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働きたくないのは、意志が弱いからなのか

2019.10.14
人間を考える

布団から出られない朝がある。

働きたくない。何もしたくない。できれば、このままずっと寝ていたい。

けど、仕事には行かなければならない。このままではまずいとも思う。

「したくない」と「しなければならない」が同時にあって、朝からしんどい。

こういうとき、「自分は怠けているのではないか」と思う人がいる。

ぼくは以前から、働きたくないという気持ちそれ自体は、そんなにおかしなものではないと考えている。

「働きたくない=甘え」という考え方は説得的かもだが、ぶっちゃけそれで終わると思考停止である。

思考停止すると対策が立てようがない。

なので、大事なのは「甘えているかどうか」を判定することではなく、どうしていま働きたくないという気持ちになっているのかを考えることである。

体調が悪いのかもしれない。人間関係にストレスを感じているのかもしれない。労働条件がめちゃ悪いのかもしれない。忙しすぎるのかもしれない。努力が成果に結びつかないのかもしれない。どうでもよい仕事が多すぎるのかもしれない。

理由は人それぞれである。

体調が悪いなら、もう休むしかない。

職場を変わると活き活き働けることもわりと普通に起こる。

だったら、「働きたくない」という気持ちをその人の性格や意志の弱さに還元する必要はない。

少なくとも、それだけで説明するのは無理がある。

人間は意志だけで動いているわけではない

例えば、朝どうしても布団から出られない人に、「布団を捨てたらいい」と助言する人がいる。

ゲームばかりしてしまうならゲーム機を捨てる。スマホばかり触るならスマホを手元に置かない。

かなり乱暴である。

けど、これはこれで理にかなっている。

なぜなら、人間は意志だけで動いているわけではないからである。

ぼくは作業療法士なので、人の生活を考えるときに、その人だけを切り取って考えることはあまりしない。

人間がいて、環境があって、そこでいろいろな作業をしている。

実際の生活は、それらが絡みあいながら成立している。

だから、布団があれば寝る。スマホが目の前にあれば触る。ゲーム機があればゲームをする。職場に行けば嫌な人がいるなら行きたくなくなる。

そんなのはわりと普通の話である。

ぼく自身、文章を書いていてまったく進まないことがある。いくら考えても書けない。

けど、机の上を片づけたり、場所を変えたりすると、普通に書きはじめることがある。

では、あのとき書けなかった原因は、ぼくの意志が弱かったからなのだろうか。

たぶん、そんな単純な話ではない。

だって、意志そのものを鍛えたわけではないのに、環境を変えたら行動が変わっているからである。

これはわりと大事なところだと思う。

布団を片づけただけで起きられるなら、「起きられない自分」という固定した人間がそこにいたわけではない。

布団がある自分と、布団がない自分で、行動が変わっている。

だったら、動けないときに自分だけを責めるよりも、自分を取り巻いている条件を変えてみた方がよい。

もちろん、「すべて環境のせいで本人には何の問題もない」と言っているわけではない。

ぼくが言いたいのは、そういうことではない。

本人か環境かの二択にする必要がない、という話である。

本人も関係しているし、環境も関係している。そこでする作業も関係している。

なので、どこか一つだけ悪者にしない方がよい。

「何もしたくない」のにゲームはできる

それと、「何もしたくない」という言葉も、そのまま受け取らない方がよいと思う。

働きたくない。勉強したくない。人に会いたくない。外にも出たくない。

けど、ゲームはできる。

YouTubeも見られる。スマホも触れる。ご飯も食べる。昼まで寝ることもできる。

だったら、何もしていないわけではない。

むしろ、いろいろしている。

ここで「ゲームはできるんだから、やっぱり甘えているだけだ」と考える人がいるかもしれない。

確かにそう見えるかもしれない。

けど、これもそこで終わると思考停止である。

ぼくらは根っこのところで欲望存在である。

物事の意味は欲望を始発点にして見いだされる。

「出世したい」と強く欲望している人なら、仕事を頑張ることに意味を感じるかもしれない。逆に「遊んで暮らしたい」と思っている人なら、同じ仕事をしていても「しんどい」と感じるかもしれない。

以前、ぼくは、本当は旅行に行きたいと思っているのに、お金もないし体力もないので、家でゲームしながらダラダラ過ごしているなら、プライベートも楽しくなくなると書いた。

ゲームが悪いわけではない。

ゲームをしている自分が、本当は何を欲しているのかが問題なのである。

「何もしたくない」も同じで、その人から欲望がなくなったとは限らない。

仕事に向かわないだけで、ゲームには向かっている。動画には向かっている。布団には向かっている。

だったら、本当に見るべきなのは、意欲があるかないかではなく、いま自分の欲望がどこへ向かっているのかではないか。

そして、いまの生活がそれとどう噛みあっているのかである。

ここを無視して、「ゲームを捨てろ」「スマホを捨てろ」とだけ言っても、たぶん別の何かに逃げるだけである。

本当は仕事そのものが嫌なのかもしれない、本当は休みたいのかもしれない。あるいは、本当は別のことをしたいのかもしれない。

だったら、そっちを考えた方がよい。

自分が興味・関心をもっていることに気づいて、それを上手に開放していく。

そのために環境を変える。

ぼくは、その順番の方が自然だと思っている。

「働かなければならない」にとらわれすぎない

もう一つ気になるのは、「働かなければならない」という考え方である。

もちろん、現実問題として、お金がないと飯を食えない。

なので、多くの人は働く必要がある。

そこを無視して「好きなように生きよう」と言ってもしょうがない。

けど、「生活のために働く必要がある」と「人間はちゃんと働かなければならない」は同じではない。

ここは分けた方がよい。

ぼくは「〜するべき」「〜しなければならない」という思い込みは、しんどさの増幅装置になりうると以前から考えてきた。

例えば、朝起きられない。

ただでさえしんどい。

そこに「社会人なら朝からちゃんと働かなければならない」「みんな頑張っているのだから自分も頑張るべきだ」「休んだらダメな人間だ」などが加わる。

そりゃ、しんどさが増える。

しかも、「もっと頑張らないと」となって、さらに自分を追い込んで詰んでいくこともある。

仕事は、本来こころ楽しく生きるための手段に過ぎない。

にもかかわらず、その手段のために自分が壊れていくなら、本末転倒である。

だったら、仕事を減らすとか、休むとか、転職するとか、働き方を変えるとか、いろいろ考えたらよい。

会社員を辞めて個人で働いたら自由になれる、という話でもない。

個人で働いても客に縛られることはあるし、締め切りに追われることもある。お金がなければ、お金にも縛られる。

なので、会社員か個人事業主かというラベルだけで自由かどうかは決まらない。

大切なのは、自分が生きたいように生きるために、いまある条件をどこまで組み替えられるかだと思う。

仕事を変える必要があるかもしれない。

自身の認識を変える必要があるかもしれない。

新しいスキルを身につける必要があるかもしれない。

どんな条件を用意したら、自分が生きたいように生きられるのか。

そこを考えていったらよい。

もちろん、現状を無視してはいけない。

現状を踏まえないと、そんなものは絵に描いた餅に過ぎない。

けど、現状追認にとどまる必要もない。

「いまこうだから、ずっとこうするしかない」と考えたら、そこで可能性は閉じる。

なので、現状は現状として受けとめながら、変えられる条件は変えていけばよい。

それぐらいの柔軟さはあっていい。

甘えか病気かは、自分だけで決められないこともある

とはいえ、環境を変えれば何でも何とかなるわけではない。

布団を片づけても動けないことはある。

仕事を変えてもしんどいことはある。

休んでも何もする気になれないことだってある。

そういう状態で、「環境を工夫したら動けるはずだ」と言われても、しんどいだけである。

実際、心身の調子を崩している可能性もある。

では、それが甘えなのか病気なのかを、自分で正確に判断できるのか。

これはわりと難しい問題だと思う。

人は、自分自身のことを何でも正確にわかっているわけではないからである。

しかも、「自分は甘えているだけだ」という判断そのものが、「ちゃんと働かなければならない」という思い込みから生まれているかもしれない。

だとしたら、その人が自分だけで「これは甘えだ」「これは病気だ」と判定することには限界がある。

なので、よくわからなければ、よくわからないまま人に話したらよい。

「病気だと確信したら相談する」ではなく、「自分でも何が起こっているのかわからない」ことを相談したらよい。

それによって、見えることが変わるかもしれない。

考えてみれば、人に相談することも環境を変えることである。

一人で考えていたところに、他者が入ってくる。

それによって、自分と環境と作業の関係が変わる。

そこから何かが動きはじめることもある。

布団から出られない朝に、いきなり自分を「怠け者」と決める必要はない。

もちろん、何でも環境や社会のせいにしたらいい、という話でもない。

自分にできることもあるし、自分ではどうにもならないこともある。

その境界だって、最初からわかるわけではない。

だったら、まずは「意志が弱い」で思考停止しないことだと思う。

なぜ動きたくないのか。

それでも何ならできるのか。

いま何に囲まれているのか。

何を変えたら少し動けそうなのか。

そこを考えて、変えられるところから変えてみる。

それで動けば、それでよい。

動かなければ、また考える。

ぼくらは意志だけで生きているわけではない。

自分と環境と、そこで行っている作業がいろいろ絡まりながら、そのときどきの生活ができている。

だったら、その絡まり方を少し変えてみたらよい。

ぼくはそう思っている。

Ph.D., OT

Thriver Project代表。吉備国際大学教授。思想ノートでは身近な違和感の奥にある前提を問い直し、分かり合えない世界で人間・社会・自由について考えている。

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