「お前が言うな」という批判は、たいてい間違っている。
いきなりこんなことを書くと、「いやいや、お前だけには言われたくない、ということは実際にあるだろう」と思う人がいるかもしれない。
それは、完全にその通りである。
ぼくだって、散々好き勝手やってきた人から急に「人に迷惑をかけないようにしなさい」と説教されたら、「いや、お前が言うな」と思う。たぶん皆さんも似たような経験はあるだろう。
なので、「お前が言うな」はいつも間違っている、という話ではない。
けども、ここはわりとややこしい。
「お前が言うな」と思ったからといって、相手が言っている内容まで間違っているとは限らないからである。
言っていることが正しいかどうかは、ひとまず別問題である
たとえば、ものすごいヘビースモーカーが「タバコは身体によくない」と言ったとする。
「お前が言うな」と思う。
それはわかる。
けど、本人がタバコを吸いまくっているからといって、「タバコは身体によくない」という話まで間違いになるわけではない。
約束をよく破る人が「約束は守った方がよい」と言った場合もそうである。
「まずお前が守れ」とは思う。
でも、約束を守った方がよいかどうかは、その人が約束を守っているかとは別に考えることができる。
こんな感じで、発言者がポンコツだからといって、発言内容までポンコツになるとは限らない。
要するに、「何を言っているか」と「誰が言っているか」はいったん分けた方がよい、ということである。
内容が妥当かどうかを考えているときに、「でも、お前もやっているじゃないか」と返しても、内容そのものに反論したことにはならない。
そこはさしあたり押さえておいた方がよい。
けども、誰が言っているかはどうでもよいわけではない
では、「誰が言ったかなんて一切関係ない。内容だけ見ればよい」のか。
ぼくは、それも違うと思っている。
コミュニケーションでは、意味が文脈で変動するからである。
以前からぼくは、コミュニケーションの難しさはここにあると思っている。同じ「お前アホやろ」でも、冗談ばかり言いあえる間柄で爆笑しながら言えばツッコミになるし、上司が部下のミスに対して恫喝するように言えばまったく別の意味になる。
言葉だけ取り出せば同じである。
けど、意味は同じではない。
文脈はふわふわ移ろっていくので、意味もそれにともなってふわふわ変わりうる。
そして、「誰が言ったか」も文脈の一部である。
たとえば、いつも自分だけ遅刻する上司が、部下に向かって「社会人なんだから時間ぐらい守りなさい」と言ったとする。
「時間を守った方がよい」という内容だけなら、おそらく妥当である。
けど、部下が「お前が言うな」と思うのも、これまた自然である。
なぜか。
その言葉が単なる一般論ではなく、「お前は時間を守れ。ぼくは守らなくてもよい」という上下関係のなかで発せられているからである。
これでは話が変わってくる。
同じ言葉でも、関係の履歴が違えば意味は変わる
さらに言えば、言葉にはそれまでの人間関係がべったりくっついている。
人間関係は、その瞬間だけでできているわけではない。
必要以上に虚勢をはらない。しょうもない嘘をつかない。無下に約束を破らない。失敗したら誠実に対応する。
そういうことを地道に着々と重ねながら、信頼関係はできていく。
逆もそうである。
何度も嘘をつく。
約束を破る。
人によって態度がころころ変わる。
自分に都合が悪くなったら話を変える。
そういうことが積み重なれば、同じ言葉でも胡散臭さがにじみ出る。
「あなたのためを思って言っている」
信頼している人から言われれば、「厳しいけども、本当に自分のことを考えてくれているのかもしれない」と感じることがある。
けど、普段から自分の都合で他人を動かそうとする人に同じことを言われたら、「また支配しようとしているな」と感じるかもしれない。
言葉は同じである。
意味が違う。
だから、「内容だけ見ればよい」というのも、コミュニケーションを考えるうえではちょっと乱暴なのだ。
人間の発言は、辞書に書いてある文章が宙に浮いているわけではない。
その人の身体に根ざした発言として、関係のなかに出てくる。
なので、誰が、誰に、どんな関係で、どういう状況で言ったのかによって、意味は変動する。
「お前が言うな」が妥当になるとき
ここまで考えると、「お前が言うな」がわりと妥当になる場面も見えてくる。
単に事実を述べているだけなら、発言者が誰であるかはそれほど重要ではない。
けど、その人が自分を棚に上げて、他人だけを統制しようとしているなら話は別である。
たとえば、自分は好きなように休む上司が「部下は簡単に休むべきではない」と言う。
自分は人の意見を聞かない人が「もっと人の話を聞いた方がよい」と説教する。
自分は他人を散々批判するのに、自分が少し批判されたら「人を傷つける発言はやめるべきだ」と言う。
こんな場合、「お前が言うな」は単なる人格攻撃とは言い切れない。
なぜなら、「そのルールをなぜ自分には適用しないのか」という問題があるからである。
自分の常識が社会の常識。
自分の考えがみんなの考え。
自分には例外を認めるけども、他人には認めない。
そういう暗黙の前提があるなら、それを問題にすることには意味がある。
正しさを武器にして他者を統制しようとするとき、「お前自身はどうなのか」と問い返すことは必要である。
でないと、正しいことを言っているように見せながら、実際には自分に都合よく人を支配することができてしまう。
それはわりと危ない。
ただし、首尾一貫していないからダメとも限らない
けど、ここでも話は終わらない。
人間は変わるからである。
昔は散々失敗した。
昔は自分も同じことをやっていた。
けど、痛い目にあって、「これはやめた方がよい」と考えるようになった。
そういうことも普通にある。
むしろ、自分が失敗したからこそ言えることもある。
昔めちゃくちゃ働いて身体を壊した人が、「そんなに働いたらダメだ」と若い人に言う。
これに「お前も働いていただろ」と返したら、ちょっと変である。
本人は、自分がやったからこそ言っているのかもしれない。
ぼくたち人間には首尾一貫したいという欲望がある。
昨日こう言ったなら、今日も同じことを言え。
昔こう生きていたなら、今も同じように生きろ。
そう思ってしまう。
けど、首尾一貫性にこだわりすぎるのもおかしい。
考えが変わってもよい。
間違いに気づいたら修正すればよい。
昔の自分と矛盾したって、それで考えが少しマシになるなら、その方がよいではないか。
なので、「昔お前もやっていた」というだけでは、「お前が言うな」が成立するとは限らない。
これも結局、程度問題である。
問題は、何を言っているかだけでも、誰が言っているかだけでもない
こういう話になると、どちらか一方に整理したくなる。
「人ではなく内容を見ろ」
これは半分正しい。
「誰が言うかが大事だ」
これも半分正しい。
けど、どちらかだけでは足りない。
内容が妥当かどうかを考えるなら、発言者の人格だけを攻撃してもしょうがない。
一方、その言葉が人間関係のなかで何をしているのかを考えるなら、誰が、どの立場から、誰に向かって言っているかを無視できない。
意味は文脈で変動する。
しかも、その文脈には、立場、関係性、これまでの履歴、欲望、信頼などいろんなものが入っている。
だから、同じ言葉を言っても、同じ意味にはならない。
「お前が言うな」と感じたときは、秒速で相手の発言を捨てる前に、ひとまず何が引っかかっているのか考えた方がよい。
言っている内容がおかしいのか。
自分だけ例外にしていることがおかしいのか。
これまでの言動とのズレが気になるのか。
立場の強さを使って押しつけているのが嫌なのか。
それとも、単純にその人が嫌いなのか。
最後の可能性だって普通にある。
人間なので、嫌いな人が正しいことを言っていたら、それだけで腹が立つこともある。
でも、嫌いだから間違っているわけではない。
逆に、正しいことを言っているから、その人の振る舞いまで正当化されるわけでもない。
「お前が言うな」は、正しいときもあるし、間違っているときもある。
結局、ときと場合によりけりである。
ただ、その言葉が出てきたときには、内容と人間関係がごちゃっと混ざっている可能性が高い。
だからこそ、いったん分けて考える。
分けたうえで、また一緒に考える。
そういう粘り気のある思考が必要なんじゃないかと思う。