不安なんて、なくならない。
いきなりこんなことを書くと、「でも、安心して生きたいじゃないか」と思う人がいるかもしれない。
それは、もちろんそうである。
ぼくだって安心して生きたい。
できることなら、面倒なことも、しんどいことも、心配なこともなく、こころ楽しく生きたい。
けど、人生は思い通りにならない。
もうこれにつきる。
なので、安心を「不安がなくなること」と考えてしまうと、たぶんいつまでたっても安心できない。
未来は未定だからこそ、未来だからである。
未来のことなんて、わからない
ぼくたちは未来を想像して不安になる。
これは人間ならどうしてもやりがちなことである。
仕事はこのままで大丈夫なのか。
病気にならないか。
家族に何か起こらないか。
お金は足りるのか。
あの判断は間違っていなかったのか。
こう書き出すと憂鬱になってくるので、ここで打ち止めするけども、探せば心配することなんていくらでもある。
でも、未来とはまだ現実として起こっていない事柄である。
まだ実際には何も起こっていないのに、それを想像してあれこれ不安になる。
ぼくも過去に何回もやったことがある。
けど、過去に経験したことと同じことが、これからも起こると断定できる存在論的な根拠はどこにもない。
未来は未定だからこそ、未来なのだ。
しかも、現実は個人の勝手な想定をあっさり超えてくる。
どれだけ用意周到に準備していても、希望的観測も想定もあっさり否定されることがある。
サクッとしかも完膚なきまでに、である。
それはつらい。
しんどい。
けどね、そんな時だって人生は続く。
なので、未来が全部わかれば安心できる、という条件を置いてしまうと、かなり厳しい。
そんな日はたぶん来ないからである。
不安がないから安心、でもない
では、不安がなければ安心なのか。
これも怪しい。
たとえば、「どうなっても知らん」と全部あきらめたら、心配は減るかもしれない。
他人のことなんて一切気にしない。
仕事がどうなってもいい。
将来どうなってもいい。
失敗しても何とも思わない。
ここまでいけば、たしかに不安はかなり減りそうである。
でも、それを安心と呼ぶのかというと、ぼくはちょっと違うと思う。
そもそも心配するということは、それが自分にとってどうでもよくないということでもある。
仕事の先行きが心配なのは、生活に関係するからである。
家族が心配なのは、大切だからである。
失敗が怖いのは、うまくやりたいからである。
もちろん、不安には病気や身体の状態などいろんな要因が関係するので、何でも「大切だから不安なのだ」ときれいに説明できるわけではない。
それも程度問題である。
けど、不安を全部なくすために、何も気にしない人になる必要もない。
それでは、安心するために人生そのものをどうでもよくするみたいな話になってしまう。
なんだか変である。
「大丈夫」と言われても、大丈夫とは限らない
人が不安そうにしていると、「大丈夫ですよ」と言いたくなる。
これはよくわかる。
相手を安心させたいからである。
ぼくだって言うことがある。
けど、「大丈夫」と言われたから大丈夫になるわけではない。
だって、本当に大丈夫かどうかなんて、未来のことなのでわからないからである。
それなのに、「絶対大丈夫」「心配しなくていい」と言い切られたら、言われた側は困ることもある。
「いや、心配なんですけど」と言いにくくなるからだ。
しかも、安心させるために、本人が考えなくていいように全部こちらで決める。
細かいことを知らせない。
「こっちに任せておけばいい」と選択肢を減らす。
これも程度問題ではある。
しんどいときに誰かへ任せた方が楽なことはあるし、何でも自分で判断しなければならないわけでもない。
けど、選択肢を徐々に奪っていってコントロールするというのは、ぼくが人間関係の記事で何度も書いてきた危ない構造である。
実質的な選択の自由がない状態は、まじ辛い。
安心したように見えても、実際には「もう自分にはどうしようもない」となっているだけかもしれない。
だったら、それは安心というより諦めに近い。
安心するには、選択肢が残っていた方がよい
ぼくは、安心には選択肢が関係していると思っている。
未来がどうなるかわからない。
それはしょうがない。
けど、何か起きたときにどうするかという選択肢がある。
これだけでもかなり違う。
わからないことがあったら聞ける。
困ったら相談できる。
やってみてダメならやめられる。
別の方法に変えられる。
一人でどうにもならなければ助けを求められる。
しんどければ一回休める。
こういう選択肢が残っている方が、何が起きても「もう終わり」となりにくい。
逆に、これしかない。
絶対に失敗できない。
逃げられない。
誰にも相談できない。
自分で全部どうにかしなければならない。
こうなるとしんどい。
「〜しなければならない」は、しんどさの増幅装置になりやすい。
なので、不安をなくそうと頑張るよりも、何かあったときの選択肢を増やした方がよいことがある。
それだけで未来が確定するわけではない。
でも、未来が思い通りにならなくても、次に何かできる余地は残る。
ぼくは、その余地が安心にはかなり大切なんじゃないかと思う。
心配なら、できることをやればよい
将来に対する心配は、多くの場合で無駄である。
明日の天気だって外れることがあるんだから、遠い未来の心配なんていくら予想してもほぼハズレる。
ほんとうに心配なことがあるならば、心配しているよりも行動すべしである。
お金が心配なら備える。
健康が心配なら、できる範囲で生活を整える。
わからないことが心配なら調べる。
判断に迷うなら相談する。
もちろん、行動すれば安心できるという話ではない。
何をしても心配なときはある。
そもそも動けないぐらい不安が強いときだってある。
そういうときは休めばよいし、誰かの力を借りたらよい。
ここでも「不安なら行動しなければならない」にすると、また話がおかしくなる。
何もしない。
保留する。
逃げる。
人に任せる。
それも立派な選択肢である。
大切なのは、不安があることそのものではなく、不安によって「もう何もできない」と思い込む状態を極力避けることなのだと思う。
不安があっても、まぁ何とかなる
安心とは何なのか。
ぼくにもほんとうのところはよくわからない。
けど、不安が一切ない状態ではないと思っている。
人生は思い通りにならない。
現実は勝手な想定を超えてくる。
他人も思い通りにならない。
自分だって思い通りにならない。
まぁしょうがない。
それでも、何か起きたらそのとき考える。
わからなければ聞く。
無理なら助けてもらう。
ダメなら別の方法を考える。
しんどければ休む。
それも無理なら、いったん逃げてもよい。
そういう選択肢が残っていて、「まぁ何かあっても、そのとき何とかするしかないな」と思える。
そのぐらいが安心なのではないか。
不安があるから安心できていない、と思わなくてもよい。
心配なものは心配なのである。
人間なんだから。
不安を抱えながらでも、まだ自分の人生に関われる。
ほんとうに困ったときに、誰かに「ちょっと助けて」と言える。
そして、そう言ったときに誰かがいる。
ぼくは、それで十分なんじゃないかと思っている。