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人は、変わるのか、変わらないのか

分かり合えなさから考える

「もう変わるから」と言った人が、しばらくして、また同じことをする。謝り方も、約束の言葉も、前とよく似ている。期待した側は、最初より深く傷つく。そこで、「やっぱり人は変わらない」と思う。

この言葉は、冷たいようでいて、たぶん自分を守るための言葉でもある。これ以上期待しなければ、同じようには傷つかずに済む。相手の言葉ではなく、これまで繰り返された行動を見る。その判断には、かなり現実的な理由がある。

反対に、教育や支援に関わっていると、人は変わりうると考えなければ続けられない場面がある。いまはできない。いまは拒んでいる。何度伝えてもうまくいかない。それでも、条件や関わり方が変われば、別の可能性が現れるかもしれない。そう思うから、待ったり、方法を変えたり、もう一度関わろうとしたりする。

人は変わるのか。それとも、根本的には変わらないのか。

どちらにも、切実な経験がある。だから、この問いは簡単には消えない。

「変わる」とは、何が変わることなのか

ただ、考えているうちに、この問いには少し妙なところがあると思うようになった。

人が変わるかどうかを問うとき、僕らは、人間全体にひとつの判定を下そうとしている。変わった人。変わらない人。けれど、人の何を見て、そう判断しているのだろうか。

話し方が変わる。生活の仕方が変わる。以前なら避けていたことに向き合うようになる。怒りを感じなくなるわけではないが、怒鳴らずにその場を離れられるようになる。大事にしている価値は同じでも、それを守る方法が変わることもある。

逆に、外から見える行動は変わっていても、その理由は以前とほとんど同じかもしれない。叱られるのが怖いから従っているだけなのかもしれないし、立場が弱くなって、反論できなくなっただけかもしれない。同じ行動でも、その意味は同じではない。

そう考えると、「変わる」という言葉は、かなり解像度が粗い。

身体は変わる。知識も変わる。習慣も、役割も、人間関係も変わる。価値観は比較的残りやすいことがあるが、それも経験によって組み替わる。幼い頃から続く気質のようなものが残っていても、その気質とどう付き合うかは変わりうる。

何かが変わり、何かが残る。その両方が同時に起きているのが、人間なのだと思う。

それなのに、「人は変わるか、変わらないか」と問うと、変化と持続が排他的な二つの状態として置かれてしまう。十分に変われば、もう同じ人ではない。変わらない部分が残っていれば、本当には変わっていない。そういう判定を、知らないうちに求めてしまう。

でも、変わったあとも同じ人だからこそ、僕らはその人の変化を語れる。すべてが入れ替わって別人になったのなら、それはもはや「その人が変わった」とは言いにくい。変化を認めるためには、変わらず続いているものも必要になる。

人間を丸ごと判定する問い

「根本的には変わらない」という言い方も、よく考えると難しい。

根本とは、性格なのか。価値観なのか。欲望なのか。ものの見方なのか。それとも、他人には触れられない内面の核のようなものなのか。

もし根本が、行動の奥に隠れた本当の性質を意味するなら、僕らはそれをどうやって確かめるのだろう。長く続いた行動を見て推測することはできる。本人の言葉を聞くこともできる。けれど、行動とも言葉とも独立した「根本そのもの」を、外から直接見ることはできない。

本人にも、完全にはわからないと思う。人は、自分がなぜそうしたのかを、あとから理解することがある。自分では変わっていないつもりなのに、久しぶりに会った人から「変わったね」と言われることもある。反対に、自分では大きく変わったつもりでも、周囲には同じことを繰り返しているように見える場合もある。

どの時点と比べるのか。何を基準にするのか。誰の観点から見るのか。それによって、変化の判定は変わる。

だとすれば、「人間は本当に変わるのか」という問いは、答えが難しいというより、答えを求める単位が大きすぎるのではないか。人間を丸ごと取り出し、変わったか、変わらないかのどちらかに置こうとする。その問い方が、見かけの難問をつくっている。

もちろん、だから問いに意味がないわけではない。この問いの奥には、もっと現実的な関心がある。

この人を、もう一度信じてよいのか。関わり続けることに意味はあるのか。教育や支援によって、何かは変わるのか。自分自身も、これまでとは違う生き方を選べるのか。

知りたいのは、人間一般についての最終判決ではない。これからの関わりや判断に、どこまで可能性を残してよいかということなのだと思う。

変化は、意志の内側だけでは起きない

そう考えると、問いは少し変わる。

人は変われるか、ではない。人のどの側面が、どのような条件のもとで変わりうるのか。そして、その変化を、本人と周囲は何によって確かめられるのか。

この問いなら、少なくとも現実へ戻ることができる。

人が変わろうとするとき、意志はたしかに必要になる。本人が何も望まず、何も選ばないまま、望ましい方向へ変化し続けるとは考えにくい。けれど、意志だけで変われるわけでもない。

眠れていない。痛みがある。生活に余裕がない。失敗すれば強く責められる。周囲が昔の役割を求め続ける。変わろうとしても、それを試す場所がない。こうした条件の中では、強い決意があっても、以前と同じ反応へ戻りやすい。

反対に、環境が変わることで、本人も気づかなかった行動が現れることがある。安心して失敗できる。相談できる人がいる。無理のある役割から降りる。新しい道具を使う。毎日の時間の使い方が少し変わる。誰かに必要とされる作業をもつ。そうしたことが重なると、考え方より先に、生活の仕方が動きはじめる。

作業療法で人間を見ると、変化は頭の中だけで起きるものではないことがよくわかる。人は、何かを理解したから行動を変えるだけではない。違う行為を繰り返し、その結果として得られる感覚や他者からの応答を通して、自分についての理解まで変えていく。

変化は、本人の内側にある力が外へ出てくることではない。身体、環境、関係、役割、反復される行為の組み合わせが変わることで、以前とは違う応答が可能になることだ。

だから、条件が変われば、変化の一部が失われることもある。強い疲労や不安の中で、古い反応が戻る。昔の関係に入ると、以前の役割へ引き戻される。一度戻ったからといって、それまでの変化が全部偽物だったとは限らない。その変化が、まだ限られた条件でしか成立していなかったということかもしれない。

ただし、条件を考えることは、傷つけた行為を免責することではない。理由がわかることと、その行為を受け入れなければならないことは別である。

「変われる」という期待が、人を追い詰める

人は変わりうる。僕は、前提となる条件を含めるなら、そう考えている。

けれど、この考えも、それ自体で善いわけではない。

「人は変われる」という言葉は、ときに、変われない現在のその人を責める。努力すれば変われる。支援を受ければ変われる。考え方を改めれば変われる。そう言われるほど、変化できない理由が本人の意志や能力に押し戻されていくことがある。

しかも、誰がどのように変わるべきかを決めているのは、たいてい本人だけではない。教師が学生に、上司が部下に、家族が家族に、支援者が支援を受ける人に、「あなたのため」と変化を求める。求める側の都合や制度の硬さが、そのまま相手の課題に置き換えられることもある。

変わるべきなのは、本当にその人なのか。関係のあり方かもしれない。評価の基準かもしれない。働き方や学び方を一つに限定している制度のほうかもしれない。

人の可能性を信じる言葉が、本人だけに変化の責任を負わせるなら、その期待はかなり重い。

反対に、「その人らしさを尊重する」という言葉も、使い方によっては人を固定する。あの人は昔からこういう人だから。無理に変えないほうがいい。その理解が、本人の新しい試みを見えなくすることがある。過去の一貫性を尊重するつもりで、未来まで過去の延長に置いてしまう。

現在を否定して変化を迫ることと、現在を尊重して可能性を閉じること。そのどちらも、人を一つの像に押し込める点では似ている。

何をもって、変わったと考えるのか

では、変化は何によって確かめられるのだろう。

一度だけ違う行動をした。心から反省したと言った。大きな出来事をきっかけに、考え方が変わったと語った。そうした瞬間には意味がある。けれど、それだけで、その後の変化まで保証されるわけではない。

変化についての確信は、もう少し時間の中でつくられる。

同じような場面で、以前とは違う応答が何度か現れる。見られているときだけでなく、負担のあるときにも、その選び方が少しずつ続く。本人の語りと、周囲が経験している行動の変化が、大きく食い違わなくなる。そして、その変化を支える生活や関係が、偶然ではなくある程度保たれている。

それでも、絶対の保証にはならない。人は、明日また変わるかもしれないからだ。

信頼とは、相手の本質が変わったと確認することではないのだと思う。確認できる範囲の行動と、その行動が続いている条件を見ながら、どこまで関係を委ねるかを判断することだ。変化の可能性を認めることと、まだ起きていない変化を先取りして信じることは違う。

人は変われると考えることと、その人が変わるまで傷つき続けることも、同じではない。距離を置くことや境界をつくることは、相手の未来を否定することではなく、現在の事実に応じた判断でありうる。

教育や支援でも同じだろう。可能性を閉ざさないことは必要だが、結果を約束することはできない。変化には時間がかかる。使える資源にも限りがある。本人が望まない変化もある。失われた身体機能や時間のように、元には戻らないものもある。

人は、どのような方向にも、いくらでも変われるわけではない。変化の可能性は、いつも具体的な制約の中にある。

同じ人のまま、違う応答を選べるか

人間は変わるのか、変わらないのか。

今の僕には、この問いに、人間一般についての一語の答えを返すことはできない。人は、変化する部分と持続する部分を同時に生きている。しかも、何が変わりやすく、何が残りやすいかは、身体、経験、環境、関係、時間によって異なる。

それでも、どこまでなら言えるか。

人は、別人にならなくても、以前とは違う仕方で生きることがある。怖さが消えなくても、逃げる以外の行動を選べるようになる。怒りやすさが残っていても、相手を傷つける前に立ち止まれることがある。過去を消せなくても、その過去だけで次の行為を決めなくてよくなる。

ある場面で、以前なら黙っていた人が、少し言葉を探しながら、「それは引き受けられない」と言う。声は震えているかもしれない。翌日には、自分の言葉を後悔するかもしれない。それでも、以前と同じ人が、以前とは違う仕方で、その場に立っている。

人の変化とは、何もかも新しくなることではない。残っているものを抱えながら、同じ出来事に、同じ応答だけを繰り返さなくてもよくなることなのだと思う。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学・教授。思想ノートでは、信念対立、作業療法、研究等を手がかりに、分かり合えない世界で人間・社会・自由についてどう考えるかを書いていきます。

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