人は変わる。
たぶん、これは間違いない。
人間なら誰でも人によって態度を変えるものだし、置かれている状況が変われば行動も変わる。昔は平気だったことが嫌になることもあれば、昔は絶対に嫌だったことを普通にやっていることもある。
なので、「人は変わらない」というのは、ちょっと言いすぎである。
けども、だからといって「人は変わるんだから、あの人もきっと変わってくれる」と考えるのも危ない。
人は変わる。
でも、自分の思い通りには変わらない。
ここが大事なのだと思う。
人間なんて、わりと普通に変わる
そもそも、人は毎日同じではない。
人間なら誰でも人によって態度を変えるものだし、それも程度問題である。
会社では無口なのに、家ではめちゃくちゃしゃべる人もいる。
上司の前では大人しいのに、部下にはやたら強く出る人もいる。
昨日まで「絶対にこうする」と言っていたのに、今日は違うことを言っている人だっている。
こんな感じで、人間は状況によってころころ変わる。
もちろん、ころころ変わりすぎたら「この人大丈夫か」となる。
けど、変わること自体がおかしいわけではない。
ぼくたち人間は首尾一貫したいという欲望があるので、「あの人はこういう人」「自分はこういう人」と考えたくなる。
その方がわかりやすいからである。
けど、首尾一貫性へのこだわりって、わりと仮想現実である。
昨日こうだったから今日も同じでなければならない、という存在論的根拠はどこにもない。
昨日まで嫌いだったものを今日から好きになってもいいし、以前は正しいと思っていたことを「やっぱり違った」と考え直してもよい。
むしろ、間違っていると気づいたのに「昔からこう言ってきたから」とそのまま突っ走る方が怪しさマックスである。
人は変わる。
そういうものだと思っておけばよい。
でも、他人は思い通りには変わらない
問題はここからである。
人は変わる。
だったら、困った人にも変わってもらえばよい。
こう思うかもしれない。
けど、それがわりと無理なのだ。
家族なんだから、もうちょっとちゃんとしてほしい。
部下なんだから、もう少し仕事ができるようになってほしい。
上司なんだから、話を聞ける人になってほしい。
何度も説明したんだから、そろそろわかってほしい。
こんな感じで他人に期待すると、期待値がどんどん上がっていく。
すると、思い通りにならないとヒートアップして悪循環に陥りがちである。
だって、他人なのだ。
他人だから思い通りになるわけがない。
これはもうしょうがない。
こう書くと、「なんてドライな・・・」と思う人がいるかもしれない。
でも、他人を自分の思い通りに変えようとして揉めにもめるより、はるかによいではないか。
もちろん、話しあうことは大事である。
要望を伝えることも必要である。
問題があれば「そこは変えてほしい」と言えばよい。
けど、それを聞いて相手が本当に変わるかどうかは別問題である。
そこまで自分でコントロールしようとしたらしんどい。
人間関係で無駄に消耗しないためには、他人に期待しすぎない方がよい。
自分にも期待しすぎない方がよい。
だいたい人間なんて、そんなに思い通りに動かない。
正しいことを言えば人が変わるわけでもない
「でも、ちゃんと説明して、相手が間違っていることをわかってもらえば変わるのではないか」
そう思う人もいるかもしれない。
これも眉に唾つけて考えた方がよい。
人は、正しいことを聞いたからといって、その通りに変わるわけではないからである。
これは意見が対立したときも同じである。
事実を突きつけて説得すれば、人は意見を変える。
そんなに都合よくはいかない。
ぶっちゃけ、事実だけで人を変えようとするのはほぼ無理ゲーである。
理由は簡単で、人間には欲望があるからだ。
世界は欲望相関的にしか認識できない。
簡単に言えば、人は自分が何を大切にしているか、何を恐れているか、何をしたいかによって世界を見ている。
だから、こちらが「どう考えてもこっちが正しい」と思っていても、相手の関心や欲望が違えば、その話がそのまま入るとは限らない。
「健康のために酒を減らした方がいい」
正しい。
けど、酒を飲む時間がその人にとって唯一ほっとできる時間なら、正論を言っただけでは変わらないかもしれない。
「そんな会社は辞めた方がいい」
これも外から見れば正しいことがある。
でも、本人にとっては給料、家族、これまで築いた関係、将来への不安などいろんな事情がある。
なので動けない。
人それぞれ人生がある。
その人にはその人の事情がある。
そこをすっ飛ばして「正しいことを教えれば変わる」と考えると、だいたい話がおかしくなる。
人を変えるより、構造を変えた方が早いこともある
では、どうしたらいいのか。
ひとつは、人を丸ごと変えようとしないことである。
たとえば、職場にものすごく支配的な人がいるとする。
こちらがこびへつらう。
相手がさらに調子に乗る。
こちらがまた我慢する。
どんどんしんどくなる。
こういう構造があるとする。
このとき、「あの人がもっと優しい性格になってくれたら」と期待してもよい。
けど、いつになるかわからない。
だったら、自分の行動パターンを変えた方が早い場合がある。
今まで何でも「はい」と言っていたなら、無理なものは断る。
必要以上に関わっていたなら、距離をとる。
自分だけで対応していたなら、他の人を入れる。
環境そのものがしんどいなら、環境を変える。
こんな感じで、自分の行動パターンが変わると構造が変わる。
構造が変われば、今まで起きていた苦しみそのものが発生しにくくなることがある。
人間そのものを大改造しなくても、関係のあり方が変われば結果は変わるわけである。
これは自分自身についても同じだ。
「もっと強い人間にならなければならない」
「性格を変えなければならない」
「根本から自分を変えなければならない」
そんな大げさなことを考えなくてもよい。
しんどくなったら休む。
嫌な誘いは断る。
合わない人から距離をとる。
今までと違うやり方をひとつ試す。
そのぐらいでも、起きることは変わる。
「変わるべき」がしんどさの増幅装置になる
もうひとつ気をつけた方がよい。
「人は変われる」という話が、「人は変わるべき」に変わることである。
これが始まるとしんどい。
努力すれば変われる。
本気なら変われる。
考え方を変えれば人生は変わる。
確かに、そういう場合はある。
けど、それも程度問題である。
どうにもならないことだってある。
現実は、希望的観測も想定もあっさり否定してくる。
サクッとしかも完膚なきまでに、である。
どれだけ頑張ってもダメなことはある。
本人が悪いわけでもないのに、どうしようもないこともある。
それなのに「人間は変われる」と言われ続けたら、変われない人は「自分の努力が足りないのではないか」と自分を追い込む。
「〜するべき」「〜しなければならない」という思い込みは、しんどさの増幅装置になる。
なので、「変わらなければならない」という思い込みからも、極力自由になった方がよい。
変わってもよい。
変わらなくてもよい。
必要なら変える。
必要がなければ、そのままでもよい。
ひとまず、それぐらいでいいのではないか。
人は変わる。でも、それを当てにしすぎない
人は変わる。
人によって態度も変わるし、状況が変われば行動も変わる。
昔の自分と今の自分が違っていても何の問題もない。
だから、「あの人は絶対に変わらない」「自分はこういう人間だから一生このまま」と決めつける必要はない。
けど、人がいつ、どのように変わるのかなんてわからない。
ましてや、自分の思い通りに変わってくれる保証なんてどこにもない。
なので、他人が変わることを当てにしすぎない方がよい。
変わってくれたら、それはそれでよい。
変わらなかったら、自分の行動を変える。
それでもダメなら、環境を変える。
関係を終わらせた方がよいなら、さくっと終わらせる。
もちろん、簡単にできないこともある。
それも、ときと場合によりけりである。
現実は思い通りにならない。
他人も思い通りにならない。
自分だって思い通りにならない。
まぁ、しょうがない。
それでも人生は続く。
だったら、そのときの目的と状況にあわせて、自分が変えられるところをちょっと変えながら生きていけばよいのではないだろうか。