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「わかった」の内側で、何かが終わっている

分かり合えなさから考える

現場に長く出ている実践家と話していると、担当している患者について、「この方は、対人不安が強くて、支援を避けているんだと思います」と、迷いのない口調で言われることがある。僕はその説明を聞きながら、うん、なるほど、とうなずきかけて、そのたびに小さくためらう。

たしかに、その説明は間違っていないかもしれない。データを見ても、面接の様子を思い出しても、たぶん近いところを突いている。けれど、僕がひっかかるのは、その説明が正しいかどうかではない。その説明を口にした瞬間、実践家の中で、その患者についての「わからなさ」が、もう終わってしまっているように見えることだ。

理解というのは、たいてい無条件によいものとして扱われる。医療でも、教育でも、組織でも、「相手を理解しましょう」と言われて反対する人はまずいない。相手の背景を理解する。価値観を理解する。思いを理解する。どれも、正しい態度としてすんなり通っていく。

ただ、理解するという行為には、もうひとつの側面がある。相手を、自分の言葉や理論の中に、収めてしまうという側面だ。

「あの人は承認欲求が強い」「発達特性がある」「過去の経験が影響している」。そう説明できた瞬間、僕らは相手に近づいたように感じる。でも、本当にそうだろうか。もしかしたら、理解できないままの相手を、自分が扱える大きさまで、こっそり縮めただけかもしれない。

理解は、近づく手つきと、閉じる手つきの、両方でありうる

僕は作業療法という仕事を長くやってきて、人がどう生きているか、何をして日々を成り立たせているかを見る機会が多かった。そこで痛感するのは、理解というのは、相手の内側に直接入ることではない、ということだ。理解とは、自分の経験や関心や言葉を使って、相手についての、暫定的な構造をつくる作業にすぎない。

僕が長く拠り所にしてきた考え方に、構造構成主義というものがある。乱暴に言ってしまえば、あらゆる理解の枠組みは、目的や状況に応じて選ばれた、ひとつの構成物にすぎない、という立場だ。理論も、診断名も、性格の見立ても、絶対の真実として掲げた瞬間に、途端に息苦しくなる。逆に言えば、理解とは、目的のために仮に組み立てた足場であって、目的が変われば、いつでも組み替えられるべきものでもある。

その足場は、たしかに役に立つ。何も理解しようとしなければ、僕らは他人に近づくことすらできない。支援も、教育も、対話も、相手について何らかの仮説を持つところから始まる。

ただ、理解には、少なくとも二つの方向があるように思う。

ひとつは、少しでも相手に近づくための理解。もうひとつは、相手を説明し終えるための理解だ。

前者は、常に「まだ足りないかもしれない」という気配を残している。後者は違う。後者になると、理解は、いつのまにか支配に近づいていく。わかっている自分と、わかられている相手という、静かな上下関係が知らず知らずのうちにできてしまう。

わかりやすい理解ほど、対立の火種になる

信念対立という現象を考えるとき、僕がいつも盲点になると思っているのは、対立の中には、無理解からではなく、理解のしすぎから生まれているものがあるという点だ。

「私はあの人のことをよくわかっている」と思っている人同士がぶつかると、話がこじれやすい。お互いが、相手について、すでに説明を終えてしまっていると確信しているからだ。それぞれの理解が、それぞれの正しさとして固まっていて、そこに新しい情報が入る余地がない。

わかりやすい理解というのは、たいてい、相手のはみ出す部分を、あらかじめ切り落としてつくられている。だからこそ強い。だからこそ、ぶつかったときに譲れない。

僕はこれを、理解の失敗というより、主観的なレベルにおいて、理解の使いすぎではないかと推論している。理解する能力が足りないのではない。理解を、節度なく使ってしまうのだ。そこには、私の理解は暫定的な理解であるという感度が、ない。

尊重とは、わからなさを手放さないことかもしれない

仮に、だとすれば、相手を尊重するというのは、相手を正確に理解することとは、少し違う営みなのかもしれない。

むしろ、自分の理解から、この人はいつでもはみ出しうる、と認め続けることに近い気がする。理解した内容そのものより、その理解を、どれだけ暫定的なものとして持ち続けられるか。そこに、尊重の質感が宿るのではないか。

とはいえ、これは簡単に結論づけられる話でもない。理解を疑いすぎれば、支援も教育も対話も、そもそも成り立たなくなる。安全にかかわる場面では、わからないなりに、判断しなければならない瞬間もある。

わからないまま尊重することと、理解する責任から逃げることは、たぶん同じではない。ただ、その境界線がどこにあるのか、僕はまだうまく言葉にできていない。

「理解された」と、「わかったことにされた」

実践家の話に戻る。その人の「不安が強くて、支援を拒否している」という説明は、たぶん間違っていない。でも、その説明のあとに、その人が、その患者の理解を更新しにいくかどうか。そこに、違いが出る気がしている。

説明を終えて、そこで立ち止まってしまうのか。それとも、説明を仮の足場にして、また相手の方へ、もう一歩近づいていくのか。

「理解された」と、「わかったことにされた」は、似ているようで、たぶん違う。その違いを、僕はまだ、うまく名づけられずにいる。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学・教授。思想ノートでは、信念対立、作業療法、研究等を手がかりに、分かり合えない世界で人間・社会・自由についてどう考えるかを書いていきます。

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