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役割を取り除いた先に、「本当の自分」はいるのか

自由から考える

仕事をしているときの自分と、家にいるときの自分が、ひどく違って感じられることがある。

職場では、判断する人でいなければならない。家では、家族としての役割がある。専門家には専門家らしさが求められ、親には親らしさが期待される。場面が変わるたびに、話し方も、考え方も、振る舞いも変わっていく。

そういう日々が続くと、ふと疲れる。

いったい、どれが本当の自分なのだろう。周囲の期待に応え続けているうちに、自分が何を望んでいたのかわからなくなった。本当の自分を取り戻したい。

この言葉が切実に響くことは、よくわかる。役割に合わせて振る舞い続けることは、ときに、自分の生活を自分で生きていないような感覚をもたらす。期待に応えるほど評価されるのに、内側では少しずつ息苦しくなることもある。

けれど、「本当の自分を取り戻したい」という言葉を、そのまま受け取ろうとすると、僕は少し立ち止まる。

取り戻すというからには、どこかに、まだ失われていない本当の自分がいることになる。仕事や家族や社会から与えられたものを一つずつ取り除いていけば、最後に、何にも影響されていない純粋な自分が現れる。

本当に、そうなのだろうか。

役割は、自分の外側にあるだけではない

僕にも、管理職、教育者、研究者、作業療法士など色々な役割がある。管理職として組織全体を考えるときと、教育者として一人の学生に向き合うときでは、重視するものは同じではない。研究者には根拠を問い続ける慎重さが求められ、作業療法士には目の前の人の生活に応答する実践的な判断が求められる。それぞれの役割には、求められる判断や責任があり、そこで使う言葉も少しずつ違う。

では、それらをすべて取り去れば、役割をもつ以前の僕が現れるのかというと、たぶんそうではない。

作業療法に関わらなければ、僕は人間の生活を、いまと同じようには見ていなかっただろう。研究を続けていなければ、問いの立て方や、確かめ方への感覚も違っていたはずだ。書くことを続けてきた時間も、自分の考え方をかなり形づくっていると思う。

役割は、身体の外側に貼られた名札ではない。その役割を引き受け、何かをし、誰かと関わり、失敗したり考え直したりするうちに、ものの見方や感じ方そのものが変わっていく。

親になる前と、親になった後では、自分が大事だと思うものが変わることがある。仕事を始める前には気づかなかった責任を、仕事の中で知ることもある。ある関係を生きたからこそ、それまで知らなかった自分の弱さや欲望が見えてくる場合もある。

だとすれば、役割を剝がせば、影響を受ける以前の自分に戻れるという考え方は、少し怪しくなる。

そもそも、人が社会や他者から影響を受ける以前の状態を、僕らは経験できるのだろうか。人は、生まれたときから身体をもち、誰かに世話をされ、言葉を覚え、生活の仕方を身につけていく。自分について考えるための言葉でさえ、自分一人でつくったものではない。

社会から独立した自分が存在するかどうかを確かめようとしても、確かめる僕自身が、すでに社会の中で形づくられている。その外側に出て、影響を受ける前の自分と、いまの自分を並べて比べることはできない。

「本当の自分は存在するのか」という問いが難しいのは、答えが見つかっていないからではない。比べることのできない二人の自分を比べようとしているからではないか。

つくられた自分は、偽物なのか

ここまで考えると、今度は反対の問題が出てくる。

自分が他者や社会との関係の中で形づくられたのだとすれば、自分の考えや望みは、すべて社会に与えられたものなのだろうか。自分で選んだと思っている生き方も、結局は、周囲の期待や過去の経験に動かされているだけなのか。

もしそうなら、自分らしさについて考えること自体が無意味になってしまう。

僕は、そこまでは言えないと思う。

社会の影響を受けていることと、自分の選択が存在しないことは、同じではないからだ。たとえば、誰かの言葉に影響されて選んだ仕事であっても、その仕事を続ける中で、自分なりの意味を見いだすことがある。反対に、子どもの頃から強く望んでいた仕事でも、実際に続けるうちに、自分の生活を損なっていると気づくことがある。

外から与えられたか、自分の内側から生まれたか。それだけで、その選択が自分のものかどうかは決まらない。

考えてみれば、自分の内側から自然に湧いてきたように感じる欲望でさえ、どこから生じたのかを完全に説明することは難しい。憧れ、恐れ、習慣、記憶、身体の状態、周囲の評価。さまざまなものが入り込んでいる。

それでも僕らは、すべての選択を同じようには経験しない。

引き受けていると感じられる選択がある。誰かに決められたまま生きていると感じる選択もある。以前は自分で選んだはずなのに、いまではただの義務になっているものもある。望んで始めたことをやめることで、ようやく自分の生活が戻ってくる場合もある。

この違いは、選択の起源だけでは説明できない。

大事なのは、その選択が誰の影響も受けていないことではなく、いまの自分が、その選択との関係を問い直せるかどうかなのだと思う。

探す問いから、選び直す問いへ

「本当の自分はどこにいるのか」と問い続けると、いまの自分は、いつまでも仮の姿になってしまう。

仕事をしている自分は、本当ではない。家族に気をつかう自分も、本当ではない。人に合わせている自分も、本当ではない。そのように考えるほど、自分の現実の生活は、純粋な自分を覆い隠す不純物のように見えてくる。

けれど、僕らが生きられるのは、いつも、この不純に見える生活の中だけだ。

誰かと関わり、役割をもち、何かをしながら一日を過ごす。身体は疲れ、時間には限りがあり、自分の選択は他者の生活にも影響する。そこから切り離された自分を探しても、実際に生きる場所には戻ってこられない。

それなら、問いを少し変えたほうがよい。

社会や他者の影響を取り除いた先に本当の自分がいるのか、ではない。どのような関係や行為の中で、僕らは「これは自分が選んでいる生き方だ」と確信できるのか、と問う。

この問いなら、現実の生活の中で考えられる。

いま担っている役割は、何を可能にし、何を難しくしているのか。その役割を引き受けることで、何を守ろうとしているのか。かつて選んだ生き方を、いまも自分のものとして引き受けたいと思えるのか。変えたいと思ったときに、変える余地は残されているのか。

ここでいう確信は、迷いがなくなることではない。

家族を大切にしたい気持ちと、一人で過ごしたい気持ちが、同時に存在することはある。仕事に意味を感じながら、そこから離れたいと思うこともある。人の期待に応えたい気持ちを、ただの他人軸として切り捨てる必要もない。誰かの期待に応えることが、自分の喜びになる場合もあるからだ。

矛盾した思いがあるから、偽物なのではない。

むしろ、自分を一つの欲望や一つの役割にまとめようとするほうが、人間の実際から離れているのかもしれない。人は、状況によって変わり、関係によって違う面を見せ、時間の中で考えを変えていく。その変化を、すべて裏切りとして扱う必要はない。

自分らしさとは、いつまでも変わらない性質ではなく、変わっていく自分の中に、ある程度納得できるつながりをつくることなのだと思う。

選び直せない場所で、自己責任を語らない

ただし、「自分で選び直せばよい」と言うだけでは、話はかなり危うい。

役割から離れたいと思っても、簡単には離れられないことがある。生活費が必要である。家族の介護がある。職場の立場がある。辞めれば、別の誰かに負担が移る。異議を唱えれば、不利益を受ける場合もある。

選択には、条件がいる。

時間、収入、情報、支援してくれる人、失敗しても戻れる場所。役割を降りても生活が壊れないための制度。自分の考えを言っても、罰を受けない関係。そうしたものがなければ、「自分の人生なのだから、自分らしく選べ」という言葉は、選べない人に責任を押しつけるだけになる。

だから、自分らしく生きられない苦しさを、本人の勇気や覚悟の不足だけで説明してはいけない。自分との関係を選び直す可能性は、個人の内面だけでなく、その人が置かれている関係や制度によっても大きく変わる。

同時に、社会の影響を理由に、自分の判断をすべて手放してよいわけでもない。完全には自由に選べなくても、何に従い、何を拒み、どこまで引き受けるのかを考える余地が、まったくなくなるとは限らない。

自由は、影響を受けないことではない。

自分が何に影響され、何に支えられ、何によって選択を狭められているのかを見つめ、その条件の中で、自分と周囲の生活を壊しすぎない関わり方を探し直せることだと思う。

自分は、見つかるものではなく、引き受け直される

役割に疲れたとき、そこから離れる時間は必要だ。

誰かの期待に応えなくてよい場所で過ごすことで、ようやく気づけることもある。自分がどれほど無理をしていたのか。何を嫌だと思っていたのか。何を失いたくなかったのか。距離を取らなければ見えないものは、たしかにある。

けれど、そこで見つかった気持ちだけが、本当の自分なのではない。

静かな場所で感じたことも、仕事の中で必死に考えたことも、家族を気づかって飲み込んだ言葉も、誰かに反発して生まれた感情も、その時点の自分を形づくっている。どれか一つだけを純粋な自己として選び出すことはできない。

本当の自分を探すという問いは、役割に押しつぶされそうな人を支えることがある。「いまの役割が、あなたのすべてではない」と知らせてくれるからだ。その意味まで捨てる必要はない。

ただ、その言葉を、自分の奥に変わらない核が眠っているという意味で受け取ると、いつまでも見つからないものを探し続けることになる。

役割は、自分のすべてではない。けれど、自分とは無関係な偽物でもない。

いまの僕らは、さまざまな関係や役割を生きてきた結果として、ここにいる。そのすべてを肯定する必要はない。引き受け直せるものもあれば、もう手放したほうがよいものもある。自分一人では変えられず、周囲や制度の力を借りなければならないこともある。

その違いを見つめるところから、自分との関係は始まる。

本当の自分は、役割をすべて取り除いた最後の場所で、発見されるものではないのだ。いまの自分が何によって形づくられ、何を受け入れ、何を拒み、これから何を選び直そうとしているのか。そのつながりを、完全ではないまま引き受けていく。

明日、考えが変わるかもしれない。以前の選択を、やり直したくなるかもしれない。それでも、そのたびに自分との関係を結び直すことはできる。

自分は、見つけて終わるものではない。

生きているかぎり、何度も引き受け直されるものなのだと思う。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学・教授。思想ノートでは、信念対立、作業療法、研究等を手がかりに、分かり合えない世界で人間・社会・自由についてどう考えるかを書いていきます。

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