、動けなくなる

自由を考える

「好きなことを仕事にしよう」という言葉には、人を励ます力がある。

生活のためだけに働くのではなく、自分が心から望むことを選んでもいい。周囲の期待や世間の基準に合わせ続けるのではなく、自分の人生を生きていい。そう言われると、少しだけ気持ちが楽になる人もいるだろう。

僕も、この言葉そのものが間違っているとは思わない。

ただ、何が好きなのかを何度も問われているうちに、かえって身動きが取れなくなることがある。「本当にやりたいことは何ですか」「時間を忘れるほど夢中になれることはありますか」と聞かれても、すぐには答えられない。そんな人は、けっして珍しくないはずだ。

いくつか候補を思い浮かべることはできても、「これは、自分の人生をかけるほど好きなことなのか」と考えはじめると、急に自信がなくなる。

好きなことがわからない。だから仕事も、生き方も決められない。自由になるための言葉だったはずなのに、いつのまにか、自分を否定するための問いに変わっている。

これは、いったいどういうことなのだろう。

「好き」は、自分の中に完成しているのか

まず、「好きなことをして生きる」という考え方には、好きなことという感覚が、すでに本人の内側にはっきりと存在しているという前提がある。

自分の心の中を丁寧に探せば、どこかに本当の望みがある。それを見つけて、仕事や暮らしに結びつければ、自分らしく生きられる。反対に、何が好きなのかわからないのは、自分自身をまだ十分に理解できていないからだ。そんな筋書きになりやすい。

けれど、人の望みは、本当にそのようにできているのだろうか。

何かを始める前から、「自分はこれが好きだ」と感覚的にわかっている場合はある。子どもの頃から続けてきたことや、何度離れても、なぜかまた戻りたくなることもある。僕の場合、ウォーキングやサイクリング、海水浴などは、こちらに近い。そういう望みは、たしかに存在する。

ただ、すべての「好き」が、最初から同じようにはっきりしているわけではない。

始める前には何とも思っていなかったのに、続けているうちに面白くなることがある。最初は苦手だった仕事でも、少しずつできることが増え、誰かの役に立っていると感じられたとき、「もう少し続けてみたい」と思うこともある。僕の場合、働きはじめた頃はタスク管理を面倒だと感じていたが、続けるうちにコツが分かって工夫ができるようになり、面白さを感じるようになった経験がある。

その一方で、好きで始めたことであっても、締切や評価、人間関係が重なっていくうちに、触れることさえしんどくなる場合がある。同じ行為でも、誰とするのか、どこでするのか、どの程度の責任を負うのかによって、感じ方はかなり変わる。一人で気ままに料理をするのは好きでも、毎日、家族全員の食事を用意するのはつらいかもしれない。文章を書くことは好きでも、求められた結論へ向かって書き続けることには、耐えられない場合もある。

好きという感情は、その人の中にもともと備わっている、変わらない性質ではないのだと思う。仕事や活動に実際に取り組む中で生まれ、取り組み方や置かれた条件が変われば、その形も変わっていく。

そうだとすれば、「何が好きなのか」を先に決めてから人生を選ぼうとすることには、少し無理がある。まだ十分に取り組んでもいないことについて、自分の最終的な気持ちを、あらかじめ確定するよう求めているからだ。

望みは、取り組む中で形になる

人は、自分が何を大切にしているのかを、いつでも最初から知っているわけではない。

実際にやってみて、そこで初めてわかることがある。思っていたより楽しい。これは続けてみたい。逆に、憧れていたほどではなかった、と気づくこともある。好きなのは作業そのものではなく、そこで出会う人だった。あるいは、自分の考えが少しずつ形になっていく感覚だった。

そうしたことは、頭の中だけでいくら考えても、なかなか見えてこない。

望みは、内側から掘り出されるだけのものではない。身体を動かし、時間を使い、失敗する。誰かから反応を受け取る。そうした経験の中で、少しずつ形になっていく。

だから、「好きなことがわからない」という状態を、すぐに「自分が何をしたいのかさえわかっていない、中途半端な状態」とみなす必要はない。その人に欲望がないわけでも、自分を見失っているわけでもない。まだ、仕事や活動を試し、そこで得られる手応えを確かめる経験が十分にないだけかもしれない。

試す機会が少なかったのかもしれないし、これまでの取り組み方や置かれていた条件が、その人に合っていなかった可能性もある。

そう考えると、「自分は本当は何が好きなのか」という問いを、少し変えてみる必要がある。たとえば、「どのような条件や取り組み方の中で、僕らは何かを続けたいと感じるのか」「何があれば、その仕事や活動を自分の望みとして引き受けられるのか」と問う。

この問いであれば、好きという感情を、最初から自分の中に完成しているものとして扱わずに済む。

面白さを感じられること。少しずつ上達できること。自分なりの工夫ができること。誰かとの関係が生まれること。生活の中で意味を持つこと。疲れたときには休めること。やり方を変えたり、途中で離れたりできること。

何を必要とするのかは、人によって違う。それでも、好きという感情が生まれ、続いていくためには、その活動の内容だけでなく、どのように取り組み、どのような条件に置かれるかが大きく影響している。

好きなことがあるかどうかだけを問うていると、そうした条件は見えにくくなってしまう。

「好き」が義務に変わるとき

好きなことをしている人は、自由に見える。

けれど、「好きで選んだのだから、苦しくても我慢できるはずだ」と考えられた瞬間、その自由はかなり怪しいものになる。

好きな仕事なのだから、収入が低くても仕方がない。やりたかったことなのだから、長時間働くのも当然だ。自分で選んだ道なのだから、途中で投げ出すのは無責任だ。そうした言葉は、周囲から向けられることもあれば、自分で自分に言い聞かせてしまうこともある。

すると、「好き」は、仕事や生活を選ぶための手がかりではなく、悪い条件を引き受け続ける理由になってしまう。それでは、本末転倒だ。

もちろん、好きなことを仕事にするのが間違いだ、という話ではない。好きだからこそ手間をかけられることはあるし、うまくいかない時期を越えられる場合もある。

ただし、好きであることと、その働き方や続け方が自分に合っていることは、別の問題だ。していること自体は好きでも、働き方は変えたいことがある。仕事の内容には意味を感じていても、報酬や責任の配分までは受け入れられない場合もある。

それでも「好きなら続けるべきだ」と考えてしまうと、対象への気持ちと、自分が置かれている条件とを、分けて考えられなくなる。好きなものを守るために、いったん距離を取る。そんな選択さえ、難しくなってしまう。

「好きなことをして生きる」という言葉が人を不自由にするのは、好きな対象を持つよう求めるからだけではない。一度選んだ「好き」を、自分の本当の姿として、その後も引き受け続けるよう求めるからでもあるのだと思う。

自由は、好きを確定することではない

では、好きなことをして生きることは、自由に生きるための条件なのだろうか。

僕は、必ずしもそうではないと考えている。

明確な望みがあり、それを実行できることは、自由の大きな一部だ。反対に、やりたいことを禁じられ、選択そのものを奪われている状態を、自由と呼ぶことは難しい。

ただ、自由を「あらかじめ決まっている好きを実行すること」だけで捉えてしまうと、人は自分の望みを、最初から知っていなければならなくなる。そして、一度選んだものを、自分の本当の望みとして守り続けなければならなくなる。

自由は、もう少し動きのあるものではないだろうか。

実際にやってみる。思っていたものと違えば、離れる。続けたいと思ったなら、少し深く取り組んでみる。同じことであっても、やり方や距離を変えることはできる。以前は好きだったものを辞めて、以前はまったく関心のなかったものを、新しく生活の中へ迎え入れることもある。

そうやって、望みそのものを更新できること。自分の気持ちが変わったとき、その変化を挫折や裏切りだとみなさず、生活の組み方を選び直せること。僕にとっては、そのほうが自由の感覚に近い。

もちろん、これは気持ちの持ち方だけで実現できるものではない。

何かを試すためには、時間がいる。失敗しても生活が崩れない程度の余裕も必要だ。合わなければ戻れる場所や、別の道を選べる機会もいる。経済的な条件や家族の事情によっては、試してみること自体が難しい人もいるだろう。

だから、「好きなことを見つければ自由になれる」という言葉は、ときに現実の条件を、個人の内面の問題へと押し戻してしまう。動けない理由を、「好きが足りないからだ」と説明してしまうからだ。

好きなことが見つからないのではなく、試せる範囲が狭いのかもしれない。実際にやってみても、それを続けられる条件がないのかもしれない。自分の望みを考えるより先に、引き受けなければならない役割が多すぎることもある。

そうした事情を、本人の迷いや覚悟の弱さだけで説明してしまえば、自由について考えているつもりで、かえって人を追い詰めることになる。

「好きなことをして生きる」という言葉は、すでに進みたい方向が見えている人にとっては、背中を押す力になる。周囲の期待に従うしかないと思っていた人が、自分の望みを選び直すきっかけにもなりうる。その力まで否定する必要はない。

ただ、何が好きなのかわからないときに、急いで答えをつくる必要もないのだと思う。

好きは、何かを始める前に、明らかにしておかなければならない必要条件ではない。実際に何かをしながら、その感覚を確かめる。違うと思えば辞める。また別のことを試す。そうしているうちに、あとから「好き」の輪郭がはっきりしてくることもある。

好きなことがわからないという感覚は、自分の好みさえ理解できていない証拠ではない。まだ、仕事や活動を十分に試せていないだけかもしれない。あるいは、これまでとは違う取り組み方や距離の取り方が必要になっているのかもしれない。

そう考えると、立ち止まっている時間も、ただ答えを持っていない時間ではなくなる。自分の望みが、これから別の形へ変わっていくかもしれない時間として、見えてくるのではないだろうか。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学・教授。思想ノートでは、信念対立、作業療法、研究等を手がかりに、分かり合えない世界で人間・社会・自由についてどう考えるかを書いていきます。

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