他者のことなんて、ほんとうのところはわからない。
いきなりこんなことを書くと、「でも、話していて『この人の気持ち、わかるなぁ』と思うことはあるでしょう」と感じる人がいるかもしれない。
それは、もちろんそうである。
ぼくだって人と話していて、「あぁ、そういうことだったのね」と思うことは普通にある。
逆に、「ぜんぜんわからん」と感じる人もいる。
なので、他者のことはわからないのに、ときどき「わかった」と感じる。
これ、どういうことなんだろうか。
ぼくは、他者そのものがわかったというよりも、自分の中で相手の言葉や行動の意味がつながったときに、「わかった」と感じるのではないかと思っている。
ぼくらは違う世界観の中で生きている
そもそも、人それぞれ異なる世界観の中で生きている。
世界観は信念の総体であり、信念は経験を通して確信した事柄全般である。
すんごい簡単に言えば、これまで生きてきた中で「世の中ってこういうもんだ」「人間ってこういうもんだ」「自分はこういう人間だ」などと感じていることがごちゃっと集まって、その人なりの世界観になっている。
だから、時間と空間をともにしていても、思考・感情・行動は千差万別になる。
同じことを言われても、うれしい人もいれば、腹を立てる人もいる。
同じ失敗をしても、「まぁしょうがないな」で終わる人もいれば、何年も引きずる人もいる。
同じ出来事を経験していても、そこで何を感じ、何を覚えているかは人によって違う。
なので、「わかりあえる」という感度を前提にすると、「わかりあえない」ときに簡単にトラブル化する。
自分ならこう思う。
普通はこう感じる。
この状況ならこうするはずだ。
そう考えて相手を見ると、相手がそこから外れた瞬間に意味不明になる。
「何でそんなことするの?」
「普通わかるでしょう」
「何回言ったらわかるの?」
こんな感じである。
けど、世界観は人それぞれ違う。
だったら、わかりあえないからはじめるしかない。
「わかった」は、相手の中身を見たという話ではない
では、そんなに世界観が違うのに、なぜ「わかった」と思えるのか。
たぶん、自分の中で話の筋がつながるからである。
例えば、ある人がずっと黙っている。
こちらは「何で何も言わないんだろう」「怒っているのかな」と思っている。
でも、話を聞いていくと、その人は以前、自分の意見を言ったことでひどく責められた経験があったとわかる。
すると、「あぁ、それで何も言わなかったのね」と感じる。
それまで意味不明だった行動が、別の出来事とつながる。
こんなとき、ぼくらは「わかった」と思う。
けど、よくよく考えると、その人の内面を直接見たわけではない。
その人が感じている怖さを、そのままこちらが感じたわけでもない。
ぼくらが受け取ったのは、その人が話した言葉や表情や行動などである。
そこから、「こういうことなのかな」と自分の中で意味をつないでいる。
つまり、「わかった」というのは、相手そのものを自分の中にコピーできたという話ではない。
意味がつながったという話である。
コミュニケーションの難しさは、意味が文脈で変動するところにある。
同じ言葉でも、誰が、誰に、どんな状況で、どういう関係の中で言うかによって意味が変わる。
逆に言えば、わからなかった言葉や行動の文脈が見えてくると、「そういう意味だったのね」と感じることもある。
それをぼくらは理解と呼んでいるのかもしれない。
だから「わかった」は普通に外れる
ただし、ここにはかなり大きな問題がある。
自分の中で意味がつながっただけなら、盛大に間違っていても「わかった」と感じることができるからである。
これはわりと怖い。
例えば、相手が黙っている。
「この人は自信がないから黙っているんだ」
そう理解したとする。
本人に聞いたら、「いや、話す必要がないと思っただけです」と言われるかもしれない。
あら違った、である。
ぼくの経験上、話が通じないと感じる人は、こちらが想定していなかったような意味で受け取っていたりする。
これはたぶん、お互いさまである。
こちらだって、相手がまったく想定していない意味で受け取っている可能性がある。
だから意味のズレがわかれば、互いに理解を確認しながらすりあわせていけばよい。
「あぁ、そういう意味だったのね」
「いや、そうではなくて、こういう意味です」
「なるほど。じゃあこういうこと?」
こんな感じで、だましだましやるしかない。
ところが、「わかった」という確信が強くなりすぎると、これができなくなる。
「あなたは本当はこう思っている」
「いや、違います」
「いやいや、自分では気づいていないだけだ」
ここまでいくと怪しさマックスである。
本人が違うと言っているのに、それでも自分の理解の方が正しいと思いはじめたら、理解というより世界観の押しつけになっている。
自分にとって正しく感じるからといって、それを他者に押しつける理由はない。
わかりあえないけども、やりとりはできる
そういうと、「だったら結局、他者なんて理解できないのでは」と思うかもしれない。
それは確かにその通りで、ぼくらはいくら言葉を尽くしても、わかりえないときはわかりあえない。
けど、わかりあえないことと、人と人がやりとりできないことは別である。
わかりあえなくても納得することはできる。
「自分にはぜんぜんそう思えないけども、あなたはそう感じるのね」
これで十分なこともある。
相手が根も葉もない噂を信じているとか、自分には理解不能な行動をしているとか、そんなこともある。
その場合、「理解はできないけども、そういう人もいるのね」と承認すればよい。
何でもかんでも完全に理解しようとすると、意味不明すぎてまともな方から消耗する。
よーわからんけど、そう感じちゃったんだね。
ひとまず、これでもよい。
世界観がそもそも違うなら、完全に同じになる必要はない。
むしろ「違う」ということがわかったなら、それはそれで前進である。
何が違うのかすらわからない状態よりはるかによい。
「わかった」は仮置きぐらいでちょうどよい
ぼくらは他者の内面そのものを見ることはできない。
だから、相手について何もかもわかることはたぶん無理である。
けど、何もわからなければ関われない。
なので、そのとき聞いた話や、見えた行動や、これまでの関係などを手がかりに、「ひとまずこういうことなのかな」と考える。
そして相手とやりとりする。
違ったら修正する。
また違ったら、また修正する。
それでよいと思う。
完璧な文脈の読解だって不可能である。
話すことによって話すことが変わることもあるし、昨日と今日で本人の考えが変わることだってある。
人間なんてそんなものである。
だから、「あなたのことはわかっている」と言い切るよりも、「いまのところ、ぼくはこう理解している」ぐらいがちょうどよい。
相手から「違う」と言われたら、「あーそう感じたのね」と自分の理解を変えればよい。
わかりあえないからはじめる。
それでも、意味のズレを確認しながら、だましだましやりとりすることはできる。
他者理解なんて、そのぐらい不安定なものでよいのではないか。
むしろ、完全にわかったと思いさだめるよりも、その方がよほどましだとぼくは思っている。