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違う意見が、悪意に見えるとき

社会を考える

会議で、自分が出した案に反対意見が出る。

相手は、「その方法ではうまくいかないと思います」と言っただけかもしれない。それなのに、なぜか胸の奥がざわつく。この人は、こちらの考えをまともに受け止めるつもりがないのではないか。こちらを困らせようとしているのではないか。そんな疑いが浮かんでくることがある。

反対の立場になることもある。こちらは意見を述べただけなのに、「攻撃された」「悪意がある」と受け取られてしまう。何が問題だったのかわからないまま、話し合いが止まってしまう。

なぜ僕らは、違う意見を悪意として受け取ってしまうのだろうか。

もっと冷静に、意見と人格を分ければよい。そう考えることもできる。たしかに、ある考えに反対することと、その人自身を否定することは同じではない。

けれど、人は自分の意見を、自分とは無関係なものとして持っているわけではない。

意見の奥にあるもの

昼食に何を食べるかという話なら、意見が違っても大きな問題にはなりにくい。「僕はそばがいい」「私はカレーがいい」で終わることも多い。自分の希望が通らなくても、自分自身を否定されたとは感じないからだ。

ところが、仕事の進め方、子育て、介護、教育、安全、公平さ、政治のような話になると、同じようにはいかない。そうした意見には、これまでの経験や努力だけでなく、自分が何を大切にして生きてきたのかまで結びついている。人が日々行っていることは、アイデンティティを支えているのだ。

自分なりに責任をもって続けてきた仕事の方法を否定されたとき、表面では方法について話していても、「これまでやってきたことには意味がなかった」と言われたように感じることがある。家族のために選んだことを批判されれば、「家族を大切にしてきた気持ちまで否定された」と受け取るかもしれない。

このとき、相手は一つの意見に反対しただけかもしれない。けれど、反対された側には、それ以上のことが起きている。

意見と自分の生き方が強く結びついているほど、意見への反論は、自分自身への反論として感じられやすい。その意見が職場での役割や周囲との関係にも結びついていれば、「自分はこの場所に必要とされていないのではないか」と感じることさえあるだろう。

だから、違う意見が悪意に見えるのは、感情的になっているからと単純化できない。反論によって、自分が大切にしてきたものまで失うように感じるからだと思う。

相手に悪意があると考えれば、自分が苦しくなった理由も説明しやすい。自分が動揺したのは、考えが間違っていたからではない。相手が傷つけようとしたからだ。そう考えれば、自分が大切にしてきたものを、ひとまず守ることができる。

悪意という説明は、複雑な状況をわかりやすくする。相手は攻撃する側で、自分は攻撃された側だと整理できるからだ。

ただし、そのわかりやすさによって、見えなくなることもある。相手の意見に検討する価値があったかもしれないことや、自分が本当は何を失うと感じたのかを、考えなくても済むようになる。

傷ついたことと、悪意があったこと

ここで、二つのことを分けて考える必要がある。つまり、相手の言葉によって傷ついたことと、相手が傷つけるつもりだったことは、同じではないのだ。

傷ついたという経験は、本人に実際に起きている。「そんなつもりではなかった」と言われても、その痛みがなくなるわけではない。一方で、自分が傷ついたという事実だけから、相手に悪意があったと決めることもできない。

人は、悪意がなくても他者を傷つけることがある。自分では正しい意見を述べているつもりでも、相手の努力を軽く扱ったり、皆の前で恥をかかせたり、発言しにくくさせたりすることがある。

だから、「悪意はなかった」と言えば、それですべてが終わるわけではない。悪意がなくても、自分の言葉が相手にどのような影響を与えたかについては考える必要がある。

反対に、強く傷ついたからといって、すべての反対意見を攻撃とみなせば、意見の内容を検討することができなくなる。相手が何を言っても、「自分を否定した」という意味にしか聞こえなくなるからだ。

ここには、別々の二つの問いがあると思う。一つは、なぜその意見が、自分には敵意として感じられたのかという問いである。もう一つは、その感覚をもとに、相手には本当に悪意があったと判断できるのかという問いだ。

この二つを混ぜると、話し合いは進まなくなる。「私は傷ついた」と言う人に、「悪意はなかった」と返しても、傷ついた経験に答えたことにはならない。反対に、「私は傷ついたのだから、あなたには悪意があった」と言っても、相手の意図を確かめたことにはならない。

互いに違う問題について話しているのに、同じ問題を争っているつもりになってしまう。

悪意はどこから判断するのか

では、相手に悪意があるかどうかは、何を見て判断すればよいのだろう。

相手の心の中を直接見ることはできない。それでも、何も判断できないわけではない。一つの発言だけでなく、誰に対して、どのような行為が繰り返されているかを見ることはできる。

特定の人にだけ侮辱的な言葉を向ける。反論する機会を与えない。人前で繰り返し恥をかかせる。相手が嫌がっているとわかった後も続ける。誤解を指摘されても確かめようとせず、相手を黙らせようとする。

こうした行為が続くなら、素朴に「意見の違いだった」と考えることは難しくなる。相手の内面を完全に見抜けなくても、その行為から安全な関係ではないと判断し、距離を取ることはできる。

反対に、相手が理由を説明し、こちらの話も聞き、誤解があれば修正しようとするなら、意見が厳しいからといって、それだけで悪意があるとは言えない。

つまり、悪意を判断する手がかりになるのは、自分がどれだけ傷ついたかだけではなく、相手が何を繰り返し、指摘された後にどう応じたかである。自分が傷ついたことは、自分の経験として大切に扱う。しかし、その経験だけで相手の内面を決めつけない。相手の意図がわからなくても、実際に起きた行為から、関係を続けるべきかどうかを判断する。

このように分けて考えると、感情を無理に抑える必要も、感情だけで相手を悪人と決める必要もなくなるだろう。

違う意見を、違う意見として扱う

そう考えると、「なぜ人は、違う意見を悪意として受け取るのか」という問いは、少し分けたほうがよい。

考えるべきなのは、違う意見が、どのようなときに敵意として感じられるのか。そして、その感覚を相手の悪意だと判断するだけの根拠があるのか、ということだ。

最初の問いは、自分の経験についての問いである。

自分は、何を否定されたと感じたのだろう。意見そのものだろうか。これまでの努力だろうか。人間としての価値だろうか。その場にいる資格だろうか。

次の問いは、相手との関係についての問いである。

反対意見は、どのような言い方で伝えられたのか。自分には反論する機会があったか。指摘を受けた後、相手は態度を変えたか。同じことが繰り返されていないか。

この二つを分けると、自分がなぜ悪意を感じたのかも、相手をどう判断すべきかも、以前より考えやすくなるはずだ。

悪意を感じたことには、何らかの理由がある。その理由は、自分の考え方だけにあるとは限らない。過去の関係、職場での立場、発言する力の差、失うものの大きさが、その感覚に影響していることもある。

一方で、自分がそう感じたからといって、それがそのまま相手の本心を示しているわけでもない。

意見を意見として扱えるのは、僕らが十分に冷静だからではないのかもしれない。反対されても、自分の存在や居場所まで奪われるわけではないと感じられるとき、初めて意見を自分から少し離して眺めることができる。

だから、意見の対立が悪意の応酬に変わっているとき、意見の内容だけを整理しても、話し合いが進まないことがある。表面では案の良し悪しを争っていても、その奥では、誰の経験が軽く扱われたのか、誰がこの場にいてよいのかという問題が起きているからだ。

そこを見ないまま、「感情的にならずに議論しよう」と言えば、傷ついた側にだけ感情を処理する責任を負わせることにもなる。反対に、傷ついたことを理由にすべての異論を封じれば、話し合うこと自体ができなくなる。

違う意見を悪意として感じたとき、その感覚をすぐに否定する必要はない。ただし、その感覚と、相手には悪意があるという判断は、同じではない。その間に少し立ち止まり、自分は何を脅かされたと感じたのか、相手との関係で実際に何が起きているのかを分けて考えてみる。

そうすれば、これは単なる意見の違いだったと考え直せることもあるだろう。反対に、これは意見を述べているのではなく、相手を黙らせようとする行為だと、以前よりはっきり判断できることもある。

違う意見を、違う意見のまま扱える関係とは、意見が一致している関係ではない。意見に反対されても、自分の価値や居場所まで否定されるわけではないと感じられる関係なのだと思う。

その感覚が失われたとき、違う意見は、ただの違いではなく、悪意があるように感じはじめるだろう。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学教授。思想ノートでは身近な違和感の奥にある前提を問い直し、分かり合えない世界で人間・社会・自由について考えている。

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