先日、講義の構成を考えていて、AIに下書きをつくらせてみた。テーマと、押さえたい論点を伝えただけなのに、数分で筋の通った構成案が返ってきた。見出しの立て方も、悪くない。自分で一から組むより、整理されている気がする。
正直、少し戸惑った。これをそのまま使えば、準備の時間は大幅に短縮できるかもしれない。けれど、その戸惑いの正体を、うまく言葉にできずにいた。楽ができたことへの後ろめたさなのか、それとも、もっと別の何かなのか。
似たような戸惑いを、ときどき見聞する。例えば、学生が、文献の要約や評価計画の下書きをAIにつくらせる。出てくるものは、たいてい、そつがない。だからこそ、指導する側も、学生自身も、少し不安になる。
これで、自分の頭を使ったことになるのだろうか、と。
「考える」は、文章をつくる作業とイコールではない
この不安の底には、ひとつの思い込みがある気がする。文章ができれば考えたことになる。逆に、文章をつくる作業を省けば、考えていないことになる。この等式を、僕らはかなり自然に受け入れている。
でも、思い返すと、文章を書く作業そのものは、思考の一部にすぎない。思考の実質は、もう少し別のところにあるのではないか。
辞書を引く。統計を調べる。誰かに相談する。どれも、昔から当たり前に使われてきた道具だ。辞書は言葉の候補を返す。統計は数字の候補を返す。相談相手は、こちらの問いに意見を返す。僕らは、その候補をそのまま採用してきたわけではない。この言葉でいいのか、この数字は今の文脈に合っているのか、その意見は自分の立場からも成り立つのか。そこを吟味し、採用するか退けるかを決める作業のほうに、思考の重みは置かれていたはずだ。
つまり、「自分で考える」の中心にある実質は、候補を一から自力でつくり出す苦労にあったのではなく、出てきた候補を検討し、採用するかどうかを判断する点にあったのではないかと思う。
完成した形で出てくることの厄介さ
だとすれば、AIも、辞書や統計や相談相手と、原理的には同等の道具のはずだ。候補を返す。人間が、それを検討し、採用するかどうかを決める。この構造自体は変わらない。電卓や検索エンジンが広まったときにも、思考力が失われるという似た不安が語られていたという話を聞いたことがある気がする。
ただ、僕は、ここに一つだけ、これまでの道具とは違う点があると思っている。辞書が返すのは単語であり、統計が返すのは数字であり、相談相手が返すのは意見だった。どれも、そのままでは「完成品」ではない。だから、使う側には、まだ手を加える余地があることが、はっきり見えていた。
AIが返してくるのは、たいてい、すでに整った文章そのものだ。見出しが立ち、段落が整い、語尾まで整っている。この「完成した形」で出てくること自体が、使う側に、ある錯覚を起こしやすい。もう考え終わったものが、目の前にある、という錯覚だ。
講義の構成案を見て、僕が感じた戸惑いの正体は、たぶんここにあった。出てきたものがあまりに整っていたから、検討し、採用するかどうかを決める、という一手間を、うっかり飛ばしそうになったのだ。危ういのは、AIを使ったこと自体では、全くない。整った完成品を前にすると、判断という工程そのものが、すでに済んだことにされやすい、という点が危ういのだ。
判断する力は、道具を遠ざけることでは育たない
だったら、AIを使わず、自分の手だけで書けばいいのではないか、という考え方もありうる。
たしかに、手間のかかる作業を経ることで、身につく理解はある。文献を自分の手でまとめ直す過程で、初めて見えてくる矛盾もある。指導する立場からいっても、この経験の価値を、僕は否定しない。
ただ、道具を使わないこと自体が、主体的な思考を保証するわけでもない。辞書を引かずに書いた文章が、辞書を引いて書いた文章より、必ず深いとは限らない。手描きの下書きを積み重ねても、検討という一手間を省いていれば、思考は起きていないことがある。
大事なのは、道具を使うか使わないかではなく、出てきたものを疑い、検討し、採用するかどうかを、自分の判断として引き受けているかどうかだ。
判断するための専門性という、逆説
もう一つ、見落とせない問題がある。出てきたものを検討し、判断するには、それを判断できるだけの知識や経験がいる。
その分野に詳しい人なら、AIが出してきた案の、どこが甘く、どこが的を外しているかを、比較的すぐに見抜ける。だから、その人にとって、AIは有効な道具になる。
一方、その分野にまだ詳しくない人ほど、AIの出す整った文章を、そのまま受け取ってしまいやすい。判断する力がまだ育っていない段階であるほど、判断を飛ばして採用してしまう危険が高くなる。
これは、皮肉な話だと思う。
AIの助けを一番必要としているのは、まだ知識や経験が少ない人であるはずなのに、その人ほど、出てきたものを検討する力を持ちにくい。逆に、判断する力をすでに持っている人は、AIがなくても、ある程度は自分で進められる。
だから、AI時代に必要なのは、AIを使わない胆力ではなく、出てきたものを検討できるだけの専門性を、別のところで育てておくことなのだと思う。これは、これまでの教育や研究の営みと、地続きの話だ。何かを一から書いたり調べたりする経験そのものが、後に、他人や道具が出したものを判断する力の土台になる。
誰が、その判断を引き受けたのか
最後に、もう一つだけ、はっきりさせておきたいことがある。
AIが書いた文章を、そのまま提出する。その提案を、そのまま会議に出す。そこで何かが間違っていたとき、その責任は、誰が引き受けるのか。AIが引き受けることはできない。引き受けるのは、それを採用すると決めた人間だけだ。
この一点は、道具がどれだけ賢くなっても、変わらないと僕は思っている。文章を誰が書いたかは、これから先、どんどん曖昧になっていくだろう。しかし、その文章をこの場に出すと決めた判断だけは、誰かの名前と結びついたまま残る。
講義の構成案を、結局、僕は8割ほど書き直した。重点的に教えたい部分を強化し、順番を入れ替え、いくつかの論点を削った。その作業をしながら、ようやく、自分がこの講義で何を話したいのかが、はっきりしてきた気がする。
構成は、AIがつくったものより、複雑になったかもしれない。それでも、この構成を選んだのは僕だ、と言えるものにはなった。