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役割を取り除いた先に、「本当の自分」はいるのか

2026.07.16
人間を考える

「本当の自分を取り戻したい」という話がある。

仕事では仕事の顔をする。

家では家族として振る舞う。

立場が上になれば、それらしく振る舞わなければならない。

専門家なら専門家らしく、親なら親らしく、上司なら上司らしく、みたいな感じである。

そうやっていろんな役割を引き受けていると、「どれが本当の自分なんだろう」と思うことがある。

これは、よくわかる。

けども、ぼくは「本当の自分を取り戻す」という話を聞くと、ちょっと怪しいなと思う。

だって、取り戻すというからには、役割とか他人の期待とか社会の影響とかを全部取り除いた先に、何にも影響されていない純粋な自分がいることになる。

ほんとうにそんなものがいるのだろうか。

ぼくは、たぶんよくわからないと思っている。

どれも本当の自分ではないのか

そもそも、人間なら誰でも人によって態度を変える。

それも程度問題である。

職場で上司と話しているときと、仲のいい友達と飲んでいるときで、まったく同じ話し方をする人の方が少ないだろう。

家族にしか見せない顔もある。

仕事でしか出てこない自分もいる。

一人でいるときの自分もいる。

すると、「人によって態度を変えている自分は偽物で、一人でいるときだけが本当の自分だ」と思う人がいるかもしれない。

でも、なぜそうなるのだろう。

一人でいる自分だけを特権的に「本当」とする根拠はない。

仕事をしている自分も本当だし、家族といる自分も本当だし、一人でダラダラしている自分も本当である。

どれも本当なのだ。

ぼくらの本当の気持ちっていうのは、自分の欲望と対になっている。

そして欲望は、その時々により変わっていく。

仕事では「ちゃんと成果を出したい」と思う。

家に帰ったら「もう何もしたくない」と思う。

休日には「どこかに出かけたい」と思ったのに、朝になったら「やっぱり寝ていたい」と思う。

そんなことは普通にある。

その本当の中には、矛盾する欲望があったり、なかなか変わらない欲望があったり、ちょっとしたことで変わってしまう欲望もある。

結局どれも本当で、どれもその時々で変わっていく可能性がある。

だとしたら、特定の気持ちだけを取り出して「これこそ本当の自分だ」とするのはわりと難しい。

本当の自分っていうのは、実は突き詰めていくとよくわからないのである。

役割にあわせて振る舞う自分も、自分である

役割についても同じである。

ぼくにもいろんな役割がある。

その役割によって、考えることも変わるし、振る舞いも変わる。

これは別に、自分を偽っているわけではない。

役割が違えば、目的と状況が違うからである。

目的と状況が違えば、行動が変わるのは当たり前だ。

例えば、仕事で責任ある立場にいるなら、自分が気乗りするかどうかとは関係なく判断しないといけないことがある。

「本当のぼくはこんなことを言いたくない」と思っても、役割上、言わなければならないこともある。

逆に、その役割から離れたら、そんなことは秒速で忘れて好きに過ごせばよい。

仕事は仕事である。

家は家である。

そこで振る舞いが違っても別におかしくない。

むしろ、すべての場所でまったく同じ自分でいようとする方が無理ではないか。

ぼくたち人間は首尾一貫したいという欲望があるので、いつでもどこでも同じ自分でいなければならないと思っちゃうことがある。

けど、首尾一貫性へのこだわりって仮想現実でして、そこにたいした存在論的根拠はない。

状況が違えば、違ってよい。

人が違えば、違ってよい。

昨日と今日で考えが変わったってよい。

役割によって違う自分が出てくるからといって、それで偽物になるわけではない。

問題は、役割をもつことではない

では、役割に疲れている人は「全部本当の自分なんだから、そのまま我慢しろ」ということなのか。

もちろん、そういう話ではない。

役割によってしんどくなることは普通にある。

上司なんだからこうするべき。

親なんだからこうするべき。

専門家なんだからこうあるべき。

社会人なんだからこのぐらい我慢するべき。

こんな感じで「〜するべき」「〜しなければならない」がどんどん増えていくとしんどい。

「〜するべき」「〜しなければならない」という思い込みは、しんどさの増幅装置のようなものである。

自分の生き方の可能性を狭めて、いろんな苦悩をもたらす。

なので、役割がしんどいなら、役割との付き合い方は変えたらよい。

何でもかんでも期待に応えなくてもよい。

課せられた役割を果たしているなら、それ以上に「心からこの役割を愛している自分」まで求めなくてよい。

仕事にやる気がなくたって、必要な仕事をして結果を出しているなら、それで何とかなることも多い。

その人にはその人の人生がある。

役割は人生の一部ではあるけども、人生のすべてではない。

だから、役割に自分を全部明け渡す必要はない。

「この役割は引き受ける。でも、ここまではやらない」

そんな線を引いてもよい。

役割が本当に害になっているなら、可能な範囲でさくっと距離をとることを考えたってよい。

なんてドライな・・・と思うかもしれない。

けど、役割に押しつぶされて人生そのものがしんどくなるよりは、はるかによいではないか。

「自分らしく生きろ」もしんどい

一方で、最近は「もっと自分らしく生きよう」という話もよくある。

これも程度問題だと思っている。

「他人の期待に応えなくていい」

「自分の本音を大切にしよう」

「本当の自分として生きよう」

こういう話は、役割に縛られてしんどい人にとって救いになることがある。

それはよい。

けども、「自分らしく生きなければならない」になった瞬間に、また話がおかしくなる。

そもそも、その自分らしさが何なのかよくわからないからである。

今の自分が本音だと思っていることだって、本当に最後まで変わらない本音かどうかわからない。

今日は仕事を辞めたい。

明日はもうちょっと続けてもいいと思う。

家族の期待なんてどうでもいいと思う日もあれば、期待に応えられたことがうれしい日もある。

どれも本当なのだ。

なのに、「他人に合わせている自分は偽物」「本音に従う自分だけが本物」と決めてしまうと、かえって自分の生き方の可能性を狭める。

それでは「自分らしく生きる」が、また新しい「〜するべき」になる。

はぁしんど、である。

役割を全部取り除く必要はない

本当の自分を知りたい。

そう思うこと自体は別に悪くない。

自分が何をしたいのか。

何がしんどいのか。

何なら引き受けられるのか。

何からは距離をとりたいのか。

そういうことを考えるのは大切である。

けど、その答えを「役割を全部取り除いたところ」に探す必要はないと思う。

役割を取り除いても、たぶん最後に純粋な自分がポツンと残るわけではない。

そもそも、ぼくらは最初から他人と関わりながら生きている。

いろんなことを経験して、いろんな人に影響されて、失敗したり、考え直したりしながら生きている。

その中で欲望だって変わる。

考え方だって変わる。

それでよい。

私たちは誰でもそれぞれ固有の生を生きている。

だから、役割があるから偽物ということでもなければ、役割から離れたから本物になるという話でもない。

仕事をしている自分もいる。

家族といる自分もいる。

一人でいる自分もいる。

人に期待されてうれしい自分もいれば、もうほっといてくれと思う自分もいる。

どれも本当である。

だったら、その時々の目的と状況にあわせて、自分がどう生きたいかを考えていけばよい。

今まで大事だった役割が、いらなくなることもある。

嫌だった役割が、いつの間にか大切になることもある。

まぁ、そのぐらいふわふわしたものである。

本当の自分を見つけてから生きる必要なんてない。

だって、本当の自分が何なのか、突き詰めていくとよくわからないのだから。

わからないまま、そのときどきで引き受けたいものを引き受ける。

嫌になったら考え直す。

無理なら距離をとる。

また気が変わったら、戻ってもよい。

ぼくは、そのぐらいで十分だと思っている。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学教授。思想ノートでは身近な違和感の奥にある前提を問い直し、分かり合えない世界で人間・社会・自由について考えている。

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