布団から出られない朝がある。
働きたくない。もうずっと寝ていたい。何もしたくない。けれど、このままではまずいという感覚だけは消えない。
この「したくない」と「まずい」がせめぎ合う感覚を、多くの人が知っている。厄介なのは、この状態を説明する言葉のほとんどが、人を「甘え」か「病気」かのどちらかにすぐ振り分けようとすることだ。甘えだと言われれば追いつめられるし、病気だと診断名をもらっても、それだけで朝が軽くなるわけではない。
こうした自己啓発的な記事は、たいてい最後に、意志の話ではなく行動の話をしようとする。それ自体は、悪い方向ではないと思う。ただ、その行動の作り方をよく見ていくと、思っていたより厄介な問いが顔を出す。この二択の外側に、まだ考えるべきことが残っている気がする。
「捨てればいい」という助言の、奇妙な説得力
布団を捨てろ。ゲーム機を捨てろ。スマホを手放せ。そういう助言を目にしたことがあるかもしれない。意志の力に頼るのではなく、環境を変えれば行動は変わる、という理路である。
この理路は、たぶん正しい。人は、自分で思っているよりずっと、身の回りにあるものに動かされている。布団があれば、そこに沈む。ゲーム機があれば、指がそこへ伸びる。目の前にあるものが、次にする行動をかなりの部分まで決めてしまう。実際、寝転がる場所さえなくなれば、人はしぶしぶでも起き上がる。環境をつくり替えると、行動の形は本当に変わることがある。
人間と環境と作業が絡み合って一つの生活をつくるという発想は、僕が長く関わってきた作業療法の考え方とも重なるところがある。だからこの助言を、根拠のない精神論とは思わない。むしろ、意志に頼らなくていいと言い切っている分だけ、誠実な助言だとさえ思う。「気合いを入れろ」と言われるより、よほど扱いやすい。意志という、実体のよく分からないものに責任を背負わせずに済む。
けれども、ここで少し立ち止まりたくなる。
動きたくなかった自分は、どこにいたのか
環境を変えるだけで行動が変わるのだとしたら、「働きたくない」と思っていた自分は、いったいどこにいたのだろうか。
普通、「したくない」という気持ちは、自分の内側にある性質として感じられている。怠け癖。意志の弱さ。性格。そう名指されることが多い。けれども、布団を片づけただけで人が動きはじめるのなら、その「したくなさ」は、本人の内側だけに属していたものではなかったことになる。
したくなさは、本人と、布団と、ゲーム機と、そこに積み重なっていた時間が、ひとまとまりになって、はじめて成立していたものかもしれない。だとすれば、動けない自分を責めることにも、環境のせいにするなと本人を叱ることにも、同じくらい無理がある。責めるべき一点としての意志など、最初からどこにもなかったことになるからだ。
これは、意志を否定する話ではない。意志が、単独では機能しないという話である。文章を書く手が止まっているとき、僕自身、机の上を片づけただけで、書けなかった続きが動き出すことがある。あのとき動いたのは、意志だったのか、机だったのか、正直なところ、うまく切り分けられない。
そもそも、その部屋にゲーム機がなかったとしたら、この「働きたくない」という悩み自体、いまとは違う形をしていたかもしれない。悩みの中身までもが、身の回りにあるものによって、静かに形づくられている。
「働かないのはよくない」という感覚も、僕たちがどこかで身につけたものだ。いつ、どこで、というのははっきりしない。ただ、この感覚が、いつの時代にも同じ強さで人を縛っていたわけではないだろうことは、想像できる。そう考えると、自分を怠けていると裁いている物差しそのものも、環境の一部なのだと思う。自由に近づく道は、意志を鍛え直すことではなく、身の回りの配置を変え、そこから自分がどう動きはじめるかを確かめ直すことなのかもしれない。
「何もしたくない」は、実は何もしていないわけではない
もう一つ、見落とされやすいことがある。
働きたくない、ずっと寝ていたいという人も、実際には何もしていないわけではない。昼ごろに起きて、ご飯を食べて、ゲームをしたり、動画を見たりしながら一日を過ごす。そこにあるのは、何もない空白ではなく、別の種類の作業がぎっしり詰まった時間である。
つまり起きているのは、作業がゼロになることではなく、生活の重心が抵抗の少ない作業へ寄っていくことだ。仕事や勉強のように、段取りや責任がともなう作業から、手を伸ばせばすぐに反応が返ってくる作業へ、比重が移る。これは意欲が消えたということではなく、意欲が向かう先が変わったということに近い。疲れきった身体が、負荷の低い作業を選んでいるだけだとも言える。
だから、「何もしたくない」という言葉を字義通りに受けとると、見えるはずのものが見えなくなる。本当に見るべきなのは、その人が何をやめたのかではなく、その人がいま、どんな作業に囲まれて生きているのかの方だ。ゲームや動画を、意志の弱さの証拠として片づけてしまうと、その人がまだ何かをし続けているという事実そのものを見落とす。何をやめさせるかではなく、何と入れ替えるかを考えたほうが、生活としては筋が通っている。
働き方を選べば自由になる、という話の手前
会社員という働き方を離れ、個人で事業を営む方向に移れば、早くに働かなくてよい生活へ届くかもしれない、という話を耳にすることがある。これも、一つの現実的な道筋ではあるのだろう。
ただ、ここで自由と呼ばれているものが、実際には何を指しているのか、確かめておきたくなる。会社員という立場から降りることは、それ自体では自由を保証しない。降りた先に、別の締め切り、別の評価者、返済すべき別の何かが待っていることは、珍しくない。立場の名前が変わっただけで、環境に動かされる構造そのものは、そのまま残ることがある。
自由に近いのは、会社員か個人事業主かという分類そのものではなく、いまの環境や作業の組み方を、自分がどこまで選び直せているか、という度合いの方だと思う。肩書きを変えることと、生活の重心を自分の手で動かせるようになることは、重なることもあれば、まったく重ならないこともある。
「怠け」と「病」は、内側からは見分けにくい
これはうつかもしれない、と気づいたなら、そう思った時点で病院に行けばいい、という言い方もよく聞く。これは正しい忠告だと思う。ただ、この忠告が前提にしていることには、もう少し注意がいる。
これはうつかもしれない、と気づけるのは、自分の状態をある程度外側から眺められるときだけである。目の前の自分を「ただの怠けだ」と信じきっているとき、その信じ方そのものが、すでに環境と習慣によって形づくられた「したくなさ」と、同じ場所から生まれている。そうなると、これは怠けか病かという判断を、その渦中にいる本人だけで下すのは、思っているより心もとない。
人は、自分の状態に対して、それほど透明ではない。しかも、この境界線を引きたがるのは、本人だけとは限らない。早く働いてほしい家族は「甘え」だと線を引きたがるし、休ませたい側は「病」だと線を引きたがる。その誰の線も、本人の内側にある「本当の状態」をそのまま映しているわけではない。それぞれの立場から見やすい形に、切り分けられているだけのことも多い。
だから、うつかもと思うかどうかを、人に頼る条件にしすぎない方がいい。疑わしいと確信できてから動くのではなく、確信できないという事実そのものを、人に話す理由にしていい。外側の目は、贅沢な選択肢ではなく、内側からは届かない場所を埋める役割を持っている。
考えてみれば、これは布団やゲーム機の話と、根っこでつながっている。行動が環境によって動かされるものなら、人に会う、人に話すという行為も、その人を取り巻く環境の一部である。だとすれば、病院や信頼できる相手に頼ることは、意志を放棄することではなく、動きはじめるための環境を、もう一つ増やすことに近い。
それでも、この理路は誰かに当てはまるとは限らない
環境を変えれば、人は動きはじめるかもしれない。ただ、動きはじめた自分が、ずっと「動きたくなかった自分」と同じ人物なのかどうかは、僕にはよく分からない。布団を片づけたあとに残るのは、変わった行動であって、証明された自分ではない。
ここまで、怠けか病かを切り分ける理路を書いてきた。だが、この理路が、いま実際に布団から出られずにいる誰かの朝に、そのまま当てはまるかどうかは、外からは判断できない。
僕にできるのは、動けなさを、意志の弱さという一点に押し込めずに済む考え方を、いくつか並べておくことくらいである。それをどう使うか、あるいは使わないかは、布団の中にいる本人にしか決められない。