違う意見は、悪意ではない。
こんなの当たり前じゃないか、と思うかもしれない。
ぼくもそう思う。
けども、実際に自分の意見を否定されると、そう簡単にはいかない。こちらはちゃんと考えて提案したのに、「それは違うと思う」と言われる。すると、ただ意見が違っただけなのに、「この人はぼくのことが嫌いなのではないか」「わざと困らせようとしているのではないか」と感じることがある。
逆もある。
ぼくは単に「その案には問題があると思う」と言っただけなのに、相手から「攻撃された」「否定された」と受け取られることもある。
人間ってほんとうにややこしい。
なぜ、ただの意見の食い違いが、こんな簡単に悪意へ変換されるのだろうか。
そもそも、ぼくらは生きている世界が違う
人間関係が難しい理由は、生きている世界が違うからである。
これはもうひっくり返しようのない事実だ。
ぼくはぼくの世界観を通してでしか他者と関われないし、他の人もその人の世界観を通してでしかぼくと関われない。同じ会議に出て、同じ資料を読んで、同じ話を聞いていても、同じ世界を見ているわけではない。
だって、それまで生きてきた人生が違う。
経験も違う。知識も違う。立場も違う。大切にしているものも違う。何に困っているかも、何を恐れているかも違う。
世界は欲望相関的にしか認識できない。
簡単に言えば、ぼくらは自分が気にしていることを手がかりに世界を見ている、ということだ。
だから、同じものを見ても意見が違う。
これは基本である。
どんなに愛しあっても、どれほど長く一緒に働いても、自他の世界観が溶けあって一体化することはない。究極のところ、わかりあえないところはどうしたって残る。
なので、意見が食い違うこと自体は、それほど特別なことではない。
「あぁ。あなたはそう思ったのね」で終わる話も、ほんらいはいっぱいある。
けど、なかなかそうならない。
意見には、自分の生きてきた世界がくっついている
たとえば、「今日のお昼はカレーにしよう」「いや、ぼくはラーメンがいい」という話なら、たぶん大して揉めない。
「そうなんだ」で終わる。
けども、仕事のやり方、教育、子育て、人間関係、政治、正しさ、公平さみたいな話になると、話は変わってくる。
なぜか。
そういう意見には、その人が生きてきた世界がべったりくっついているからである。
長年やってきた仕事の方法について「そのやり方は良くない」と言われたら、方法だけを否定されたとは感じないかもしれない。
「今まで自分がやってきたことは何だったんだ」「自分の努力をバカにしているのか」「こいつはぼくを認める気がないんじゃないか」などというふうに受け取ることもある。
もちろん、相手はそこまで言っていない。
単に「その方法は良くない」と言っただけである。
でも、受け取る側では話が膨らむ。
意見の否定が、自分の経験の否定になり、自分の経験の否定が、自分自身の否定になっていく。
こんな感じで話が膨らんでいけば、ただの意見の食い違いだったものが、いつの間にか「攻撃された」に変わる。
そして、その先に「相手には悪意がある」が出てくる。
これはわりと自然な流れなのだと思う。
傷ついたからといって、相手に悪意があるとは限らない
ここでややこしい問題がある。
自分が傷ついたことは事実でも、相手に悪意があったとは限らない、ということである。
これは分けた方がよい。
誰かに「その考えはおかしい」と言われて傷ついた。
これは実際に傷ついているのだから、「傷つく必要なんてない」と言われてもしょうがない。痛いものは痛い。
けども、「ぼくは傷ついた。だから、あいつはぼくを傷つけようとしたに違いない」となると、ちょっと飛躍がある。
悪意がなくても、人は他人を傷つけるからである。
ぼくだってそうだ。
自分では普通に話しているつもりでも、知らないところで誰かを傷つけていることはあるだろう。そんなこと一度もない、と言えるほど立派な人間ではない。
なので、自分が傷ついたからといって、そのまま相手の悪意を確定することはできない。
しかも、不安が強かったり、人間関係で嫌な経験が続いていたりすると、ただの意見の食い違いを、現実よりも過剰に揉め事として捉えてしまうこともある。
ちょっと反対された。
「嫌われている」
少し強い言い方をされた。
「攻撃された」
自分と違う案を出された。
「自分を潰そうとしている」
こういう変換が絶対にないとは言い切れない。
だから、相手の悪意を感じたときほど、自らの可能性もちょびっと疑った方がいい。
もしかしたら、本当に悪意があるのかもしれない。
でも、もしかしたら、ただの意見の食い違いかもしれない。
ひとまず、そのぐらいの幅を残しておく。
それだけでもずいぶん違う。
けども、本当にヤバい人もいる
では、何でも「ぼくの受け取り方の問題かもしれない」と考えればよいのか。
もちろん、そんなことはない。
それをやると、今度は本当にヤバい人から攻撃されているのに、「自分が気にしすぎなのかなぁ」と耐え続けることになる。
それもダメである。
人間なら誰でも、機嫌が悪い日はある。ちょっと強い言い方をすることもあるし、他人の悪口を言うことだってある。
けど、それも程度問題である。
いつも特定の人だけを攻撃する。
人前で繰り返しバカにする。
反論するとさらに立場を使って押さえつける。
自分の常識が社会の常識、自分の考えがみんなの考え、みたいな感じで服従を求めてくる。
自分にとっての正しさを一般化して、それに合わない他者を攻撃する。
こんなことが繰り返されているなら、「単なる意見の食い違いだから気にしなくていい」とさらっと流してはいけない。
正しさは、ときに人を攻撃するための武器になる。
「自分は正しい。だから、お前を攻撃してもよい」
こんな理路になっていたら、もう普通の意見交換ではない。
そういう相手とは、わかりあおうと無理に頑張らなくてもよい。
距離をとれるなら、さくっと距離をとる。
立場上それが難しいなら、別の人に入ってもらう。
人間関係は、何が何でも修復すればよいものではない。
危ないものから離れるのも立派な対処である。
わかりあえないから、はじめるしかない
ぼくは、人間関係を考えるときに「わかりあえる」という前提を置きすぎない方がいいと思っている。
「ちゃんと話せばわかりあえる」
聞こえはいい。
けど、それを前提にすると、わかりあえなかったときに簡単にトラブル化する。
ちゃんと説明したのに、わかってくれない。
これだけ話したのに、意見を変えない。
だったら、こいつには悪意があるんじゃないか。
そんな感じで信念対立の螺旋に入りこんでいく。
そもそも生きている世界が違うのだから、わかりあえないところがあるのは当たり前である。
相手がぼくと違う意見をもっている。
それは、相手がぼくを嫌っていることを意味しない。
ぼくが相手と違う意見をもっている。
それも、相手を否定していることを意味しない。
「意見が違う」と「悪意がある」の間には、かなり広い隙間がある。
そこを秒速で飛び越えない方がよい。
もちろん、本当に悪意がある場合はある。
だから、何でも「意見の違いですね」で済ませる必要もない。
結局、ときと場合によりけりである。
自分が傷ついたことは、傷ついたこととして認める。
けど、それだけで相手を悪人にしない。
相手の言動が繰り返し自分を傷つけ、こちらの自由を奪おうとしているなら、それはそれで警戒する。
このぐらいがちょうどよいのではないか。
人はそれぞれ固有の生を生きている。
だから、意見が違う。
意見が違えば、ときに傷つく。
それはもうしょうがないところがある。
でも、違う意見をすべて悪意に変換していたら、ぼくらは自分と同じことを考える人としか一緒にいられなくなる。
そんな社会は、たぶんかなり息苦しい。
わかりあえないから、はじめるしかない。
ぼくはそのぐらいの感度で、違う意見と付き合っていけばよいと思っている。