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責任は、決めてよい理由にはならない

自由から考える

会議の席で、ある提案が急に通らなくなる瞬間がある。中身をじっくり話し合ったわけではない。ただ、誰かが「私には責任がありますから」と言った途端に、場の空気が変わるのだ。反対意見は、口に出される前に、行き場を失ってしまう。

僕は、こういう場面に何度も立ち会ってきた。会議だけではない。先生が「あなたのためだから」と生徒の進路を決めてしまう場面。医療者が、患者本人の気持ちよりも安全を優先する場面。家族が、高齢の親の暮らし方を本人より先に決めてしまう場面。どれも、悪意から始まっているわけではない。むしろ、責任感が強い人ほど、こういうことをしてしまいがちだ。

責任のある人が、強いリーダーシップで物事を決めること自体は、否定できない。誰も決めなければ、状況が前に進まないこともある。責任をとる覚悟がない決定なんて、誰も守ろうとはしない。ここまでは、僕も同じ意見だ。

しかし、本当の問題は、その先に潜んでいる。

「責任を持つこと」と「決める権利」は、別のものである

実のところ、「責任がある」という言葉には、2つの違う意味が混ざっていると思う。

ひとつは、「何かあったときに、結果を引き受ける」という意味。

もうひとつは、「自分の判断を押し通していい」という意味だ。

普段、僕たちはこの2つをあまり区別していない。責任者が決めるのは当然だ、という空気が自然とあるからだ。だから「責任がある」と言われると、その人の判断がとても重く、正しいもののように感じてしまう。

でも、よく考えると、この2つは繋がっていない。結果を引き受けられるからといって、その人の判断が常に正しいとは限らないからだ。判断が正しいかどうかは、状況の見方や達成したい目的、文脈などで決まる。責任が重いからといって、自動的にその人の意見が正しくなるわけではないのだ。

ではなぜ、この2つは簡単に混ざってしまうのだろう。

それは、組織や家族が「安心したいから」だと思う。誰が責任者かをハッキリさせれば、集団の不安は減る。「何かあったときは、あの人に聞けばいい」「あの人が謝るんだな」と分かるからだ。この安心感と引き換えに、責任者には自然と強い発言力が集まっていく。責任の場所を決める仕組みが、いつの間にか、発言力の強さまで決めてしまっているのだ。

「あなたのため」という言葉が、本人を置き去りにする

責任と権限がセットになると、もうひとつ見えなくなることがある。それは、誰かの人生に関わる決定を下すとき、「責任者として結果を引き受ける立場」と、「その結果を実際に生きていく立場」は、全く別物だという事実だ。

もちろん、自分のことを自分で決めるなら、この2つは同じ人間になる。しかし、他人が関わるときはそうはいかない。医療や教育の現場で、責任者が引き受けるのは、多くの場合「何かあったときに周囲から責められる重さ」だ。けれど、その決定によって作られた現実のなかで、毎日を実際に生きていくのは本人である。

これは、家族のように「同じ結果を一緒に生きていく間柄」であっても変わらない。親が子どもの暮らし方を決めるとき、親も一緒にその結果を生きることにはなる。しかし、親が背負うのは「世間への責任や経済的な負担」であり、子どもが味わうのは「その環境で日々感じるストレスや苦しさ」だ。

このように、背負う立場が違えば、本人にしかわからない痛みや怖さ、譲れないこだわりが必ずある。どれだけ責任者が真面目で優しい人であっても、本人のリアルな苦しみは、外からは見えにくいものだ。

だからこそ、「あなたのためだから」という言葉は、ときとして本人の気持ちを無視し、責任者の判断の中に閉じ込めてしまう。これは意地悪でやっているのではない。むしろ「自分が結果を引き受けるんだから、自分が決めなきゃいけない」という強い責任感があるからこそ、いつの間にか本人の意思を置き去りにし、手続きの外に押し出してしまうのだ。

ここまで書いて、僕は自分自身を振り返る。大学で学生を指導するとき、僕は立場上、責任を負う側にいる。だから、学生の意見より自分の意見を優先したくなる瞬間がある。「これは学生のためを思ってのアドバイスだ」と自分では思っている。でも、その「思っている」という自分の感覚こそが、一番あやしいのだ。

決める側の「孤独」も、また本物だ

一方で、決める側の味方もしておきたい。責任を引き受ける人には、特有の孤独と負担がある。誰も決めてくれない場面で、最後に決断を下すのはその人だ。決めたあと、批判を浴びるのもその人だ。この重さを、軽く見てはいけない。

責任者が、常に全員の意見が一致するのを待っていたら、現場は動かなくなってしまう。急いで決めなきゃいけない場面や、専門的な判断が必要な場面、何を選択しても悪い結末が予見される場面はある。そこで責任者が決めることには、大きな意味がある。だから「決める権利をすべて捨てろ」という話ではないのだ。

危ないのは、「決めること」そのものではない。決めたあとに、その判断が誰からもツッコミを入れられない場所に置かれてしまうことなのだ。

「説明して終わり」から、「後からツッコミを入れられる場所」へ

責任を果たすというと、たいていは「説明する義務」のことだと言われる。なぜそう判断したのかを、あとから説明できること。もちろん、これは必要だ。

でも、それだけでは足りないのではないか、と思う。なぜなら、説明というのは一方通行でも成立してしまうからだ。リーダーが筋道立てて話せば、周りが本当に納得していなくても「説明責任は果たした」ということになってしまう。

本当の責任の果たし方とは、ただ説明を用意しておくことではない。説明した後に、周りから「それっておかしくないですか?」といつでも問い返される場所に、自分を置き続けることではないだろうか。今の僕はそう考えている。決めた理由を語ったあとも、疑問や反論を受け入れる隙を残しておくこと。一度決めたからといって、絶対に動かせないものとして扱わないことだ。

これは、決断を弱くすることではない。むしろ、あとからもっと良い形に組み替える可能性を残しておくことだ。上に立つ人の考えがガチガチに固まっているのか、それとも周りの声で動く余地があるのか。現場で働く人にとって、この違いはかなり大きい。

もちろん、これで全ての問題がきれいに片づくとは思っていない。問い返される場所に立っていても、権力のある側が「聞くフリ」だけをして、結局は自分の判断を変えないということはいくらでも起こる。意見を言える仕組みがあることと、実際に判断が動くことは、全く別の話だからだ。ここについては、僕もまだうまく整理できていない。

それでも、「責任があること」と「正しいこと」は同じではない。これだけははっきりさせておきたい。責任を引き受けるというのは、他人の代わりに偉そうに物事を決めることではない。自分の判断を、いつでも後から問い直される場所に置き続けることなのだと、今のところ僕は考えている。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学・教授。思想ノートでは、信念対立、作業療法、研究等を手がかりに、分かり合えない世界で人間・社会・自由についてどう考えるかを書いていきます。

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