僕のところには、「人生に目標がありません。毎日がつまらないです。どうしたら目標を持てますか」という相談がよく届く。
真剣な悩みだと分かっている。茶化すつもりはまったくない。けれど、この問いをそのまま受け取って「では目標の見つけ方を」と答えるのは、たぶん間違っている。この問いには、検証されないまま滑り込んでいる前提がひとつあるからだ。
「目標がない」と「つまらない」は、ほんとうにつながっているのか
この相談、よく見るとふたつの申告がくっついてできている。「目標がない」という事実の申告と、「つまらない」という感覚の申告。そのあいだに「だから」がこっそり挿入されている。
目標がない、だからつまらない。
この「だから」を、僕はあまり信用していない。むしろ逆向きに働くことすらある。
目標を掲げている人ほど、目が死んでいることがある
昇進、資格、体重、TOEICのスコア。目標を掲げて生きている人は大勢いる。でも全員が生き生きしているかというと、そうでもない。
目標を数字とスケジュールに変換した瞬間、今日という日は「目標達成のための手段」に格下げされ、味を失っていく。目標は本来、今を照らすはずのものだ。なのに気づけば、今を測る物差しになっている。物差しは冷たい。今日どれだけ笑ったかには誰も興味を持たず、目標にどれだけ近づいたかだけが記録されていく。
逆に、これといった目標を掲げていないのに、なぜか毎日が充実している人もいる。散歩が好きで季節の変わり目に気づくのが楽しいという人。将来設計もないまま目の前の仕事に没頭してしまう人。彼らに「目標を持ったほうがいい」と忠告するのは、余計なお世話でしかない。
目標の有無と、つまらなさの有無は、そもそも別の変数なのだ。このふたつを「だから」でつないだところに、最初のつまずきがある。
では、「つまらない」の正体は何なのか
目標が原因でないとすれば、あの「つまらなさ」はどこから来ているんだろうか。
僕は、「今ここ」との接続が切れている感覚だと思っている。希望を感じられない。何にもワクワクできない。自分らしいと思える瞬間がない。この三つが失われると、人はどれほど立派な目標を掲げていても、自分の人生を外側から眺める観客になってしまう。
逆に、この三つさえ確保されていれば、目標なんてなくても、今日という日は勝手に充実していく。だとすれば、探すべきは目標ではなく、希望・ワクワク・自分らしさが失われた、その場所そのものだ。
それでも僕たちが「目標」に手を伸ばす理由
ここでひとつ、意地の悪い問いを立ててみる。「今ここが空虚だ」という感覚を抱えたとき、なぜ僕たちは真っ先に「目標を探そう」と考えるのか。
たぶん、目標のほうが扱いやすいからだ。「希望を感じられない」という状態には手すりがない。どこから手をつけていいか分からない、ぼんやりした空白だ。でも「目標がない」と言い換えた瞬間、話は急に具体的になる。目標を書き出すワークシートもあるし、逆算スケジュールの作り方も本屋に並んでいる。空白より、埋めるべき空欄のほうが、人は安心できる。
学校でも会社でも「目標を立てなさい」と教わり続けてきた僕たちにとって、これはほとんど反射になっている。空虚を感じたら、目標という名のタスクに変換する。そうすれば、少なくとも「何かに取り組んでいる自分」にはなれる。でもそれは地図が欲しいだけで、歩きたいという気持ちそのものは、まだどこにも生まれていない。
地図ではなく、歩きたい気持ちのほうを
「どうしたら目標を持てますか」ではなく、「最後にワクワクしたのはいつだったか」と自分に聞いてみてほしい。
一週間前でも、子どものころの記憶でもかまわない。そのとき周りに何があったか。誰といたか。何をしているときだったか。目標という抽象的な空欄を埋めようとするより、その具体的な瞬間の条件を思い出すほうが、よほど手がかりになる。
もちろん、これで一発解決とはいかない。大病から回復していく途中の人や、長い休職から仕事に戻ろうとしている人にとっては、目標という足場そのものが必要な場合もある。目標が悪いわけではない。目標が主人になって、生きることそのものを手段に格下げしてしまう瞬間が悪いのだ。
「人生に目標がない」ことに悩んでいるなら、まずその悩み方自体を疑ってみてほしい。目標を探す前に、あなたが最後に「今日は悪くなかったな」と思えたのはいつだったか。そこから始めるほうが、たぶん近道だ。