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「わかった」の内側で、何かが終わっている

2026.07.10
人間を考える

人のことなんて、そんな簡単にわからない。

いきなりこんなことを書くと、「でも、相手を理解することは大切でしょう」と思う人がいるかもしれない。

それは、もちろんそうである。

ぼくだって、他人のことを理解しなくてよいと思っているわけではない。

医療でも教育でも人間関係でも、相手が何を考えているのか、何に困っているのか、どういう状況にいるのかを考える必要はある。

ぼくが言いたいのは、そういうことではない。

「わかった」と思った瞬間に、それ以上わかろうとしなくなることがある。

こっちの方が問題ではないか、という話である。

本当はわかっていないのに、わかっている気分になる

ぼくらは、わからないものがわかるとうれしい。

「あぁ、そういうことか」

「だからあんなことをしていたのね」

「この人はこういう人なんだ」

こんな感じで意味がつながると、なんとなくスッキリする。

これは普通のことである。

けど、ちょっと怖さもある。

本当は読めていないのに、読めている気分になっていることがあるからだ。

以前、ネットで議論しない方がよい理由について書いたときにも、自分は文章をちゃんと読めているつもりでも、実はぜんぜん読めていない可能性があるので、自らの可能性を疑って躊躇った方がよい、とどこかで書いた(たぶん)。

他者理解も同じだと思う。

自分では相手のことをよく理解したつもりでいる。

でも、相手からしたら「いや、ぜんぜん違うんですけど、、、」ということは普通にありえる。

ぼくの経験上、話が通じない、、、と感じる人は、こちらが想定していなかったような意味で受け取っていたりする。

逆もある。

こちらが相手の言葉を、相手が想定していなかった意味で受け取っている可能性もある。

なので、「わかった」と感じたことと、本当に相手のことがわかったことは分けておいた方がよい。

「わかった」は、自分の中で話がつながっただけかもしれない。

それを相手そのものだと思いさだめると、怪しくなる。

世界観はそもそも違う

そもそも、ぼくらは人それぞれ異なる世界観の中で生きている。

ここを始発点にした方がよい。

世界観は、その人が経験を通して確信した大小さまざまな事柄からできている。

だから、同じ時間と空間をともにしていても、世界観が違えば思考・感情・行動は千差万別になる。

同じ出来事を経験しても、同じ意味になるとは限らない。

同じ言葉を聞いても、受け取り方は違う。

「あれぐらい普通でしょ」と思う人もいれば、「そんなのありえない」と思う人もいる。

「あぁ。あなたはそう思ったのね」とさらっと流せるものもあれば、「なんでそんなふうに考えるの?」となることもある。

人間ってほんとうにややこしいですね。

しかも、世界観が人それぞれ異なるということは、絶対に正しい世界観はない。

あるのは、その時々で確からしい世界観だけである。

それだって、ときと場合によっては確かなものではなくなる。

だったら、「あの人はこういう人だ」という理解も同じである。

その時々で確からしい理解はある。

けど、それが絶対に正しいとは限らない。

昨日まではそうだったかもしれない。

こちらが見ていた範囲ではそう見えたのかもしれない。

この状況ではそうだったのかもしれない。

でも、別の場面では違うかもしれない。

なので、人について何かわかったと思っても、「いまのところそう見える」ぐらいにしておいた方が無難である。

「わかった」が強くなると、相手の話を聞かなくなる

問題は、「わかった」という確信が強くなりすぎたときである。

「あの人は承認欲求が強い」

「あの人は不安だから逃げている」

「あの人は頑固だから話を聞かない」

「あの人はこういう性格だからしょうがない」

こんな感じで一回説明できると、その後に起きたことも全部その説明で見たくなる。

すると、相手が「違います」と言っても、

「いや、本人は気づいていないだけだ」

みたいな話になったりする。

これはかなり危ない。

だって、本人が違うと言っているのに、「ぼくの方があなたのことをわかっています」と言っているわけだからである。

なんてドライな・・・というより、わりと怖い話である。

理解することが、いつの間にか相手の話を聞かない理由になっている。

これでは何のために理解しているのかわからない。

世界観はそもそも異なっている。

だから、意味のズレがわかったら、互いに理解を確認しながらすりあわせていけばよい。

「ぼくはこういう意味だと受け取ったけども、どういう意味で言いました?」

そんな感じで確認すればよい。

違っていたら修正する。

また違っていたら、また修正する。

これを繰り返す。

それでよい。

むしろ、「もうわかったから聞かなくていい」となったら、そこで何かが終わっている。

わかりあえないからはじめるしかない

ぼくは以前から、「わかりあえる」という感度を前提にすると、「わかりあえない」ときに簡単にトラブル化すると書いてきた。

世界観は人それぞれ違う。

なので、わかりあえないからはじめるしかない。

これは、他人を理解しようとするな、という話ではない。

わかりあえないからこそ、わかろうとする。

意味がずれていたら確認する。

自分が思っていた相手と違ったら、自分の理解を変える。

それでも理解できなかったら、「理解はできないけども、そういう人もいるのね、、、」と承認すればよい。

何でも理解しなければならないわけではない。

理解不能だけども、そういうことする人もいるんやなぁ、、、で終わることだってある。

それを無理やり理解しようとすると、意味不明すぎてまともな方から消耗することもある。

ここも程度問題である。

わからないままでよいこともある。

わからないけども、付きあえることもある。

わからないけども、納得できることもある。

ぼくらはいくら言葉を尽くしても、わかりえないときはわかりあえない。

けど、わかりあえないことと、やりとりできないことは同じではない。

わかりあえなくても納得することはできる。

だから、「わかった」をゴールにしなくてもよい。

「あぁ、そういうことなのかな」

「いまのところ、ぼくにはそう見える」

「でも違うかもしれない」

そのぐらいでよい。

相手についてわかったと思ったら、そこで終わらない。

ほんとうにそうなのか。

別の見方はないのか。

相手はどう思っているのか。

ちょっとだけ、自分の理解を疑っておく。

世界観はそもそも違うのだから、それぐらいでちょうどよい。

「わかった」の内側で終わらせるのではなく、そこからまた相手とのやりとりをはじめる。

わかりあえないからはじめる。

結局、そこに戻ってくるのだと思う。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学教授。思想ノートでは身近な違和感の奥にある前提を問い直し、分かり合えない世界で人間・社会・自由について考えている。

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