対人支援の場で、相手がふっと表情を緩めて、「やっとわかってもらえた気がします」と言うことがある。
研究のインタビューでも、似たような瞬間に出会う。こちらとしては、相手の経験を確かめようとして質問を重ねているだけなのだが、ある言葉を返した途端、「そう、それです」と声の調子が変わる。
何が起きたのかは、外からは見えない。本当に理解できたのかもしれないし、たまたま言葉が重なっただけかもしれない。それでも、その場には、それまでとは少し違う空気が残る。相手の経験に、こちらの言葉が少しだけ触れたような感覚である。
僕は、こういう場面に出会うたび、「人は本当に他者を理解できるのだろうか」と考える。
他者の内面には、原理的に触れることができない。相手が感じた痛みを、そのまま僕が感じることはできない。相手の記憶を、相手と同じ場所から思い出すこともできない。どれだけ丁寧に話を聞いたとしても、僕が受け取れるのは、その人が語った言葉や表情、沈黙、身ぶり、これまでしてきた行為の一部である。
そう考えると、「他者を理解する」という言い方そのものが、少し傲慢にも思えてくる。
実際、「わかります」と簡単に言われて、かえって傷つく人もいる。「あなたに何がわかるのか」。そう感じるのは、もっともなことだと思う。
僕自身も、相手を理解したつもりになり、自分が持っている理論や経験の中へ、その人を無理に収めてしまうことには警戒してきた。
けれど、「他者は理解できない」と言い切ってしまうことにも、どこか引っかかりが残る。
なぜなら僕らは、実際の生活の中で、「わかった」と感じることがあるからだ。
「理解できない」と言えるのは、なぜなのか
そもそも、「他者を本当には理解できない」と言うとき、僕らは何を基準にそう判断しているのだろう。
理解できないと言うためには、少なくとも、「理解するとはどういうことか」について、何らかの感覚を持っていなければならない。
もちろん、理解というものを知っているからといって、他者を完全に理解できるとは限らない。空を飛ぶとはどういうことかを知っていても、自分の身体だけで空を飛べるわけではない。
それでも、「理解できない」という言葉が意味を持つためには、僕らはすでに、理解したと感じた経験や、理解できなかったと感じた経験を持っているはずである。
日常では、「ようやく意味がわかった」「事情を聞いて腑に落ちた」と感じることがある。反対に、「何を言っているのかわからない」「わかったつもりだったけれど、全然違っていた」と気づくこともある。
つまり、「理解は本当に可能なのか」という哲学的な問いよりも前に、僕らの生活の中には、すでに「理解した」「理解できなかった」という経験がある。
ここで、僕は二つのことを分けて考えたほうがよいのではないかと思う。
一つは、相手の内面を、そのまま自分の中に再現すること。もう一つは、相手の言葉や行為が、自分の中で意味のあるつながりを持つことだ。
もし理解を前者の意味で考えるなら、他者理解は、おそらく不可能である。
相手と同じ身体になり、同じ時間を生き、同じ記憶を持つことはできない。それどころか、人は、自分自身の内面についてさえ、いつもよくわかっているわけではない。
なぜ、あのときあれほど腹が立ったのか。なぜ、何年も前に言われた一言だけが、今も忘れられないのか。そのときは説明できなかったことが、ずっとあとになって、別の意味を持って見えてくることもある。
自分にさえ完全には見えない内面を、他者がそのまま写し取れると考えるのは、やはり無理がある。
けれど、日常で「わかった」と言うとき、僕らはいつも、相手の内面を完全に再現したと言いたいわけではない。
これまで理解できなかった沈黙が、過去の出来事とつながる。なぜ拒否するのかわからなかった人の行動が、その人が守ろうとしていたものを知ることで、別の意味を持つ。ばらばらに見えていた言葉や行為が、一つの流れとして読めるようになる。
そのとき、僕らは相手の内面を手に入れたわけではない。
ただ、それまで理解できなかった言葉や行為が、「そういうことだったのか」と、自分の中でつながる。
理解とは、相手の内面をそのまま写すことではなく、相手についての意味のつながりが、自分の側に成立することなのかもしれない。
完全に同じでなくても、ずれはわかる
僕らは、自分の理解が間違っていたことにも気づく。
「そんな意味で言ったんじゃない」「わかってくれたと思ったのに」「前はこう思っていたけれど、話を聞いて考えが変わった」。
こうしたやり取りは、僕らの理解が完全ではないことを示している。ただ、別の見方をすると、ずれに気づけるということは、何も共有されていなかったわけではないとも言える。
たとえば、二人が同じ出来事について話している。一人は「あれは裏切りだった」と言い、もう一人は「守るためにしたことだった」と言う。出来事に与えている意味は、まったく違う。
それでも、「何について意見が食い違っているのか」を話し合えるなら、二人のあいだには、少なくとも、その違いを違いとして確かめられるだけの共通部分がある。
理解するためには、同じ経験をし、同じ感情を持ち、同じ意味を見ていなければならない。もしそう考えるなら、僕らは最後まで孤立したままである。
けれど、完全な一致を理解の条件から外すと、少し見え方が変わる。
言葉の意味が、すべて同じでなくてもよい。経験の重さが、ぴたりと重ならなくてもよい。違いがあることを知り、その違いについてやり取りできる程度に、何かが共有されていればよい。
むしろ、ずれが見つかることは、理解の失敗だけを意味するのではないのかもしれない。
何も通じていなければ、「そこは違う」と言うことすら難しい。どこが違うのかを示せるのは、少なくとも、どこかまでは近づけていたからでもある。
そう考えると、理解は、「わかった」か「わからない」かの二択ではなくなる。
少し近づく。どこかでずれる。言い直す。また話を聞く。
そうした往復の中で、一時的に「今はこう理解している」という感覚が生まれる。
僕がこれまで見てきた「わかってもらえた」という経験も、おそらく、そのようなものだったのではないかと思う。
相手の内面が、そのままこちらへ移ってきたわけではない。こちらが返した言葉によって、自分の経験を乱暴に別のものへ変えられなかった。これまでうまく言えなかったことに、少し近い形が与えられた。あるいは、その理解をもとに返された言葉が、次の言葉を話しやすくした。
「わかってもらえた」という言葉は、内面が一致したことの証明ではない。
少なくとも、その瞬間、自分の経験が大きく壊されずに受け取られた。そう感じられた、ということなのかもしれない。
理解は、確信として生まれる
僕が長く考えてきた構造構成主義や信念対立解明アプローチでは、人が経験する意味や価値は、身体、関心、目的、状況などとの関係の中で成り立つと考える。
この考え方に立つなら、理解もまた、相手の内側にある正解を取り出すことではない。
相手の言葉や行為に向き合う中で、「これは、こういうことなのではないか」と、一つの意味のまとまりが自分の中に生まれる。
その意味では、理解は、まず確信として経験される。
「そういうことだったのか」。
そう思えたとき、人は理解したと感じる。
ただ、この言い方には危うさもある。
理解が自分の中の確信なのだとすれば、思い込みと何が違うのだろう。自分の中で筋が通っただけなら、相手を大きく誤解していても、「理解した」と思えてしまうのではないか。
実際、そのようなことは起こる。
一度「わかった」と思うと、人は、そのあとに出てくる言葉を受け取りにくくなることがある。
相手が「違います」と言っているのに、「いや、本当はこう思っているはずだ」と言い始める。支援者が、本人の言葉よりも、自分の見立てを信じる。家族が、「あなたのことは私がいちばんよく知っている」と言って、本人の選択を退ける。
理解したという確信は、相手に近づくきっかけになる。しかし同時に、その確信が強くなりすぎると、相手の新しい言葉を見えなくする。
理解は、誤解と無関係ではない。
では、自分の理解が妥当なのか、どう確かめればよいのだろう。
相手の内面そのものに触れられない以上、完全に照合することはできない。僕の理解と、相手の「本当の気持ち」を横に並べて、一致率を測ることもできない。
相手が「その通りです」と言ったとしても、それが本当に納得したからなのか、説明に疲れたからなのか、立場の差があって否定できなかったのか、外から決めることはできない。
ここには、最後まで限界が残る。
けれど、だからといって、何も確かめられないわけではない。
自分の理解を相手に返したとき、相手は「違う」と言えるだろうか。言い直したり、付け加えたりできるだろうか。
その理解によって、これまでばらばらに見えていた言葉や行為が、少しつながって見えるだろうか。それとも、自分の説明に合わない部分を無視しなければ、その理解を保てないだろうか。
時間がたち、状況が変わったとき、自分の理解を組み替えられるだろうか。
理解の妥当性は、「わかった」と感じた瞬間の確信の強さだけでは決まらない。
相手からの訂正を受け取れること。新しい言葉によって、自分の見方を変えられること。そして、その理解が相手との関係や生活に何をもたらしたのかを、あとから振り返れること。
理解は、そうした過程の中で、少しずつ確かめられていくのだと思う。
もちろん、これも万能ではない。
相手の言葉を尊重すれば、必ず正しい理解に近づけるわけではない。人は、自分の経験をうまく言葉にできないことがある。そのときには納得していても、あとになって、受け取り方が変わることもある。
また、支援者と対象者、教師と学生、上司と部下のように、立場に差がある場合、「違う」と思っていても、それを言えないことがある。
だから、理解には最後まで保証がない。
理解は、到達点ではない
結局、僕らは他者を理解できないのだろうか。
相手の内面を、そのまま自分のものにするという意味なら、おそらくできない。
けれど、相手の言葉や行為が、自分の中で意味のあるつながりを持ち、その理解をやり取りの中で確かめ、必要に応じて変えていくことなら、僕らは日常の中で何度も経験している。
「他者は理解できない」という考えと、「わかってもらえた」という経験は、どちらか一方を否定しなければならないものではない。
他者を完全には知ることができない。それでも、不完全なまま、人と人とのあいだに何らかの意味が生まれることはある。
僕が大切だと思うのは、「理解できるか、理解できないか」を決めることではない。
自分は、どのようなときに「わかった」と感じるのか。その理解によって、何が見えるようになり、何が見えなくなるのか。
相手から違う言葉が返ってきたとき、今の理解を守ろうとするのか。それとも、いったん崩して、考え直せるのか。
理解は、到達点ではない。
相手は、いつでもこちらの理解からはみ出す。昨日まで納得していた説明が、今日の相手には当てはまらないこともある。
それでも僕らは、何もわからないままでは、人と関わることができない。
その時点で受け取った言葉や表情、沈黙や行為から、ひとまず、その人についての意味を組み立てる。そして、その理解をもとに、次の言葉を返す。
考えてみれば、それは、少し賭けに似ている。
外れるかもしれない。自分では寄り添ったつもりでも、相手を傷つけるかもしれない。善意で近づいたつもりが、相手から見れば、押しつけになっているかもしれない。
それでも、理解しようとすることを完全にやめれば、相手へ向かう道も細くなってしまう。
だから僕は、「わかった」という言葉を捨てたいわけではない。
ただ、その言葉を口にしたとき、少しだけ立ち止まりたい。
いま自分の中に生まれた理解は、相手そのものではない。次に返ってくる言葉によって、簡単に崩れるかもしれない。
それでもよいのだと思う。
理解を完成させようとするのではなく、変わる余地を残しておく。自分の理解から相手がはみ出したとき、そのはみ出しを間違いとして片づけず、もう一度話を聞く。
そのくらいの不安定さを抱えているほうが、他者を理解しようとする姿勢としては、むしろ誠実なのかもしれない。