医療や教育の場では、ときどき「大丈夫ですよ。不安にならなくていいです」と声をかける場面がある。相手を落ち着かせたい。少しでも心配を軽くしたい。その言葉は、たいてい善意から出ている。僕も、誰かが先の見えない状況にいると、何か安心できる言葉を渡したくなる。
けれど、「不安にならなくていい」と言われても、不安は簡単には消えない。むしろ、相手が感じている不安を受容、共感できていないように感じて、かえって言葉を出しにくくなることもある。「大丈夫」と言われたあとで、何が大丈夫なのかを聞き返せなくなることもあるだろう。
安心させようとした言葉が、不安を語れない空気をつくる。
そんなことがあるのではないか。
不安がなくなれば、安心なのか
不安は、ふつう、減らすべきものとして扱われる。医療では不安を軽減する。教育では安心して学べる環境をつくる。職場では、心配や異論を口にしても不利益を受けない関係が求められる。どれも必要なことであり、その方向を否定する理由はない。
強い不安のために眠れない。考えがまとまらない。外に出られない。何度確認しても心配が止まらない。そうなると、不安はその人の生活を狭めていく。不安を和らげる支援や治療が必要な場面は、たしかにある。
ただ、「不安が減ること」と「安心できること」は、本当に同じなのだろうか。
不安がない人を思い浮かべてみる。将来に何の心配もない人。失敗をまったく恐れない人。大切な人を失う可能性を考えても、何も感じない人。その人は、安心しているのかもしれないが、そうとは限らないのではないか。
もう何をしても変わらないと諦めているのかもしれないし、結果に関心を失っているのかもしれない。危険を知らされていないだけかもしれない。自分で考えることを誰かに預け、心配しなくて済んでいる場合もあるだろう。
外から見れば、どれも穏やかに見える。不安を口にしないという点では同じだ。けれど、その内側で起きていることは、かなり違う。
そう考えると、不安がないことは、それだけでは安心の証拠にならない。
不安は、未来を大事にしているときに生まれる
そもそも、人はなぜ不安になるのだろう。
未来がまだ決まっていない。自分にとって大切なものがある。それが損なわれる可能性を想像できる。そして、結果を完全には支配できない。こうした条件が重なると、僕らの不安は生じやすくなる。
試験の結果が不安なのは、その結果がどうでもよくないからだ。家族の手術が心配なのは、その人を失いたくないからだ。新しい仕事を前に落ち着かないのは、これからの生活を大事に思っているからだ。
もちろん、不安のすべてに、そんなきれいな理由があるわけではない。過去の経験によって危険を強く感じることもある。身体の状態や病気の影響で、不安が大きくなることもある。理由を探せば必ず意味が見つかる、という話ではない。
それでも、不安という経験の奥には、未来が自分と無関係ではない、ということが含まれている場合がある。だとすると、不安を完全になくすという目標は、少し不思議に見えてくる。
未来がどうなっても構わないと思えれば、不安は減るかもしれない。何も失いたくないと思わなければ、心配する必要もない。自分には何もできないと諦めれば、迷いも小さくなることがある。
けれど、僕らが本当に望んでいるのは、そういう無不安なのだろうか。たぶん違うと思う。
不安をなくしたいという願いの中には、本当は「大切なものを失わずにいたい」「この先も何とか生きていけると思いたい」という願いがある。ところが、不安だけを取り除こうとすると、その不安を生み出していた将来への希望まで、邪魔なものとして扱ってしまうことがある。
安心は、未来が確定することではない
安心という言葉には、何も悪いことが起こらない状態、という響きがある。けれど、未来がある限り、何も起こらないことを確実にはできない。病気になる可能性は残る。人間関係は変わる。仕事も制度も、自分の身体も、思いどおりにはならない。
未来を完全に確定できなければ安心できないのだとしたら、人はほとんど安心して生きられないことになる。
そもそも、安心はいかなる条件のもとで成立するのだろうか。
安心とは、未来の不確実性が消えた状態ではなく、不確実なことが起きても、自分と未来との関係が切れていないと感じられる状態ではないか。
この先が完全にわからなくても、今わかっていることは説明されている。わからないことは、わからないと言ってもらえる。疑問が生じたら質問できる。必要なら選び直せる。自分だけでは難しいときに、助けを求められる。何か起きたあとも、見捨てられない。
そこには、確実さはない。それでも、自分がただ出来事に運ばれていくだけではないという感覚が残っている。僕は、安心を支えるのは、この感覚ではないかと思っている。
たとえば、手術を前にした人は、十分な説明を受けても不安かもしれない。危険がゼロになるわけではないからだ。それでも、担当する人が質問に答え、変化があれば対応し、困ったときには相談できるとわかっている。そのとき、不安は残っていても、不安だけに支配されずにいられることがある。
初めての場所へ向かうときも似ている。道に迷わない保証があるから安心なのではない。迷ったら地図を見られる。誰かに聞ける。戻ることもできる。そう思えるから、知らない場所へ足を進められる。
安心は、危険が消えたことよりも、危険や不確実さに対して、まだ応答する余地があることに関係しているのかもしれない。
こう考えると、安心は心の中だけにある状態ではなくなる。自分、未来、周囲の人、使える情報、選べる行動、そしてそれらの関係の中で成り立つものになる。不安をその人の内側だけの問題と見れば、支援はその人を落ち着かせる方向へ向かいやすい。けれど、安心が関係の中で成り立つなら、変えるべきなのは感情だけではない。説明の仕方や、選択の余地や、助けを求めたときに応じてもらえる関係も含まれる。
「安心させる」が、人の力を奪うとき
このように考えると、「安心させる」という行為も、少し違って見えてくる。
不安そうな人に、「心配しなくて大丈夫」と言う。細かいことを知らせると余計に不安になるから、説明を減らす。迷わなくて済むように、こちらで決めておく。それで不安が軽くなることはある。情報が多すぎると混乱する人もいるし、判断を一時的に誰かへ委ねることで休めることもある。すべてを自分で決めることだけが望ましいわけではない。
ただ、その人が知ること、尋ねること、選ぶことまで失うと、安心は依存に近づいていく。
「大丈夫です」と言う側だけが状況を知っている。「こちらに任せてください」と言う側だけが決められる。その関係の中で、不安が表に出なくなったとしても、それは安心したからではなく、不安を語っても仕方がないと学んだからかもしれない。
医療でも、教育でも、組織でも、人の不安は、ときに扱いにくい。説明には時間がかかる。質問が増える。決まったことが進まなくなる。だから僕らは、相手のためと思いながら、実は場を円滑に進めるために、不安を早く収めたくなることがある。
これは、僕自身にも向けておかなければならない問いだ。安心を与えているつもりで、相手が不安を言葉にする機会を奪っていないか。相手のために決めているつもりで、自分が不確実さに付き合う負担を減らしていないか。
安心は、誰かが上から渡せるものではないのだと思う。
不安を残せばよい、という話でもない
ここまで書くと、不安には意味があるのだから、そのまま抱えて生きればよい、と聞こえるかもしれない。そうではない。
不安が大きくなりすぎると、未来を考えるための力そのものが失われる。選択肢が見えなくなる。助けを求めることも難しくなる。まだ起きていない危険が、すでに起きていることのように迫ってくる。
そのとき必要なのは、不安を肯定する言葉ではなく、危険を減らし、身体を休め、生活を支え、必要な治療や支援につなぐことだ。不安を軽減することは、人が再び考えたり、選んだり、誰かとかかわったりできるようになるための、大事な方法である。
目的は、不安をゼロにすることではない。不安によって失われていた、生きるための動きを取り戻すことだ。
ただ、この考えにも注意がいる。「不安があっても関われること」を安心と呼ぶと、つらい人に、もう一度頑張ることを求めてしまうかもしれない。不安があっても前へ進め。助けを求めろ。選び続けろ。そう言われたら、それは別の重さになる。
人には、何もしないで休む時間もいる。決めないこともある。誰かに任せることも、いったん離れることもある。未来への関与とは、いつも積極的に行動することではない。今は動けないと伝えること。判断を保留すること。誰かの手を借りること。自分を守るために、その場から退くことも含まれる。
安心とは、自分で何でもできるという感覚ではなく、自分でできないときにも、関係が途切れないという感覚なのかもしれない。
心配しながらでも、まだ手を伸ばせる
不安のない人生は、たぶんない。大切なものがあり、未来がまだ決まっておらず、自分の力だけではどうにもならないことがある限り、不安は何度でも生まれる。
それをすべて消そうとすると、僕らは、不確実さだけでなく、大切にしているものまで手放すことになるかもしれない。
だから今の僕は、安心を、不安の反対側に置かないほうがよいと思っている。
安心とは、何も心配しなくなることではない。心配している自分を否定しなくてよいこと。わからないことを、わからないと言えること。必要なときに立ち止まり、助けを求め、選び直せること。そして、うまくできないときにも、ひとりで取り残されないこと。
心配は、まだ残っている。それでも、心配しながら、まだ世界に手を伸ばせる。
安心とは、そういう感覚なのかもしれない。